キヨカのブログ

半永久的夏期休暇自由研究

秋に参加したWebinarのメモ Hagia Sophia/Mieko Kawakami/Anti-racism

2020年は"remote"という単語に辞書上の定義以外の意味やconnotationが付加されていった一年であったように思う。

そろそろ今年も終わりを迎えつつあるが、暦上の区切りが果たしてこの途方もなさからどれほど私たちの気をそらしてくれるのかはさておき、私は最近になってやっと、少なくともremoteに関しては良い面も少しずつ見出せるようになってきた。

 

そのひとつに世界中のonline conferenceへの参加の敷居が下がったことが挙げられる。

 

思えば学部時代も今年大学院を卒業したライデンでも、ほとんど毎週のように大学で開かれる何かしらの講演会に参加していた。

(こう書くと積極的で真面目な学徒だった思われてしまいそうだが全くそんなことはありません)

早稲田にいたころは門を囲む美しい毛筆の立て看板を横目に登校しながら、目に入ってきて面白そうなものには気軽に覗きに行っていた。

とにかくキャンパスが大きくビルの数も多いのと方向音痴も相まって主催場所にたどり着けないこともあったが、そのときはそのときで別の面白そうなものに出会う。

大学というものはそういうふうにできている。*1

 

ライデンでも私がいた考古学学科でももちろん、Humanities(人文学科)主催のイベントもとても学際的で興味深いものが盛り沢山だった。*2

こういった情報は構内のポスターで得ることもできるが、ほとんどがFacebookでも告知されており、友達が興味を持っていると通知が来て気づくことも多かった。

そして多くの人にとっての一番の目当てはconferenceそのものではなくその後のフリードリンクだったりする。

いくら私自身が酒好きとはいえ学部備え付けのHeinekenのビアサーバーには驚いたし構内が酒臭くなるのはいかがなものかと思ったが、一度酔った勢いで非常に高名な文化人類学者のPhilippe Descola先生(ものすごく簡単に言うとNature⇄Cultureの研究をされている方)に話しかけることができたので、もう思い残すことはありません。

 

 

 

以上はconferenceが特定の物理的な場所で開催されていた、文字通りtake "place"していた頃のお話。

講演会や学会というとただlecturerが壇上に立って耳を傾ける聴衆がいて、という漠然としたイメージを持っていたが、こうして思い起こしてみると耳や目以上の身体的情報や感覚を知らず知らずのうちに駆使し刺激を受けていた場であったことがわかる。

私はもう見知っているはずのキャンパスで迷子になることもないし、構内でビール瓶につまづくこともないのか...と思うと少し寂しい。 

 

一方で、remote化はacademiaを停滞させるばかりではない。

 

思った以上に世界単位でのオンラインへの移行は早く、時差の壁さえ乗り越えればパソコンひとつでどこのイベントにも参加できるようになった、というのは一学会ファンとして素直に喜ばしい。

 

私は秋から晴れて学生ではなくなってしまったが、それでもやはり興味・関心事として学術的な情報は流れてくるし、意識せずとも関わりは保たれていくように思う。

 

...というわけで前置きが長くなってしまったが、以下ここ三ヶ月でremoteで参加したなかでも特に楽しんだwebinar(この造語はあまり好きではない)を選び、講義録的なものを残してみたい。

というのも内容がとにかく豊富でまだ消化が完全に終わっておらず、とりあえず取り込んだ情報のメモを読み返して書き写してみつつ、現時点でもどういったものに発芽してゆくかを見てみたいと思ったからだ。

以下は目次で一応時系列なだけでそれ以上の意味は今のところ特にない。

  •  "Hagia Sophia: Perspectives from Cultural Heritage" Cornell University, September 19, 2020
  •  "A Virtual Conversation Kawakami Mieko’s Breasts and Eggs: Gender and Translation 川上未映子『夏物語』—ジェンダーと翻訳" 国際基督教大学(ICU), October 8, 2020
  • "Curating and Collecting Antiracism?" RCMC (Research Center for Material Culture), Nov 19, 2020 

 

*1:内田樹が『町場の教育論』(2008)で『ハチミツとクローバー』や『もやしもん』を例に、予測がつかないものに出会い取り込まれる場としてのphysicalな大学の必要性について語っている。この恩恵を浴びるように受けた者としては、パンデミック下の現役大学生たちは非常に不運だと思ってしまう...

