きよかのブログ

高等遊民を目指します。

土曜日のシミット

あなたは世界を変えたことがありますか?

 

私はあります。

 

最近、「同じものでも見方を変えると違う風に見える」という考え方を耳にするが、そういうのではなくて、本当に私はある。

 

 

今私が住むオランダの街には水曜と土曜に市場が開かれる。

 

野菜や果物、チーズなどが多いが、雑貨なども乱入しているので出店の基準は未だ謎である。

 

到着したばかりの頃はほとんど毎週末行っていた。

 

だいたい毎回同じ店が構えているが、売りものは変わるし掘り出し物もあるからだ。

 

1ヶ月か2ヶ月経った頃、私はこの市場で奇跡の再会を果たす。

 

そう、私はシミットに再会したのだ。

 

トルコの国民的パンである。

 

ドーナツのような形をしているが、れっきとしたパンである。

 

なんならドーナツがシミットを真似したのではないか?

 

パンといってもおそらく油などがふんだんに使われているのでヘルシーには程遠い。

 

ヘルシーで美味しいものなんてないからいいのだ。

 

まずシミットが人を惹きつけるのは、その形だろう。

 

あらゆる点で似たものとしてプレッツェルがあるが、シミットはそんなひねりさえも効かせていない。

 

丸だよ、だからどうした、まずは口に入れてみな!と強気である。

 

ちなみに値段は道端で売っていても一リラ(2015年当時は約五十円)くらい。

 

オプションでチョコかチーズをつけられるが、まずはそのまま食べてみてほしい。

 

どう食べるか、というのも問題である。

 

ドーナツよりは大きいので、両手で持ってがぶりといくと大きな穴の中に顔を突っ込む形になり、勢い余ると目や鼻にぶつかる可能性がある。

 

そしてごまがまぶしてあるので、口の周りに付きやすい。

 

歩きながら食べているときは要注意だ。

 

カモメもあなたのシミットを狙っていることがある。

 

第二の方法というよりも主流はちぎりながら食べる、というもの。

 

この良い点は先述したトッピングをつけやすいことにある。

 

あと言うまでもなく見た目が上品だ。

 

シミットのトッピングはかけるものではなく、給食などで配られるようなプラスチックの小さな市販のソースであり、ディップするものだ。

 

これを毎回ちぎるたびにソースが毎ちぎりことに平等につけられるよう非常に気をもむ。

 

サイズにも問題がある。

 

一個だと少し物足りないが、二個目は直後に食べたくない。

 

二人で分けるには絶対足りない。

 

友達とかには絶対あげたくない。

 

自分で買ってください!と怒りたくなる。

 

ちぎる大きさで私のケチ具合が相手にわかってしまうのも嫌だ。

 

そうなったらやはりかぶりついて分ける隙を与えない、と言うのも一つの手だ。

 

 

 

こんな絶妙さにやられ、私はシミットの虜になった。

 

朝ごはんからおやつまで万能である。

 

しかしながら日本で手に入るはずもなく、帰国後は他のトルコ食品ロスを含め非常に苦しい思いをした。


そして私はなぜかオランダにいる。

 

日本よりは近く、移民も含めてトルコ人口は多い。

 

トルコ語もよく聞こえる。

 

それでも、ケバブならまだしも、シミットに会えるなんて思わなかった。

 

私はあの懐かしい円を見て、やはりトルコとの縁を再認識してしまったのだ。

 

迷わず大人買いした。

 

三つ!

 

もちろん値段は少し高いが気にしない。

 

購入した場所は常連のモロッコ系のおそうざい屋さんで、よく見たらバクラバなんかもあった。

 

私はその1週間をとても幸せな気持ちで過ごした。

 

2日に一回、ちぎって食べた。

 

かぶりつくなんてことはもったいなくてできなかった。

 

 

そしてまた週末。

 

9時から始まるので売り切れる前にと急いでいった。

 

でも、ない!

 

私は以前シミットの隣にあった普通に美味しそうなパンたちには目もくれず、近くにいた売り場のおばさんに「シミットはどこですかッ」と興奮気味で聞いた。

 

彼女はただの売り子さんで、前回買った時にもいたが値段を知らないほどだった。

 

そんな彼女がシミットの行方を知るはずもない。

 

そもそもシミットとと言う単語を知らなかったようだった。

 

なんとか身振り手振りで伝える。

 

すると「あーあれは先週たまたま売っただけなのよ」。

 

私はそこで諦める女ではない。

 

食べ物の恨みは一生の恨み。

 

これはちょっと違う表現であるし、おばさんとしても怒りを向けられるのは御門違いだ。

 

なぜ私が唖然とした顔をしているのかさえも分からなかっただろう。

 

絶対にトルコ人ではない顔で何を言っているんだこいつは。

 

それでも諦めきれなかった。

 

この時点でシミットがただのパンでないことがお分かりいただけると思う。

 

 

そして次の土曜日。

 

もちろんシミットの姿はない。

 

しかし同じおばさんと目が合い、全く同じ質問を繰り返した。

 

おばさんは今度は私が先週の人物と同じだと気づいたような気づいてないような、「ない」と短く答えた。

 

次の週。

 

ない。

 

「ない」。

 

ない。

 

「ない」。

 

1ヶ月ほど経つうちに、私はこの土曜日の朝の短いやり取りが楽しみになっていた。

 

いや、それは嘘だ。

 

美化しすぎた。

 

なんでもいいのでシミットをはやく持ってきて欲しい。

 

「日本なら…」と言いたくないが、これだけ客が聞いているのに持ってこないってどういうことなのだ、

 

と思う一方、

 

最初の週に「一時的な商品だ」と言われたにもかかわらず毎週、失礼な言い方ではないにせよしつこく訊きつづけるのってもはやクレーマーの域である。

 

この図々しさ、もとい「お問い合わせ」能力は海外生活で身につけた私の一部である。

 

「前にも言ったけど…」というのはたとえ何度同じやり取りをしていても有効ではない。

 

入荷したらお知らせが来るシステムなんてないのだ。

 

それにその言葉を口にしているうちにこちらが疲れる。

 

「ああ、私何回言ってるんだろう」と。

 

だから毎回フレッシュな気持ちで、なにごともなかったかのように粘り強く質問する。

 

そして、同じことを答えられても理由に深く踏み込まない。

 

理由をわかった上でやっているので、聞く必要がないというのもあるし、

 

理由はだいたい「ないものはない」からだ。

 

 

そんなやりとりを繰り返して1ヶ月ほどたったある日、シミットは唐突に私の眼の前に現れた。

 

おばさんは嬉々とした私の顔を見て、あ、と思ったようだったが特に何も言われなかった。

 