*2:なかでも記憶に残っているのがこの"Faculty symposium Humanities: The Myth of High and Low Culture"で、いわゆる古典などの王道の"文化"(high)と、近代のポップカルチャー(low)の区分に疑問を呈したもの

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「ガイジンとして、ガイジンたちと」須賀敦子を読む

おどろくことに、わたしはまだイタリアに行ったことがない。
 
考古学をやっているとローマだポンペイだブルータスお前もか、オレもだよ、というかんじでまわりの人はだいたい行ったことがあるし、考古学なんぞやっていなくても食べものや気候だけでも十二分に魅力的な土地であることは確かだ。
 
でもやはりパリ・シンドロームというものがあるように、ヨーロッパのメジャーな都市というのは憧れがつよい反面、旅行代理店やインスタグラムでさんざん脚色されているせいか行ってがっかりという感想も聞かなくはない。
いずれにせよいろいろ落ち着いたら絶対に行くのだろうけど、いざ行くとなると徹底的に計画を練って念入りに要所要所を攻めまくる者としては、きっちり、時間とお金はもちろん、全方向に万全を期した状態で臨みたい、と思ってなかなか行けていなかったところにパンデミックときた。
 
『コルシア書店のなかまたち』という書名を数年前で見かけたとき、わたしの頭のなかの本棚では勝手に「本屋さんが勧める本屋さんについての本」というコーナーに配置されていた。
知った当時はヨーロッパに住んでおらず住むことになるとも思わず、一時期非常に人気を博しわたしもしっかり通読した『世界の夢の本屋さん』*1などの写真集に出てくる書店たちのように、フォトジェニックな地中海の本屋さんについての陽気な本なんでしょう、とたかを括っていた。
 
恥ずかしながら書名もうろ覚えで、コルシ"カ"だと思っていたくらいだ。
 
いわゆる"ヨーロッパ"が近現代の書店=カルチャーの発信地になりえた(またはそのイメージを構築できた)のも、教会をはじめとした建築物の寿命が長くゲルマン語・ラテン語源での書籍の流通が世界の圧倒的多数を占めている現在を含めたほんの数世紀のことにすぎず、紙としての書籍の歴史は他の主要な発明と同様、広義の意味でのアジア発なわけで...などと今となっては複雑な心境なのだが、『コルシア書店の仲間たち』はそういった疑問が浮かぶこともないような、とことん人について書かれた本であった。
 
 
まず、舞台がコルシカ島でもなく笑、みんな大好きローマでもなく、ミラノ。
 
聞いたことはもちろんあるけど、"ファッションウィーク"と"サイゼリア"(ミラノ風ドリア)という二つしかなく且つ両極端(?)なイメージのせいで脳内のメトロノームの針が振り切れてしまいそうになる。
 
でもそんななけなしのイタリア知識をひっぱりだすまでもなく、ほんの数ページで著者である須賀敦子の世界観にのめりこめるのは、他でもないよそ者として、しかししっかりその土地に住み着いた等身大の言葉たちのおかげであろう。
 
ヨーロッパにおける"ガイジン"としての須賀の経験値の足元には及ばずとも、共感する人は多いはずだ。
 
11年にわたるミラノ暮らしで、私にとっていちばんよかったのは、この「私など存在したいみたいに」という中に、ずっとほうりこまれていたことかもしれない。なかなか書生気分のぬけない私にとって、それは、無視された、失礼だ、という感想にはつながらなくて、あ、これはおもしろいぞ、いったい彼らはなにを話しているのだろう、と、いつも音無しの構えでみなの話に耳をかたむける側にまわった。当然、それは私が彼らの会話の深みについて行けなかったからでもあるが、私を客扱いにして、日本人用の話をする人たちのなかにいなかったことは、私のために幸いだった。*2
 
異国に住んでいて困ることの一つに「ほっといてくれ」と「無視するな」のバランスやタイミングがことごとく合わないなと思うことが多々あるが、根底にある理由は同じで、たんに外国人だから、ということが多い。
極端な例を挙げると"外国人だから"不必要に注目を浴びることもある一方で、"外国人だから"その土地の人々が当然のように享受しているものが回ってこなかったりする。
 
外国人として、外国人のまま住むうえで本来的に正当な扱いを受けられる場所、というのは突き詰めると世界のどこにもないんじゃないか。
悪気のない「特別扱い」も、される側にとっては明らかな害はなくともやはり通常とは言えず、もどかしさがつきまとう。
 
このコルシア書店でのほっとかれている心地よさを須賀が感じることができたのも、さまざまな居心地の悪い「特別扱い」を受け、当時のイタリアの人々が持つ日本に対して持つステレオタイプをさんざん目の当たりにしてこそ、である。
彼女がよく接していた貴族的身分の人々や詩人など、いわば品も教養もあるはずの層の悪気こそないにすれ偏見に満ちた発言を受け「日本などという(のは)彼らの文化の伝統と何の関係もない国(だから)」*3と、その場の会話に参加していながら頭のなかで地球儀を回してしまうのはさみしくも、決してめずらしいことではない。
 
立場が逆転することだってある。
 
日本に帰国後自らがもてなす側になり、「東京の道路の覚えにくさや、物価の高さ、日本語の難しさなど、あたりさわりのない<外国人用の>会話」*4をせざるを得ない場面も多々あったことだろう。
 
ガイジン同士のコミュニケーションにおいて、母語ではない言語を交わし始めるまえに、話す内容が限られてしまっていることはすくなくない。
これにかんして日本人は、良くも悪くも一流であろう。
そこを受け手として「おもてなし」ととらえるか「排他的」ととらえるかは意見がわかれるところだ。
須賀は日本の「ゆきとどいた」もてなしを、「どこか形式主義的」と、イタリアの友人たちから受けたものと対比する。*5
 
 
ガイジンとして、ガイジンたちと接しながら須賀はひたすらミラノをはじめとする西欧を見つめ、自己を見つめつづけた。
 
普段は音のやわらかさで定評がある日本語だからこそ、カタカナ表記でさえこのガイジン、という言葉のとげとげしさには目を見張るものがある。
内と外の地理的境界線がはっきりしすぎている国ならではの表現かもしれないが、さまざまなバックグラウンドを持つ人々を十把一絡げにするだけでなく、自らが外に出ない限りなりえない人の立場になってみる、という想像力を一気にかき消してしまう可能性をはらんだ非常に危険な言葉でもある。
 
なによりも悲しいのは、自らも外国にいるときにその言葉で土地の人と自分の距離感を決めてしまうことだ。
 
イタリアのなかの日本人、という意味では大多数の周囲から見た自己はガイジンである一方で、自己を中心として周りに接する場合、彼らもガイジンとして定義されてしまう。
 
この言葉ひとつで簡単に分断されてしまう二重の周縁化構造には、しかしあまりにも単純明快な二単語(外+人)では表しきれない残酷さがある。
 
 
だが、その外部者としてだからこそできること、というのがあるのも間違いない。
 
 
日本人とヨーロッパ文化の出会いの究極の形*6と、日本近代文学全集の編者、且つ須賀とも個人的交流があった池澤夏樹は彼女について語っている。
 
須賀がヨーロッパに長期滞在するのはじつはフランスのパリが最初であり、そのころから彼女は言葉だけでなく体もつかい、滞在先の土地と自己の距離をはかっていた。
 
このころ、私はパリの街をよく歩いた。自分にとってまるで異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだの中に浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手にあちこちと歩いた。*7
 
わたしは天下のGoogle Mapを以てしてもなぜか示し合わせたように道に迷う人間なので、GPSなしに紙の地図を見て歩き回るというのが非常に不向きであることを重々承知したうえで、見知らぬ土地では目的地を決めずに歩き回るのが好きだ。
興味深いことに、自分の足でも乗り物でも(安全に)楽しめる都市、というのはじつは世界にそんなに多くない、ということを知ったのは東京を出たあとだった。
 
二本の足で歩き回る、 というのは身体的に地理的感覚を拡大するもっとも基本的な方法の一つであるいっぽう、徒歩○○分などといった単位に換算し、規定してしまうことでもある。
 
この都心の小さな本屋と、やがて結婚して住むことになったムジェッロ街6番の家を軸にして、私のミラノは、狭く、やや長く、臆病に広がっていった。パイの一切れみたいなこの小さな空間を、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、自分のミラノはそれだけしかなかったような気もするし、つきあっていた友人たちの家までが、だいたい、この区画にかぎられていたようにも思える。たまに、このパイの部分から外に出ると、空気までが薄いように感じられて、そそくさと、帰ってきたような。経済的に余裕がなかったせいなのだろうか。好奇心が足りなかったのだろうか。いずれにせよ、私のミラノには、まず書店があって、それから街があった。*8
 
よくガイドブックなどで厳密な地理適距離とは無縁に名所などがイラストで配置され、おすすめのルートが旅程を組むうえでの参考として紹介されているものがある。
個人的には難解なふつうの地図よりこちらの方が好みだが、須賀の知覚にはそういった意味での限定された視線とはまた異なるものがある。
文章を目で追っていると、自虐的に自分の行動範囲の狭さを述懐しつつも、その小さなパイの中身はさぞかし豊かだったことがうかがえる。
「まず書店があった」なんて、聖書の書き出しじゃあるまいし大げさな、と思ってしまうが、これほど彼女と書店の関係を言いあらわせる表現もないだろう。
 
須賀はこういった人をはじめとした近くのものを見つめる視点がよく評されるが、日本対ヨーロッパ、などといった単位をズームアウトして語ることもできる、いわば顕微鏡だけでなく望遠鏡の名手でもあることも強調されるべきだ。
 
近年になって国家の概念が大陸とそこに暮らす人々の心をずたずたにひきさいてしまうまでのヨーロッパは、ことばや、川の流れや森の広がりなどによって、今日よりはもっと(政治的ではないという意味で)、自然な分かれ方をした土地だった。どこの国の人間というよりは、どの地方の言葉を話すかのほうが、たいせつだったにちがいない。*9
 
歴史の教科書もこれくらい抒情的であってもいいのではないか。
時系列に並べられ簡潔に記される"史実"としてだけでは表せないなにかを須賀はていねいに拾いあげ、日本語で記述する。
 