私はにっこり笑ってシミットを三つ買いたいと伝えた。

 

おばさんは今までの出来事を思い出すそぶりも見せず、普通の接客スマイルでシミットを包んでくれた。

 

未だに値段は不明瞭であり、他の従業員三人ほどに問い合わせていたことも付け加えておく。

 

おばさんは悪くない。

 

目の前に売っているものを売る、それだけだ。

 

不思議と「勝った!」といったような気持ちは起こらなかった。

 

ただ、わたしのやっていたことが正しかったことが認められた気がしてなんだか嬉しかった。

 

私の周りの世界が私が踏み込んでみたことで、ひっそりと変化したことに少し感動した。

 

それ以降シミットはゴールデンメンバーとして加入し、その形と美味しさからこの小さな町の人々の週末を盛り上げている(はず)。

 

毎週微妙に味と形が異なっていて、そこもいい。

 

今やシミットは私にとっての土曜日の儀式となった。

 

世界を変えてみて、自分の世界も少し変わったことに気がつく。

 

自分と世界が思ったより地続きであったことにも。

 

きっとこの程度のことが世界を変えるし、世界を変えるとはこの程度のことなんだと思う。

 

f:id:heavyd:20180617204719p:plain

 

 

...なーんて少しクサいことを言ってしまいましたが、軽く本の紹介!

 

上から

 

トルコ料理の本は多くあれど、意外とパンについて言及されることは少ない。盲点をついたもの、

 

・陳腐なタイトルとは裏腹に各界の研究者がドーナツについてガチトークをする。

 

・言わずと知れた名著!洋書のアートブック的な厚さとサイズ。トイレに置いておきたい。

失われたドーナツの穴を求めて

失われたドーナツの穴を求めて

  • 作者: 芝垣亮介,奥田太郎,北尾崇:デザイン
  • 出版社/メーカー: さいはて社
  • 発売日: 2017/07/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 
観察の練習

観察の練習

ドラッグクイーンは自らをなんと呼ぶか?

完全ににわかなんですけど、現在RuPaul's Drag Raceにはまっています。

 

https://media.giphy.com/media/3oriOet0wpnkJviVws/giphy.gif

 

簡単にいうと伝説のドラッグクイーン、ルポール↑がオーディション形式で自らの後釜を探す番組のことです。

 

「レース」となっているのは、最初10人前後で始まり、毎回誰かが脱落して最後3人→王者決定戦となるまで戦うからです。

 

よくメディアに取り上げられているのは番組最後のLip Sync(口パク)でしょうか。

 

youtu.be

 

その週のビリ二人がルポールの"LIP SYNC FOR YOUR LIFE!"の掛け声とともに予め指定された曲に合わせて歌って踊るわけですが、負けたら帰宅しなければいけないので大体ものすごく気合が入り、アクロバティックな技も繰り広げられます。

 

私は国内外問わずいわゆるドラマやシリーズ番組にはまったことがほとんどないんですけど、この番組はオチ(優勝者)を知っていても楽しめます。

 

なぜこの番組は多くの人々を惹きつけるのでしょう?

 

ここでは「ヘテロで女性で美男美女が好き」というありふれた一女性の視点から語らせていただきます。

 

大まかに

・彼女達が恐ろしく綺麗だから
・元気が出るから
・英語の勉強になるから

の三つに理由が分けられると思います。

 

・彼女達が恐ろしく綺麗だから

 

番組内ではステージ上と楽屋(化粧・衣装作り用)があまりにも明確に分かれています。

 

私は自分がほとんど化粧をしないくせに、日本のアイドルの偽「すっぴん」にはブチ切れる心の狭い人間なのですが、ここでそんな心配はありません。

 

彼女達は舞台裏では完全にオッサンなのです。

 

https://media.giphy.com/media/xUPJPeovD81IGaDPr2/giphy.gif

 

もちろんそのまま男性としても普通にイケメンの人もいますが、中にはビフォーアフターで別人になる人も。

 

出場者の平均年齢も30歳ということが少なくない。

 

体型も細ければいいなんてことはなく、中には豊胸している人など色々です。

 

曲線美のためにはパッドを入れまくるし、ウエストも極限まで細くする。

 

ゴールである「女性」の対局にいる時点で土台はほとんどゼロなわけで、そこからいかに作り込むかが見れるわけです。

 

半顏メイクなんてのがインスタグラムで流行りますがそんなもんじゃない。

 

そしてその完成形を番組終盤のランウェイで拝むときには思わずため息がこぼれます。

 

私の推しメンは以下の方々。

 

www.instagram.com

 

www.instagram.com

 

www.instagram.com

 

www.instagram.com

 

www.instagram.com

 

・なぜ元気が出るのか?

 

私は心底曲がっている人間なので「自信に満ち溢れている人」「自らの魅力を知った上で振る舞う人」を好ましく思えません。

 

要は僻んでいるわけなのですが、まさに自信満々で綺麗な彼女達を見ていても、そんな気が起こらないのです。

 

https://media.giphy.com/media/syCRjYSr9slws/giphy.gif

 

これは簡単に言ってしまえば「彼女たちは本来男性で、私は女性だから」だと思います。

 

上記にあげた二パターンは、ヘテロセクシュアルである私は男性に対しては僻むことはせず(勘違いmensplaining fuckboyは論外です)、むしろ魅力に感じます。

 

ハリウッド女優などの別格の女性に対しても同じで、散々言われていることですが僻みという感情は、自分と全く違うタイプには起こりえない感情です。

 

無駄だから!!!

 

これ以上汚い言葉を使うのを避けたいんですが、

 

「なんで私とほぼ同じ立場のこのレベルのコイツが私よりでしゃばってんの?」というときにしか僻みは生まれません。

 

コンプレックスが競争意識に発展して、武器になるときもあるけど!