 
今でこそイタリア文学者として知られている彼女だが、そのイタリア行きは運命的であればこそすれ、気まぐれでもあり、本人もそれを認めている節がある。
でも運に命をゆだねられるのも、自らの身体感覚への素直さあってこそである。
 
夏休みには、イタリアに行ってみよう。そんな考えに私はたどり着いた。自分の中で育ちたがっている芽がいったいなんなのか、それを見きわめるためには、化石のようなアカデミズムにがんじがらめになって先が見えないままでいるよりは、もっと自然にちかい状態に自分を解き放ってみたい。あたらしい展開をとげるためには、強力な起爆剤が必要なようだった。イタリア語を勉強することによって、なにかが動くかもしれない。*10
  
どこかの国に行くのに大それた理由がいることはあまりない。
大いなる野望を持って計画を練りに練ったところで思い通りにいくはずなんてないのだが、それでも移動してみるだけで自分を良い意味での野生の状態に持っていけることがある。
里帰りという移動が人を原点に立ち返らせるのとは似ているようで少しちがう。
踏み入れたことのない土地がもたらす変化というのは予測がつかず、確信をもつ要素なんでないはずなのだが、それでもたまに、ある特定の場所になにかを感じ、信じてみたくなる。
 
...とかっこよくも表現できるものの、周囲の人々にとってははた迷惑であることが少なくない。(自戒も込めて)
 
今でこそ"ノマドワーカー"なんてカタカナ語が知られているが、彼らのように場所を選ばず働ける、なんて都合の良いものではなく、放浪はどうにもならない病気、とまではいかずとも性質である。
 
これに関しては編者の池澤も認めており、「性格の深いところにプログラムされたものであり、本人にもどうしようもない」もの*11と捉える。
 
似た言葉としてラテン語源のヴァガボンドにも触れられている。
 
ヴァガボンドには、ほんとうは一つの処にとまっているはずの人間がふらふら場所を変える、と行った、どこか否定的な語感がある。それにくらべると、ギリシアに語源のあるノマッドは、もともと牧羊者をさすことばだから、もっと高貴なんだ。ノマッドには、血の騒ぎというか、種族の掟みたいなものの支えがある...*12
 
須賀のノマド的気質はフランス時代の友人であるベルギー人のシモーネによって指摘され、その後亡き夫であるペッピーノにもそう思わせる何かがあったようだ。
彼女はちかい人たちの「どこかに行っておいでよ」*13という言葉に背中を押されつつ、脱皮するようにたびたび「何か重たいセーターを、旅先で脱ぎすてて*14いたようだ。
 
しかしそんな気分転換として旅行があったとしても、不安定な一留学生として日常的な自問自答をうながす根本的苦悩からはなかなか逃れられるものではない。
 
なんのために勉強しているのか、あるいは、将来、どんな職業を選ぼうとしているのか、扉を閉めたままで回答をおくらせて、ぐずぐずしているじぶんが、もどかしかった。その扉を開けると、たとえば、じぶんの価値を厳しく決めてしまう<他人の目>のようなものにわらわらと取り囲まれるのではないかと、そのことが怖かった。*15
 
海外にいること=他者であり続けることの苦しさとは、その土地の価値概念と自国のそれの板挟みになることだ。
ここでも他者で、でも今ここにいる時点で自分の国にとってもよそ者
先ほどの二重構造に加え、されにもう一つ、層が加わってしまった。
日常的な<他人の目>と、自国の視点から自己を他者化する目に、須賀も苦しんでいたのではないだろうか。
価値というのは通貨と同様、標準化されているからこそ参照され共有されるものであり、それが複数になると混同することはあれど、それぞれから"いいとこ取り"できることは少ない。
アイデンティティの崩壊だって起こりうるし、物理的な移動よりも精神的・文化的な移行というのは想像以上に時間がかかる。
かく言うわたしは過去5年間、カルチャーショックとカウンターカルチャーショックのどちらかに常に悩まされている気がする...
 
 
須賀はそういった内外の圧力を、どう克服したのだろう?
 
イタリア、さらにはコルシア書店との出会いが彼女の人生を決めた、と言ってしまえば簡単だが、書店そのものが活発であった時期も、そこに須賀が直接関わったのもほんの数年ほどであり、彼女にとっても書店にとっても中心的役割を果たしていた夫の早世を考慮すると、どちらかといえば「書店は、もう彼女にとって英雄たちの戦場ではなくて、避けるわけにいかないだけの、だれもが人生で背負っている、ふつうの重荷*16に早い段階でなってしまっていたはずだ。
 
物質的には貧しいながらも夢のようなひとときが過ぎ、若かったころの"自分探し"とはまた異なる種類・段階のなにかに悩まされながらも晩年書き連ねたのがこの数々のエッセイなのだろう。
 
各編に通底する過去へのまなざしを裏付けるものに、夫を含めた登場人物たちのさまざまな死がある。
そこにあるのはときには現実的で、ときには想像上の自己対他者ではなく、抗いようのない生と死という対比である。
 