 

ドラッグクィーンたちに話を戻すと、彼女達は期間は様々ですがとりあえず「生物学的な男性からそこらの女性よりも綺麗な女性になりたい」わけで、それには外見だけでは不十分です。

 

寧ろルポールは自身の経験から内面も次世代クイーンを選ぶ上で考慮に入れます。

 

彼女こそ番組内でもっともウィットに富んでいて、自信満々で、美しい。

 

頭脳勝負も強いられます。

 

そして何より、自信を尊重します。

パフォーマンスに直結するからです。

 

人間はなんに関してもきれいでかわいいものには共感し、心が洗われると思うんですけど、なんか違うんだよな〜

 

芸術品を見たときの「ただ美しい」で片付けられない感情に近いかな。

 

https://media.giphy.com/media/s7PPhMNUUazBe/giphy.gif

 

自分とは違って、自分が絶対になれないもので、自分も目指していないもので、それでいて応援したくなるというのは
相当魅力がある人に対してでないと起こらない気がします。

 

この感情は男女問わずはまったアイドル達には抱いたことがありません。

 

もちろん量産型アイドルたちも血の滲むような努力をしているとは思うのですが、

 

性別だけに絞って考えても


「自らの性別を生かしてその頂点を目指す」のと

「誰もなることを期待しておらず(寧ろ差別もある)、圧倒的不利な対岸を飛び越えてトップに駆け上がる」

とではかなり識の差があると思います。

 

そして彼女達は「ただきれい」であることから寧ろ遠ざかり、新たな地平を築いているように思われます。

 

ただの素人のくせに「彼女達はきれいな女性になりたい」なんて言ってしまったけれど、本当はそんなのとっくのとうに超えているかも。

 

https://media1.fdncms.com/stranger/imager/u/original/25173413/1495828072-sasha-velour-drag-race-season-9-gif.gif

 

・英語の勉強になる

 

これはもちろんで、舞台裏でも表でもスラングは飛び交うわ、冗談でもけなし合うわで非常に勉強になります。

 

youtu.be

↑Bianca Del Rioに”illiterate”と叫ばれたい。

 

何よりも女性よりも女性的な言葉(英語なので非ネイティブとしては日本語ほどはっきりとした性差はわかりませんが)を使うので、きついのに丁寧でわかりやすい。

 

ショービジネスということもあるかもしれませんが。

 

舞台裏の喧嘩のシーンなんかもやらせだとしても圧巻です。

 

そして気がついたのが、彼女の人称の使い方です。

 

アイ・マイ・ミー・マイン

ヒー・シー・イット。

 

穴があったら入りたくなるような日本語英語をいきなり出してしまって恐縮ですが、悲しいかな、これが私たちが義務教育で習う英語ですね。

 

一人称は I(アイ)。

 

私たちはそう習ったはずです。

 

ところがドラッグクイーンになると、三つ使えるんです(!)。

 

もちろん大体はI。

 

そしてsheとheです。

 

https://media.giphy.com/media/B6NNBlB94Wpva/giphy.gif

 

心が女性で体が男性の人、心も体も男性だけど女装を楽しむ人、人により立場は様々ですが、

 

おそらく使い分けているのは、

 

She=女装した自分を語るとき/他のクイーン達を語るとき、

I=女装でも男装でもどちらでもない、もしくは入り混じっているとき

He=女装した自分から生物学的男性時の自分を語るとき(ex.過去)

 

という感じなんだと思います。

(あくまで私の意見なのでもし当事者の方がいたらお聞きしたいです)

使い分けない人もいます。

 

ドラッグネームで呼ぶことも多いですね。

 

 ↓上のことに注意してシーズン10のクイーン達を見てみよう!

youtu.be

 

これは英語独特の表現ですよね。

 

日本だと主語で「俺」「僕」「私」と選べますが、

私は英語の主語至上主義を突き詰めた結果、結局主語が複数になるという矛盾にも魅力を感じました。

 

またまた新しい地平を築いていますね。

 

ニューハーフの「ハーフ」には共感できませんが、色々な意味で「ニュー」な分野を切り開いていく彼女達が好きです。

 

〜終わりに〜


偉そうなことは何一つ言えませんが、

 

私は友人にLGBTQなどなどの方がいますし、性について考えることはどんな性別でも分け隔てなく重要だと思っています。

 

とか言ってるそばで日本では性教育を「破廉恥」だとかほざいている政治家がいて情けない限りですが。

 

そんな人々が一刻も早く改心すること願い、一応本紹介のブログなので駆け足で紹介します。

 

言わずと知れたまきむぅから〜

 

まきむぅ(牧村朝子) (@makimuuuuuu) | Twitter

cakes.mu

百合のリアル (星海社新書)

百合のリアル (星海社新書)

 
ハッピーエンドに殺されない

ハッピーエンドに殺されない

 

 

そしてドラッグクイーンと言えば!

Jの総て(1)

Jの総て(1)

 

 

あと以前紹介したんですけど、プラトンの饗宴は性の今昔を考えるヒントがたくさんあります。

 

食事中に話していると思えないほど!まあ、飲み会か。

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

 

 

関連して最近見た映画では 

Call Me By Your Name

Call Me By Your Name

 

これ意外と考古学映画で、ギリシャの同性愛へのオマージュでいいなって思いました。

文字通り主役二人がギリシャ彫刻並みの美男子だし〜

 

バーレスクミュージカル映画嫌いの私でもアギレラさまが出演なさっているので目ん玉かっぽじって見ました。 

バーレスク(字幕版)

バーレスク(字幕版)

 

 

みんなの憧れ、Xtina↓

www.instagram.com

 

心と体の性に関しては、

 

ちびりそうになるシーンがあります。

 

 イケメンのエディーレッドメインが儚い美少女になっていて、「女のくせに可愛くない自分って...」という気すら起きません。

 

私が、生きる肌(字幕版)
 

何を言ってもネタバレになりそうなので何も言いません。

 

やけっぱちのマリア (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

やけっぱちのマリア (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

 

手塚治虫の漫画こそ保健体育の授業中に取り扱うべきです。

それにしてもギャグを交えてとは言え、この時代にこの作風は攻めてる〜

 

ぼくらのへんたい(1) (RYU COMICS)

ぼくらのへんたい(1) (RYU COMICS)

 

 ソフトタッチだからこそ心をえぐられる描写にもなります。

 

 

 

だいぶ話が逸れましたが、ドラッグにも女装にも興味なくても、当事者でも当事者じゃなくても、いや、みんなが当事者ですよね、何か手にとってみてはいかがでしょうか〜

 

https://media.giphy.com/media/3oz8xtprbtd0wEWOoU/giphy.gif

 

またね!