『コルシア書店の仲間たち』が完成しつつある手前で、書店の創設者であるダヴィデの訃報を受け、「本の結末を、著者が書くのではなくて、事実が先取りしてしま」*17った衝撃が、その後エッセイを書く上での今は亡き仲間たちへの姿勢を決定づけたのかもしれない。
少なくとも「コルシア書店の仲間たち」をはじめとした池澤編集の『須賀敦子』に収録されている作品にはふしぎと"夫の死"を中心的に取り上げたものはないが、それは死というある時点での出来事よりも、彼との思い出を書き手である自分、そして書店という共同体の一部として取り上げつづけたかったからかもしれない。
 
しかしながら美しい生前の思い出だけでなく、彼の死後とり残された自分にも向き合う瞬間は往々にして立ち現れる。
  
夫を亡くして現実を直視できなくなっていた私を、睡眠薬を飲むよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ、と私をきつく戒めたガッティは、もうそこにいなかった。彼のはてしないあかるさに、わたしは打ちのめされた。*18
 
精神を病み入院している旧い仲間を目の前にして、彼のなかにある夫の死にさえも向き合わなくてはならなかった。
 
夫の死後、追い討ちをかけるようにして亡くなった須賀の父親の最期にかんする一編では、打ちのめされていたはずの出来事に「誠実に悲しんだ」先の喪失の受け止め方がやさしくもさっぱりとした形で書き表されている。*19
 
 
冒頭にもどろう。
 
わたしはまだ、イタリアに行ったことがない。
 
行ったことがないけれど、単純に行きたくないから行っていないわけではない。
 
この妙なイタリアへの距離感と片思いは、須賀がギリシアに対し抱いていたものと似ていることを発見しなんだか安心した。
 
ギリシアが怖かったのかもしれない。アクロポリスの太陽にきらめく神殿を見てしまったら、それまでじぶんが大切にはぐくんできたイタリアが、音を立てて崩れるのではないか。じぶんなりに構築してきたつもりの文明の流れへの理解を、もういちどゼロから築きなおすことになりはしないか。そんな気持ちが私をギリシアから遠ざけていたのは、ほんとうだ。*20
 
この須賀のなかのイタリア対ギリシアは、わたしのなかではトルコ対イタリアに置き換えることができる。
 
トルコの広大な土地に張り巡らされた重層的な歴史には舌を巻く。
 
先史時代からオスマン帝国に至るまであらゆる歴史的事件に最高の立地なのだ、一生かかっても全てを理解し尽くすことは不可能であろう。
トルコに留学中、ギリシアにはアテネロードス島クレタ島に行ったが、幸か不幸か私のトルコ中心的な「文明の流れへの理解」は全く揺るぐことはなかった。
でもイタリアはどうだろうか、揺るがされたい気もするし、そうでない気もする。
 
いずれにせよ、行ってみなければわからないことだ。
 
 
<参考文献>

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http://www.kawade.co.jp/nihon_bungaku_zenshu/bookdata/page/3/?sortby=vol

『コルシア書店の仲間たち』は単行本もあるが、こちらをおすすめする。なんとなく時系列になってはいるが、ハッとする一行が分厚いページの間で見つかる、拾い読みが楽しい。

 

今年の一月に30巻が完結し話題になった文学全集、古典の新訳担当の作家の割り当ては言うまでもなく、単体でも数冊でも、もちろん全巻そろった状態でも本棚だけでなく部屋の格があがる装丁となっている。

 

こちらの画像の方が格帯のイラスト×本体の色のマリアージュがわかりやすいが、

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 全巻揃えることになったらぜひ180度に並べたいものだ。

9784309874531.png

詳細はこちらから。

www.kawade.co.jpこんなシリーズも今年完結したらしい。

須賀敦子の本棚 池澤夏樹=監修|シリーズ|河出書房新社

 

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https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167577018


文庫本版は船越桂の彫刻と画質の悪さが相まって表紙がこわい。そんな目で見ないでほしい。

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https://www.hakusuisha.co.jp/book/b205546.html

私の周りでだいぶ前から噂になっていたこの本、須賀敦子が訳していたのか、もう読まない理由がなくなってしまった...

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http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309463728/

イタロ・カルヴィーノといえば『見えない都市』が全世界的に有名だけどまだ読んでいない...小説家の小説より、自著でも古典でも解説本が読みやすくおもしろいことが最近あったので、『なぜ古典を読むのか』から始めてもいいかな...

最近見つけた、文字が見にくいけれどもカルヴィーノのおそらく名著の装丁シリーズ、見飽きない...