ジャケ買いと"翻訳"

こんにちは。

 

"本とは何か"という終わりなき議論の答えの一つに「商品」という答えがあると思います。

 

個人的には「家具」「風景」という答えも推して行きたいと思っているのだけれど、それはまた今度。

 

「本は"普通の"商品とは違う」という声もよく聞かないわけではない。

 

私はそういう本の特権的な立場もとても魅力的だし、そういった考え方こそ、本を「商品」として考える上で非常に重要であると思っています。

 

これに関しては内沼晋太郎さんの著書を読むなり、本屋B&Bに一足踏み入れてもらえば彼のような天才たちが"出版不況"の波を乗りこなしている理由や哲学に触れられると思うし、出版業に浅学非才な私が口を挟めることではないので以下をご参照ください。

 

本の逆襲 (ideaink 〈アイデアインク〉)

本の逆襲 (ideaink 〈アイデアインク〉)

 
本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本

本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本

 

bookandbeer.com

 

でも、一消費者として、そして本の選び方の一つとして「ジャケ買い」がある。

 

最近積ん読と課題が最骨頂を迎えてきてしまい、新しい本を探している場合じゃないんだけど、そういうときこそ探さずにはいられないよね〜

 

最近は本の見つけ方も多様化しています。

 

私は本屋さんや図書館という空間も大好きで、寧ろそこに収まっている本が好きで本好きになったでないわけでもない。

 

東京ではお気に入りの本屋さんもたくさんあったし、地元や大学の図書館にも非常にお世話になった。

 

留学が決まったとき、最も心配したことの中の一つに「今まで築き上げてきた読書空間をどう維持するか」があったほど。

 

もうあの空間に度々訪れることはできない。

 

しかし、ありがたいことにここライデンもこぢんまりしていながらも素敵な本屋さんがあって、大学のデータベースも非常に素晴らしい。

 

私の知る限り国民のほとんどがバイリンガルオランダ語・英語)であるオランダには英書も幅広く揃っている。

 

でもやっぱり日本語に触れたい...

 

最近「縦文字がマジで読めなくて大学受験のとき国語必須の大学全部落ちた」という人に出会ったのだが、私はその逆かもしれないというくらい横文字が読めないし、そもそも元から読むのが早い人間ではない。

 

日本語の横文字の方が圧倒的に触れている時間が長い。

 

そこでお世話になっているのがtwitterinstagramです。

 

各出版社やお気に入りの本屋さんはだいたいアカウントを持っているし、「商品」を売るためにあれこれ工夫がなされていてとても面白い。

 

どちらのサービスも文字と画像を投稿できるわけで、宣伝のためとは言え無料でチラ見できるのは非常に有難い。

 

本当に、本屋さんの中で表紙を見ながら歩いている気分になれる。

 

そんななか、面白いことに気がつきました。

 

私は日本で売っている本の中でも原作が海外のものをより好むらしい。

 

これのおかげで最近日本語に訳されたばかりの英語書籍(だいたい3〜4年前に発売)された原著を安く読んで優越感に浸る、という非常に不思議な状況に置かれています。

 

そもそも私はあまり文学を読まないし、私の好みである心理学や哲学、芸術系は一部を除き日本の出版業界自体が外国語書籍に頼っていることも大きな理由の一つでしょう。(統計に基づいていない個人的な感想です)

 

それでもツイッターのタイムラインで画像として流れる本の表紙の中で、消費者が惹かれるやすいのは外国語書籍だと思う。

 

なぜなら、日本は本全体を”翻訳する”ことに長けているから。

 

商品として売る上での内外の圧力ももちろんあるだろうが、本当に上手。

 

すぐ「国民性」という言葉を使いたくないが、日本語に”翻訳”された本たちは表面上とはいえ日本人のように第一印象が良い。

 

つまりCDでいうジャケットのセンスが素晴らしい。

 

最近とても良い例を見つけた(内容も面白いです)ので、是非以下のいくつかの例をみていただきたい。

 

シャーデンフロイデ: 人の不幸を喜ぶ私たちの闇The Joy of Pain: Schadenfreude and the Dark Side of Human Nature

 

猫の世界史Cat (Reaktion Books - Animal)

 

動物学者が死ぬほど向き合った「死」の話 ──生き物たちの終末と進化の科学Death on Earth: Adventures in Evolution and Mortality

 

猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)ãcat's cradle first editionãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 

わたしの名前は「本」My Name Is Book

 

勘違いを防ぐためにここで確認しておきたいのは、私は「外国語書籍を日本語に輸入して新しいカバーをつけた方が様々な点で優れている」ということが言いたいのではありません。

 

日本は外国語書籍の『外国っぽさ』を残しながらも日本用に改変することに長けているということです。

 

というか、私の好みです。

 

熱狂的なファンではありませんが、ディズニーランドのキャクターグッズに関しても同様のことが言えます。

 

もっというと、私がこの本に興味を持ったのは「翻訳の仕方(=表紙のセンス)が良いから」という唯一の理由によってである、といっても過言ではないかも。

 

①②③はシンプルな原題そのままだと日本人の大多数に内容が伝わらない(だからこそいいという場合もある)から帯とタイトルを含め割とくどく説明し、何よりも表紙が思わず手に取る仕掛けにあふれている。

 

(これは映画のタイトルやチラシの原題→邦題間にもあることですが私は好きではありません。)

 

④は日本語版はタイトル=イラストの初版のデザインはほとんどそのままに、日本人なら一目でわかる和田誠を表紙に起用しちゃうとかね。

 

⑤はタイトルそのまま翻訳しているけど、シンプルながらただものではない感を出すことに見事成功している。

 

公平を保つために、日本書籍の外国語翻訳版のお気に入りもいくつか載せますね。

 

Ms Ice Sandwich (Japanese Novellas)あこがれ

 

ãThe Wind-Up Bird Chronicleãã®ç»åæ¤ç´¢çµæãã­ãã¾ãé³¥ã¯ã­ãã¯ã«ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 

 

 

Spark Joy: An Illustrated Guide to the Japanese Art of Tidying人生がときめく片づけの魔法

 

 
この日本文学翻訳プロジェクトも重さや紙の質のデザインに至るまで細部へのこだわりが見受けられます。

 

これらの逆バージョンを踏まえ、全体の翻訳のされ方を見ていると、二冊間の時間差が良い結果をもたらしているのかな、とも思えます。

 

 

中身が長い時間をかけて翻訳されて、より吟味され様々な要素を選び抜いた上でのこの表紙!という感じがする。

 

また、"翻訳"というのは解釈を広げれば他言語の書籍間だけに起こる現象ではない、とも思います。

 

例えば大御所のペンギンブックスは大御所であるだけに、古典を再発掘することに卓越しています。

  

www.instagram.com

 手のひらサイズで色が清潔感に溢れた値段もワンコインのものから、 

www.instagram.com

コレクター用でまさに本棚で埃をかぶるためのものまで。 

www.instagram.com

 

www.instagram.com

 

 

www.instagram.com

 でも最近の一番のヒットはこれかも!

ディストピアファンにはたまらない。

 

これ、実は写真の撮り方がうまくないとタイトルが見えない印刷の仕様になっていて、

手に取った時に表紙のイラストとうまく光の調整が合わさって意味がわかった時の快感といったら。

 

https://img.omni7.jp/co/productimage/0001/product/92/1102431692/image/1102431692_main_l.jpgきりがないのでここら辺にしますが、

ロアルド・ダールも国によって売り方が全然違いますよね...