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Italo Calvino | HMH Books 全貌はこちらから。

*1:asahi.com(朝日新聞社):世界の夢の本屋さん - フォトギャラリー なぜか高画質で見れる

*2:"入り口のそばの椅子" p.10-11, 「コルシア書店の仲間たち」『須賀敦子』 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 25)

*3:"ガッティの背中" p. 179, 同上

*4:"L夫人"p.208, 「旅のあいまに」

*5:"スパッカ・ナポリ"p.263, 「時のかけらたち」

*6:"解説" p.484

*7:”カティアが歩いた道" p.218, 「ヴェネツィアの街」

*8:”街" p.48, 「コルシア書店の仲間たち」

*9:"フランドルの海" p. 306, 「マルグリット・ユルスナール

*10:"カティアが歩いた道" p. 225,「ヴェネツィアの街」

*11:"解説" p. 481

*12:"砂漠を行くものたち" p. 324,「マルグリット・ユルスナール

*13:"女ともだち" p. 132, 「コルシア書店の仲間たち」

*14:"砂漠を行くものたち" p. 324,「マルグリット・ユルスナール

*15:"砂漠を行くものたち" p. 334, 同上

*16:"ふつうの重荷" p. 164, 「コルシア書店の仲間たち」

*17:"ダヴィデにーあとがきにかえて" p.167, 「コルシア書店の仲間たち」

*18:"ガッティの背中" p.191, 「コルシア書店の仲間たち」

*19:"オリエント・エクスプレス", 「ヴェネツィアの宿」

*20:"木立ちのなかの神殿" p.341, 「マルグリット・ユルスナール

「今日のみそ汁はインストゥルメンタルよ」Parcelsとかいう西京(最強)バンド

 
音楽を聴いたことのある人で、この言葉に疑問を持たなかった人などいないだろう。
 
シングルCDのinstrumental ver.を勝手に二曲めと勘違いしラッキー!と思って蓋を開けてみたら肝心の歌詞が入っていないじゃないか!?と、曲名をろくに確認せず列で認識した自分を省みた人も少なくないかもしれない。
 
いま家で作業する人が増えるなか、全体的な音楽のストリーミング率は下がったがインストゥルメンタルのジャンルだけ上がった、といったことも耳にしたような気がする。
歌詞がないほうが集中しやすいと言うのもうなずける。
 
それにしても音楽用語ってすごくヘンなものが多いように思う。
 
シングルの対義語?がアルバムなのもよく考えてみれば変だし、コンピレーションだのオムニバスだの、英語なんか全くわからず二ヶ月分のお小遣いでやっと初めてのシングルが買えた中坊にはちとハードルの高い単語が多かった。(平成キッズの話をしています)
 
そのなかでも"インストゥルメンタル"は群を抜いて頭の中を?で埋め尽くしてくる。
 
まずどこで切ろうか。
英語の知識を中学生あたりに巻戻して考えてみる。
インはinで接頭辞っぽい。
メンタルもなんか聞いたことある。
でも間のトゥルはなんだ、トゥルって。
じゃあインストゥルまで一気に続ける?
インストール?パソコン?
 
英語でスペルを確認するとinstrument(楽器)の形容詞系ということがわかるのだけど、他ではほとんど聞かない単語だ。
しかもまだtruのトゥル感がすごい。
 
文字感はさておき、”歌詞入りの音楽の歌詞なしバージョン”というのが一般認識であろう。
 
元からヴォーカルが入っている曲のヴォーカルをわざわざ抜いたものですよ、という印象が強い。
 
ここでwikiを参照してみる。
 
An instrumental is a musical composition or recording without lyrics, or singing, although it might include some inarticulate vocals, such as shouted backup vocals in a Big Band setting. Through semantic widening, a broader sense of the word song may refer to instrumentals.
 
なんだか思ったより曖昧だな。
もう最後の文なんて「幅広い音楽を指します」と堂々と言っちゃっているし...
inarticulate vocals(はっきりしないヴォーカル、おそらくア〜とかラララとか)が入っててもいいのか。
でも確かに、instrumentalというジャンルを名乗っておきながらヴォーカルが多少入っている曲も少なくない。
 
日本語版はどうだろうか。
 
器楽(きがく、英語: instrumental music、イタリア語: musica strumental)とは、楽器演奏による音楽のこと。声楽の対語である[1]
楽器との両方が用いられる場合もあるが、楽器が中心で部分的に声楽を含む場合(例:ベートーヴェン交響曲第9番など)は、器楽として扱う[2]オペラオラトリオといった大規模な声楽曲の中では、序曲間奏曲として器楽が用いられる場合もある。
 
なるほど。
元は声楽に対する器楽と言う位置付けだったようだ。
昔は声楽>器楽という明らかな上下関係があったことも書かれている。
 
かるく一般的な知識をおさらいした後でどうしても引用したいのが、かの有名なONE PIECEの作者、尾田栄一郎先生のインストゥルメンタルに関する以下の文言である。
 
"シングルCDなんか買うと3曲目あたりに歌なしの曲が入ってて
インストゥルメンタル」と書いてあります。
ご家庭でみそ汁の具を買い忘れたお母さんはこう言えばいい。
「今日のみそ汁はインストゥルメンタルよ」
テスト中、答えがうかばないとき、みなさんは空欄の横にこう書くといい。
漫画の中で僕は色々なもの描き忘れてると読者に指摘されるが、
あれは勿論「インストゥルメンタル」だ。" 38巻

 

もはや現代詩といっても差し支えない表現力と、文章を四コマにしたような起承転結。 

 
ONE PIECEは漫画本編もさることながら、SBS(読者からの質問コーナー)や扉絵、そして表紙の裏にまで徹底して読者を楽しませようという意気込みが細部まで伝わる数少ない人気長期連載漫画の一つだ。
何度読み返しても新しい発見があり、各単行本発売当初すでにオタクだった自分がいつになってもアップデートされるという、オタク冥利に尽きる作品である。
 
そんな引き出しが無数にあるなかで、多分三秒くらいで思いついて書いているんだろうけど、だからこそ先生の笑いの瞬発力が光っているのが巻頭コメントである。
一般的な漫画だと作者の近況報告や本編への意気込みが書かれていることが少なくないのだが、尾田先生の場合、突拍子もない内容が書かれていることが多い。
 
私は長年にわたる ONE PIECE愛読者だが、本編の内容はけっこう忘れていても巻頭コメントでどうしても頭から離れないものがいくつかあり、このインストゥルメンタルに関する38巻のものもそのうちの一つだ。
今見たらこの巻の発売日は2005年で、私は当時小学校高学年だった。
ちょうど兄姉の影響でCDという物体を知覚し始めた時期と重なり、それが今に至るまでの強烈な記憶に影響しているのかもしれない。
ちなみにONE PIECE本編ではウォーターセブン編まっただ中で、夏休みに一気読みしていた記憶があるけど泣きすぎて脱水症状になるかと思いました。
 
改めてこの巻頭コメントを見てみると、いかに私たちがインストゥルメンタルに対して曖昧且つちょっとクールなイメージを抱いているかがわかる。
”外来語”かつ”音楽用語”であるがゆえに本来それが指すところはなんであれ、なんとなくかっこよく聞こえてしまう。
しかも「絶対聞いたことはあるけど実はよく知らない」単語でもあるので、言われた側はなんとなく「この単語を知らないと思われたら恥ずかしい」と思い訊き返せない、という心理も利用することができる。
...といったことを踏まえて、尾田先生は「"インストゥルメンタル"という言葉を使えば、本来はネガティブなものがカッコ良く言い換えられてその場をうまく切り抜けられますよ」という、いかにも小中学生が好みそうな小技を伝授してくれているのだ。
 
あるべきものの不在は不という表現を使わなくても表現できる」というのが心理作戦も含み、自身への皮肉も込めて見事に数行で表現されている。
 
しかしここで私が疑問を呈したいのは「みそ汁」という例えである。
この場合、具が歌詞で、みそ汁の部分が楽器の演奏部分ということになる。
なんとなく、みそ汁の場合、確かに具が入っていなかったらショックだけど、みそ汁がみそ汁たらしめる要素を考えたときのみそと汁の比重が具より圧倒的すぎるのだ。
つまり歌詞(具)がないがしろにされてはいないか、と思うのだ。
 
どちらかというと寿司のワサビ抜きの方が近いんじゃないか。
え、じゃあネタとシャリが歌詞で、ワサビが歌詞の部分か、といったらそれもあまり腑に落ちない。
ネタとシャリの関係なのかもしれない。
一心同体。一蓮托生。
それを無理に離そうというのだから大したものである。
 
instrumentalという単語のそのものが本来的には"補助的"というニュアンスが強いことにも注目されたい。
先ほどの寿司とワサビの例えが適切かもしれない。
寿司がメインで、ワサビは補助的。
 
でも楽曲の場合、そうはいかない。
曲とはなんなのだ。
歌詞と演奏がそもそも一体化して曲を成り立たせていると考えると、それを分離することはもはや黒魔術的な試みなのかもしれない。
ワサビをチョンと抜き取って「あいよっ!サビ抜きね!」といった単純な引き算ではなく、曲にとってはごま塩をごまと塩に分けるくらいの行為なのかもしれない。
 
でもこれ、別に技術的にはもとから別々にレコーディングしていたりして、対して難しいものではないだろう。
 
それでも一度完成すると離れがたい。
 
にしてもlylics-lessとか言わないところにやはり音楽用語の凄さを感じる。
これだとマイナスの印象にどうしてもなってしまう。
歌詞の方がどうしてもメインだったんですね、と思われてしまう。
  
そもそも何が歌詞で何が歌詞じゃないのか。
歌詞カードに書かれているから歌詞なのかというわけでもないだろう。
逆に、声だけの曲でも歌詞が全くない場合ももちろんある。
 
...と、私のようにインストゥメンタルを中学生からこじらせてしまった人に紹介したいアーティストがいる。
Parcelsというのだが、ひとことでいうと生年月日的に70/80年代をリアルタイムで追えなかった人たちのために存在しているようなオーストラリア発の五人組バンドである。