 

本は印刷技術のおかげで多数複製されることが可能になりましたが、それが当たり前になってきた今、特に古典に関しては再解釈や本の全ての要素をひっくるめた改訂・改良版が求められています。

 

本が主に扱う言語は生き物であり、商品として流通するためにも、コワモテながらも脱皮を繰り返している。

 

そもそも、何に関してもオリジナルなものなんてあるのか。

 

オリジナル>コピーの構造をひっくり返したのはデリダですが(論文用に読まなきゃ〜)、本は中身だけでなく本そのものについて考えることも色々ヒントになりますね。

本の存在自体が古典的なものですからね〜

 

Derrida's Voice and Phenomenon (Edinburgh Philosophical Guides)

Derrida's Voice and Phenomenon (Edinburgh Philosophical Guides)

 

edinburghuniversitypress.com

 

今回は物体としての本にしか触れませんでしたが、関連して古典に関しても書き溜めている原稿があるので近いうち載せようと思います。

 

高校時代、古文・漢文の授業を貴重な睡眠を確保するための時間と見なし、百人一首の内容をただの下ネタと解釈したあの頃の女子高生からは考えられない進歩ですね。

 

それでは、また!

限界を超えてはいけない

というか、超えられないし越えようとするもんではないんじゃないかと思います。

 

まず、限界を越えようよ〜!、

みたいな体育会系思考には、私はほとほとついていけなくなってきた。

じゃあそれ超えちゃったらどうすんの...

そもそも、超えられた時点で果たして限界だったのか。

 

私は悪い意味で自分で限界を決めたことがない。

相対的であるはずなのに、いや、相対的だからこそ人に与えられた限界、あるいは人に自分の限界を委ねてきた。

 

もう限界という言葉があんまり好きじゃないから、もう意識したくない。

しかしながら単語が存在している時点で意識せざるを得ないし、

その「限界を超えられなかった自分」を責めてしまう材料にしかなっていない。

 

変なとこ意識が高い環境で生きてきたので、

限界を超えたらまた新しい限界(リミット)をセットして、また超えてというのの繰り返しが求められて来た。

辛〜

 

リミットとゴールがごちゃ混ぜになってるのかな?

達成するという面では同じだけど、ゴールって必ずしも限界を試すものではないですよね。

 

かといって限界の範囲内でほどほどにやるのは体質的にもう無理〜!

 

意識しないことが本当に限界を越えることに繋がっている気もするけど、

もうここで言葉に書き表すことでそういった思考の枠組みから逃れたいね。

 

と、最近考えるきっかけになったのが以下の本などです。

 

THE BOOK OF CIRCLES - 円環大全:知の輪郭を体系化するインフォグラフィックス

THE BOOK OF CIRCLES - 円環大全:知の輪郭を体系化するインフォグラフィックス

 

これ、あまりにも 青山ブックセンター本店 (@Aoyama_book) | Twitter にて宣伝されていたので関連書籍を読みました。

洋書だから英語版あるかな、と思ったけど近くになかったので、前著をとりあえず。

ビジュアル・コンプレキシティ ―情報パターンのマッピング

ビジュアル・コンプレキシティ ―情報パターンのマッピング

  • 作者: マニュエル・リマ,Manuel Lima,久保田晃弘,奥いずみ
  • 出版社/メーカー: ビー・エヌ・エヌ新社
  • 発売日: 2012/02/24
  • メディア: 単行本
  • クリック: 21回
  • この商品を含むブログ (12件) を見る
 

できもしないしやる予定もないけど、インフォグラフィックスとかマッピングという横文字に弱い。

THE BOOK OF TREES―系統樹大全:知の世界を可視化するインフォグラフィックス

THE BOOK OF TREES―系統樹大全:知の世界を可視化するインフォグラフィックス

 

木バージョンもあった。

 

ちなみに本を読まなくてもウェブサイトで図たちだけなら見れます。↓

www.visualcomplexity.com

 

一冊しか読んでないのでなんとも言えませんが、端的にいうと私はゾッとしました。

 

あらゆる技術を駆使したはずのグラフが、全部の人体の一部に見えてきてしまうんですよね。

 

ふとタイトルを見直すと丸(circle)や木など、とても基本的なものがモチーフになっていて、それもそのはず、と思ったり。

 

正直に申し上げますと、以下ツイートに影響されている部分が大きいです。

 

 

ほええ、と思いつつ同時期に借りたフンデルトヴァッサーの本をめくって見ると、

Hundertwasser 1928-2000: Personality, Life, Work

Hundertwasser 1928-2000: Personality, Life, Work

 

(表紙がわかりやすい関連書籍(まだ読んでいません))

Hundertwasser: The Painter-king With the Five Skins (Taschen Basic Art Series)

Hundertwasser: The Painter-king With the Five Skins (Taschen Basic Art Series)

 

 

なんかこの人も幾何学極彩色&サイケデリックだけど、

まじで自然リスペクトという感じ。

 

ガウディに似ているな、と思っていたらちゃんと影響を受けているとの言及がありました。

ガウディ完全ガイド

ガウディ完全ガイド

 

 井上雄彦とのコラボ展、もちろん行きましたよ〜

Casa BRUTUS特別編集 ガウディと井上雄彦 (マガジンハウスムック CASA BRUTUS)

Casa BRUTUS特別編集 ガウディと井上雄彦 (マガジンハウスムック CASA BRUTUS)

 

 バガボンドももはや漫画を超えているという点で、テーマは似ているかも。

バガボンド(1)(モーニングKC)

バガボンド(1)(モーニングKC)

 

 

ミケランジェロと関連してダ・ヴィンチなんかもいうまでもなく今では捕まるレベルで人体を追求した人ですから、仲間に入れましょう。

 

...こう、新旧問わず巨匠の画家たちを眺めていると、

もうそのすごさに圧倒されるというか、突き詰めるとここまでいっちゃうんだろうな、

っていうのがなんとなくわかるけど私は一生届くことがないんだろうな...

みたいな完膚なきまでの虚無感にもはや感動しますよね〜

 

冒頭に繋げようとすると、

巨匠のヤバさはさておき、人間には超えられない部分というよりも

超えたところで戻ってくる場所が普遍的にあるんじゃないかな、と思っています。

 

そこは悲観的にも楽観的に捉えることもできるので、場所に応じて使い分けられたらいいんじゃないかな。

 

例えば私は一人の人間が本を読む以上、

真の乱読というものは存在しないと思っているんですけど

それは自分の限界を見つけた、いうよりも

セレンディピティ力(?)が上がってるのかな、と捉えてもいいかもしれないですよね。

私なんかはまだまだこじつけに留まっていますけど。

 

オランダにも春が来て、天気が良かったり日が長いとつい色々やろっかな!!!