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https://www.discogs.com/ja/Parcels-Parcels/master/1437728
彼らの曲は、「インストゥルメンタルする必要がない」、いわばアンチ・インストゥルメンタル(anti-insturmental)的であると言える。
歌詞そのものと楽器で奏でる音楽の恣意的な分離を許さない楽曲が多いのだ。
 
ラーラーラーとかが多いし、何よりイントロが長すぎて初めて聴いたときは「え、歌詞ないの?」と思わせる曲も少なくない。
歌詞があっても同じフレーズの繰り返しが多く、歌詞をじっくり聴くというよりはヴォーカルの声が楽器の一つというような位置付けである。 
これらの代表曲はそうでもないのだが、私が好きな曲はイントロがものすごく長い印象がある。
ということで2018年に(やっと)出たアルバムのそれぞれの前奏時間を以下書いてみた。
カッコ内は曲全体の長さである。
いうまでもなく何を前奏とするかもインストゥルメンタルの定義同様、限りなく主観に拠るところが多いのでそこはご容赦いただければと思う。
 
1:01  (3:08) Comedown
0:29 (3:57) Lightenup
0:20 (3:25) Withorwithout
0:05 (3:43) Tape
6:01 (8:35) EveryRoad
0:50 (3:39) Yourfault
0:18 (5:30) Closetowhy
1:55 (5:27) IknowhowIfeel
1:00 (5:12) Exotica
0:24 (3:01) Tieduprightnow
0:19 (2:27) Bemyself
 
...まあ確かに長いかもしれないけど、比較対象がないとなんとも言えない。
数えている間、何をやっているんだろう?となんども自問したし、そもそも音楽における平均的なイントロの長さの統計なんてあるのか、とこの文章を書いている意味が見えなくなってきて検索してみたら出てきた、出てきた!
 
2017年にオハイオ大学から研究結果が報告されており、各ニュースメディアがそれに呼応する形で「あの長かったイントロはどこへ?」「Spotifyがイントロを殺した!」と取り上げている。
 
研究によると、最近の曲のイントロが格段に短くなっているのは、Spotifyなどのストリーミングサービスの台頭が理由ではないかとされているのだ。
この研究が発表されたのも2017年で、ちょうどこういったサービスが増え始めている時期だったと記憶している。
私が利用し始めたのも確かその頃からだった。
 
80年代中旬の平均のイントロの長さが平均20秒以上であったのに対し、5秒ほどに落ちているそうなのだ(この「落ちた」という表現はしかし必ずしもネガティヴに捉えられるべきではないが敢えて直訳に近い表現を採用した)。
そして、その背後にはストリーミングサービスの「スキップのしやすさ」が関連していると。
なんでも利用者に30秒以上再生されないとプレイ数としてカウントされない、つまり再生量が支払われないということは作る側、つまりアーティストがお金を稼ぐにはもちろんその30秒間でいかにリスナーの心を掴むかが鍵となってくる。
とすると、長々とイントロを演奏するよりはサッとヴォーカルでより早くつよい印象を与えられた方が良い、というのが全体的な傾向らしい。
 
さりげなくシャッフルして聴いていた音楽がマッチングアプリみたいな話になるなんて。
私はSpotifyの、自分が作ったプレイリストを流しっぱなしにしているとそれが終わった時に勝手に私の好きそうな曲を流してくれるシステムが好きで、もう最近ほとんどそういった形でしか好きな曲を発見していない。
でもこの「好き」の「発見」の裏にはもちろん、オトナのおカネの世界があるんだろうなとは思っていたけど、30秒とはね...!
 
明らかにSpotifyに喧嘩腰なメディアとは裏腹に、私は今の今、この記事を書くまでそんなことを意識したこともなかったし、イントロの長短だけが曲の良し悪しを決める要素ではないはずだし、80年代のイントロの長さの裏にも違った商業主義があったとしてもおかしくない。
 
それでもやはり、音楽を聴く手段そのものが聴く側のみならず作る側にも影響を及ぼしているのは確かで、それがもちろん音楽界全体の変化をもたらしているのは事実だろう。
 
ここでもう一度、Parcelsのアルバムのイントロの長さたちを見てほしい。
 
最初の曲はなんというのか、三分の一がイントロということで、最初の曲は曲全体がイントロっぽくなりがちというアルバム構成あるあるを差し置いても、Spotifyのシステムを敢えて無視しているようにしか思えない。
 
やっと四曲めで早くなったかと思いきや、そのあと意味のわからない曲(台詞はなんか言っているが本格的に歌うのは6分あたりから、それもすぐ終わる)が入り、そのあともSpotifyのイントロの鉄則を結構な確率で無視し続けている。
 
ここで偶然なのが彼らが本格的にデビューしたのもこのイントロ問題が騒がれ始めた2017年ということだ。
 
私がParcelsの彼らの80年代っぽさに惹かれたと思っていたが、その80年代っぽさというのが、リズムや雰囲気以前に一見シンプルだが気づきにくい、今は廃