とあちこち手を出してしまう自分がいますが、

それも結局自分の範囲内で起こっていることで、

だからといって無理してはいけないな〜と自戒を込めて。

 

ちなみに、フンデルトヴァッサーは美術館に行った時に美術史専攻の友達に教えてもらったのがきっかけで知ることができました。

オーストリア出身だそうで、クリムトと同じで日本にもインスパイアされているみたい。

matome.naver.jp

美術館↓

www.cobra-museum.nl

Co=Copenhagen br=brussels a=amsterdamだって。おしゃれか!

小さいけれど、アヴァンギャルドとは何かを肌で感じることができます。

アヴァンギャルドも突き詰めた結果、捻り出している感じがして好きだ!

 

第三次世界大戦中なのかギリギリ踏みとどまってるのか知らないけど、こういう運動がこの時代にも欲しいよね。

 

最後までありがとうございます。

それではまた。

Sh*t worthyなことしようぜ

(to) give a shit という言葉はみなさん知っていますね。

"Don't give a shit!"という文のほうがよく聞くかな。
こちらは日本語に訳すと「んなつまんねぇこといちいち気にすんな!」に近い意味だと私は考えております。


shitはfuckに代替可能。
"I don't give a single fuck"というアレンジ版なんかも微塵も気にしない、屁でもない」という、確固たる意志が垣間見えて私は大好き!

www.urbandictionary.com

 

ass holeという言葉もよく聞きます。
これはもう直訳しちゃうとケツの穴ですが、カスとかクズ野郎と言ったところでしょうか。

 

何が言いたいかというと、私たちの人生はクソまみれということです。
もう少し綺麗な言葉で言い直すと、どんな人であっても様々な障害や不幸、不運が降りかかってくるということ。

 

そこで今日紹介したいのがこの本!イエーイ
本屋で見ない日がありません。

 

The Subtle Art of Not Giving a F*ck: A Counterintuitive Approach to Living a Good Life

The Subtle Art of Not Giving a F*ck: A Counterintuitive Approach to Living a Good Life

 


タイトルが直球すぎますけど、日本語に訳すのは少し難しそう。
日本にはどうだろう。来るかなぁ...

 

先ほどの続き兼この本の要約ですが、人生はどう転んだってassholeとかshitはついて回るので、何事にもgive a single fuckしない、というのはブッダにでもならない限り無理なんです。


というか、それに気がついたのがブッダ
彼は高貴な家の出身ですがそれに疑問を持ち家を飛び出しますが、結局どんな階級だろうとみんな悩みあるやん、と気がつくわけですね。(Chapter 2 ; "Happiness is a problem "参照)


そこで終わらずに心頭滅却しちゃうブッダなのですが、まあ、普通は無理ですね。

(私はブッダになれないのでここでgiving shitするのをやめます)

なれなくても手塚治虫大先生のブッダは教科書として一家に一台。

ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)

ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)

 

  

はい。

じゃあどうするの、ということで、解決策として悟りを開く以外は、なんだかんだshitとうまくやっていくしかない。

shitもバラエティに富んでいるので、自分にとってより価値がある(と思われる)shitを選び、こなしていく


ここで筆者は"shit-worthy"という独自の造語を用いていますが、非常に素晴らしい言葉だと思います。


何がshit-worthyかは、人それぞれです。


大変な仕事でもお金がたくさんもらえたらそれをshit-worthyとする人はいるだろうし、
色々あるけどなんだかんだ支え合う家族を最もshit-worthyなものと捉える人もいる。


生きていくために身の回りの環境をできるだけ自分にとって生きやすい場所に整えることをshit-worthy、まあ私多分これなんですけど、もいますね。
(私は好きなことしかやっていない/夢を追いかけているというイメージを持たれがちですが、思われるのは面白いのでいいけど、おそらくそうではないです。私は多分、人よりも少し自分がやりやすいshitを選ぶのがうまかっただけだと思う。あと運!)


これは一見すると非常に消極的な考え方で、shitだなんだと使用している言葉が汚いという理由以前にこんなことを面と向かって言う人はあまりいません。


もちろん今の仕事や専門に対し「これが自分のやりたいことです!!!」と胸を張っている人にはこんな考え方はいらないでしょう。


しかしそうではない人がほとんどで、だからこんな汚いタイトル()の本が世界的ベストセラーになっちまってるわけです。

 

本当はshit-worthyだから続けているだけでもいいじゃないか。
むしろそっちの方がすごくないか。


それをせめて自分の中では無理して美化しないであげていただきたい。

ていうか、そういったあまりにも仕事や人生を理想化する価値観を押し付けて来る人にこそgiving shitすんなよ、とこの本は教えてくれます。


人生はインスタグラムの裏側で起こってんだよ!

・ちょっと近況報告(関連本の紹介はさらに下にあります)

 

今年は、というか去年から私は選択の連続でした。

まあ主に進路なんですが。
なんか今オランダにいるけど、今でもここに来たことが正しいかどうか現時点では自信を持っていうことができません。
大学院(マスター)に申し込んだはずなのにプレマスターやんなさいとか言われたけど情報少なすぎてわけわからんし!
宿題多すぎるし!
オランダ人英語うますぎるし!


でも、私は少なくとも今の大学生活は自分にとってとーーーってもshit-worthyだと思っています。
多少辛いことがあってもやってみる価値があると思えます。
まあ高等遊民が何言ってんだって感じだけどね〜

 

・関連本


私はこのshit-worthyという考え方は私のだーいすきな認知不協和理論にもちょっと結びついてると思います。
辛いことも、いや辛いことだからこそ美しい記憶に変換されていく、という嬉しいような怖いような、賢いのかアホなのかわからなくなる脳の仕組みですね。


興味のある方は以前も紹介しましたが、是非こちらの本を。

全然伝わらないと思いますが、私はこういった、難しい内容を、決して難しくない話し言葉で文体・言葉遣い・構成・内容が完璧な講義集みたいな本(内田樹先生のとかも)を読んでいると脳内で吸収できる許容量を突破し、「ウーム」となります。

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

 

あと、脳がバカというのとshitと関連してこの本も是非!

サナダムシをお腹で飼うまでしなくていいけど、腸の声をよく聞くといいことあるかもね。

脳はバカ、腸はかしこい

脳はバカ、腸はかしこい

 

あとお子さんがいる方は言うまでもないですがこれを。

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

 

 

最後にこの本に出会ったきっかけを。
私の好きな本屋さん通り(勝手に命名)の中でもお気に入りの、Mayflower Bookstoreで見つけました。

www.mayflowerbookshop.nl


古本と新刊が混ざった不思議な空間です。
お店の由来は多分、メイフラワー号(ピルグリム・ファーザーズたちが乗ってた船)がイギリスを出てアメリカに来る途中にこの小さな町ライデンに寄ったからだと思われます。

 

タイトルを見ていいなぁ!と思ったのと、一年半ほど前に

www.vox.com

この記事に出会いまして、記憶から消えてたけど記事の内容がThe Subtle Art of Not Giving a F**kと似ていたので「あの記事で紹介されていた本か」と思って読んでたら結局違ったという。
まあいいか。

 

記事で紹介されている本はこちらです。これもタイトルのインパクトすごいな

The Asshole Survival Guide: How to Deal with People Who Treat You Like Dirt

The Asshole Survival Guide: How to Deal with People Who Treat You Like Dirt

 

 

でも本当にここ最近タイトルのインパクトの強さで記憶に残りやすいのかもしれないけど、asshole関連の本、よく見ます。

 

Assholes: A Theory (English Edition)

Assholes: A Theory (English Edition)

 

セオリーまである。

 
みんないろんなassholeに疲れてるんだね。

疲れない程度に本でも読んで、楽な考え方をしていきましょう。それではまた!

去年は猫年、そして今年も

 今回は2017年の間、私の生活の癒しとなった様々な媒体の猫をご紹介します。

 

私はにわか猫好きというか、

トルコに行ってから猫を好きになった新参者ですので、

お手柔らかにお願いします。

 

①KEDI(映画)(邦題;「猫が教えてくれたこと」)

 

youtu.be

 

私としては涙なしには見られない、とても素敵な映画でした...(トルコ帰りたい)

日本での劇場公開を待てずに即YouTube Redで購入しました。

便利な世の中でございます。

 

しかし気に入らないのが日本のタイトルで、みなまで言うな、という気持ちでいっぱいです。

これに限らず日本における邦題の付け方は度々イラっとさせられることが多いですね。

 

この映画の主なテーマは、

トルコでは猫はペットと野良猫の中間の存在である、ということです。

猫が敷居を跨げば入れるし、窓は開けっ放しでいつでもまた出られるようにしている、という家やお店が少なくなりません。

(私が住んでいた学生寮も各棟に猫がおり、いろんな人が餌をあげたりしていました。)

 

来るもの拒まず、去る者追わず。

猫が自由気ままに闊歩しているのは、

トルコという国が伝統的に外から入って来る人や物に対し、そういった姿勢を貫いてきたからかもしれません。

 

映画の中に出てくる人たちは少し行き過ぎた例かもしれませんが笑、

トルコでは猫を嫌いな人を見たことがありません。

というか行けば共感していただけると思うのですが、

トルコの猫ってかわいいし気高いし美しいし人懐っこいので、

なんかもう、ありがとう...!ってなります。

 

②「めでる国芳ブック ねこ」

めでる国芳ブック ねこ

めでる国芳ブック ねこ

 

もう、タイトルの圧勝ですね。

めでたい、愛でたい!

 

私は浮世絵とか日本画とか全然詳しくないしそこまで興味はなかったのですが、

こういった切り口で紹介していただけると読みたくなる〜

 

さすが日本というか国芳というか、

江戸時代は、そこまで現在の日本の「なんでもキャラクター文化」「擬人化」が確立していなかったはずであるにも関わらず、

江戸の町民に負けないくらい、生き生きとした猫たちが描かれています。

猫で文字を書いているなどなかなか攻めています。

 

英語の解説付きなので、ぜひいろんな人にオススメしてください。

 

ちなみにシリーズで猫以外もあります。

めでる国芳ブック どうぶつ ([バラエティ])

めでる国芳ブック どうぶつ ([バラエティ])

 
めでる国芳ブック おどろかす ([バラエティ])

めでる国芳ブック おどろかす ([バラエティ])

 

 大学の生協ブックセンターにて

 

③ 「ファット・キャット・アート ―デブ猫、名画を語る」

ファット・キャット・アート ―デブ猫、名画を語る―

ファット・キャット・アート ―デブ猫、名画を語る―

 

 これも本当に眺めているだけで幸せというか、

あまりの違和感の無さに圧巻というか...

 

日本語訳のセンスも光っています。

他の言語をよく知らないけど、日本の猫語として「〜にゃ」の語尾って素晴らしい。

作者はロシアの方なのでロシア語でもそれに匹敵する猫語みたいなのがあるのかな...と想いを馳せてみたり。

トルコに負けずロシアも猫大国みたいですね〜

エルミタージュ行ってみたい。

 

国立西洋美術館内の本屋さんにて発見

 

北斎ジャポニズム展もよかった..

一筆書きの猫のシルエットとか素敵でした。

 

④「名画のネコはなんでも知っている」

名画のネコはなんでも知っている

名画のネコはなんでも知っている

 

 教授と生徒の対話形式で、ひたすら猫のいる名画を愛でる。

ところがこの二人は好みがうるさくて、あんまり猫を描くのがうまくなかった時代(?)の絵とかを貶しまくったりもするのが面白い。

さすがに中世の猫並みに不細工な猫⬇︎を取り上げてはいませんでしたが笑

www.buzzfeed.com

冒頭で取り上げていた猫に関する「文学部唯野教授」の引用も素敵ですが、そのお話は哲学の領域に入ってしまうのでまた今度。

文学部唯野教授 (同時代ライブラリー)
 

 

⑤ Simon's Cat

 

youtu.be


youtu.be

youtu.be

言わずと知れた大人気キャラ。

 

猫>>>>>>>>>>>>>>>>>>>人間の構図を、これでもかと思うほどにユーモラスに描き切る。

フェイスブック・インスタの更新頻度も高くめちゃくちゃ癒される。

シンプルな線ながら動きが滑らか。

 

一つ気になるのが猫の鳴き声で、

限りなく本物に近いけど多分おっさんがやってるんだよね...? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中間でいいじゃない

いやはや、10月も終わりそうですね。

 

今回ご紹介するのはこの三冊!

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

どれもめちゃくちゃ面白いのですが、 

なぜこの三つを同時に紹介したのかと言いますと、共通点があるわけなんですね。

 

タイトルにもあるように、中間です!イエイ!

 

三冊はそれぞれ

能動態と受動態の間としての「中動態」を、

言語が文化的(人為的)・自然的産物のどちらでもあることを、

日本人と外国人のコミュニケーションの方法論の間を、

論じています。

 

一見違うジャンルの本なのに共通点があるって面白いですよね。

こういうことがあるから読書はやめられない。

話が逸れますが、私は「乱読」というのは高い確率で不可能だと思っています。

なんだかんだ、どこかで自分と関係している本を選んでしまうので、

最初は乱読したと思っていても根本的な部分では無理というか...

結果的に読んでみたら他でも同じこと言ってたな〜、ということもありますしね〜

 

さて

皆さんは"中間"と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?

1 物と物との間の空間や位置。「駅と駅の中間に川がある」「中間地点」
2 思想や性質・程度などが両極端のどちらでもないこと。「双方の意見の中間をとる」「中間派」
3 物事が進行中であること。物事がまだ終わらずに途中であること。「得票数の中間発表」

中間(ちゅうげん)とは - コトバンク

 

辞書で検索したら三つほど見たかったのですが、

今回特に論じたいのは二つめの定義です。

 

私はこの意味での中間に対し、ずっと否定的な考え方を持っていました。

特にコミュニケーションの場面ではなおさらで、

エスかノーかを迫られた場合、

「どちらでもない中間」というのはあまり良いと見なされない、

という印象があります。

「中途半端」という言葉なんてネガティブな中間の最たる例ですよね。

 

また、「中間を図式化せよ」と言われたらどんなものを描きますか?

多くの人が下のような図を描くのではないでしょうか。

 

       ●         ○          ●     

 

そしてここの間にある○は、外側の二つの点と等間隔の距離を保っていませんか?

 

ここでもう一度定義を見直してみましょう。

一つめの定義には単に「物と物の間」と書いてあるだけで、等間隔なんてどこにも書いていません。

英語の"middle"を辞書で引くと等間隔と明言されていないまでもそういった定義が見受けられますが、ここではあくまで日本語で考えるので置いておいてください...middle Meaning in the Cambridge English Dictionary

 

これら三冊の本は中間に当たる○「等間隔でなくてもいい」し、

「常に○が動くものである」ことを教えてくれた本でした。

 

図で表すとこんな感じ。

 

       ●                 ○  ●     

                             これでもいいし、

       ●   ○                ●     

                             これでもいいし、

       ●            ○       ●     

                             これでもいい。

 

もう少し本の中身を紹介します。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

私たちは文法で「能動態」と「受動態」(とその対立)しか習わないし知らないが、

ギリシア語に始まる文法の歴史を紐解くと本来はそうではないことが判明。

むしろ「能動態」と「中動態」の対立であり、受動態から生まれた...

なんて言われると文法用語アレルギーはそれだけで本を投げ出しそうになりますが、

もうちょっと頑張って読んでみると、5章から読みやすくなります。

 

この文法と密接に関連しているのが「意思」の概念なのですが、

アリストテレスの時代にはそんなものはありませんでした。

それは「責任者を特定して責任を押し付けるため」に後から作り出されたものでした。

 

「責任者を特定するために言語が変化し」、

「行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意思に他ならない。

意思とは行為の帰属先である」。(p.176)

 

冒頭から散々述べられているように、

アルコール中毒者のような深刻なものから身近な問題まで、

誰か一人に責任を問うことは非常に困難です。

にも関わらず、私たちは「本人の純粋な意思」による行為(能動)か

そうではない(受動)かで問題を片付けようとしてしまう。

本来はスピノザが述べ、上の図で示したように常に揺れ動くものです。

それに当たるのが中動態であるのだが、

私たちはその存在さえ知らなかったから苦しかった。

この存在を知ったら楽になるかも。

まだ中動態の子孫は言語の中に生きているし。

 

この本の面白いところは出版社が「医学書院」なのに、

中身が思いっきり哲学書であること。

また、取り上げている分野も文法から哲学、小説と多岐に渡り、

よくここまでまとまるものだと感動しました。

筆者の学際的姿勢というか、

「中動態をキーワードにして様々な分野を結びつけたい」

という気持ちが伝わってくるような気がします。 

 

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

これもプロローグの翻訳がわかりにくいのもあって進まないけど、

ちゃんと一章からスイスイ行けます。 

恥ずかしながらまだ第一部しか読んでいないのでその部分だけ。

 

筆者はある言語が色に名前をつけるときに、

それが⑴自然的なものか、それとも⑵文化的慣習によるのか、

という19世紀から続く論争に終止符を打とうと試みました。

例えば、ある文化にとっての「青」は他の文化でも「青」なのか(⑴)、

それともそれぞれの文化がランダムに色名を付けているだけなのか(⑵)。

 

これに対し、筆者は「文化は制約(自然)の中で自由を謳歌する」(p.115)、

という結論を下しました。

ある一定までは自然が普遍的にどんな地域・言語にも影響を及ぼすが、

それ以外は各文化に委ねられている、ということです。

 

これも一見「どっちつかず」と言われてしまいそうですが、

こういった分野におけるたいていの良い論文の結論は

どちらにも中立の立場を示しつつ、良いところを取り入れている気がします。

それは筆者が行ったように先行研究に敬意を払い、

綿密に文献を読み込めばこその結論であるとも言えます。

 

筆者の問いの立て方も計算されています。

何度も「〇〇か、△△か?」と書いておきながら、

結論はどちらでもないオリジナルなものであるわけで、

より自分の答えが際立つ書き出しをしていると感じました。

 

新書であり、三つの中で最も読みやすいと思います。

 

作者は近年騒がれている「コミュ障」問題への解決策を斬新な方法で紹介しています。

 

特に面白いのが第6章です。

 

飛行機で隣の席の人に話しかけるか話しかけないか。

これに対しグローバル化が頭にあると、すぐに欧米式に

「フレンドリーになった方がいい」なんていう人が続出し、

「初対面の人とうまく話せる方法」なんていう本が何十万部も売れたりする。

いや、そうじゃないだろ。単なる文化の違いだろ。

それならば隣の人が本を読んでいたら気を遣って自分も静かにする、

という文化も認められていいはずだ。

 

「コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派はこうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない。」(p.148)

 

本当にこれに尽きると思う。

どちらかが絶対的に良いということはない。

ただ、知っておいて自分なりに時と場合によって取り入れたらいいと思います。

ここが中間のいいところで、どちらでもないからこそどちらにもなれる、というかね。

 

・・・と書いてみると自分がいかに良くも悪くも中間にいるかがわかります。

でもそれでいいと思います。

それと同時に、この「中間で良い」という考え方も常に揺れ動くべきである、

とも思っています。

 

はー長くなってしまった。

常に入れ替わりつつも30冊くらい家に本があるのに全然紹介しきれない。

明らかに後半にエネルギーが足りていないのですが、まあ良しとしましょう。

読むだけじゃなく自分で書くとなると大変ですが、

ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました!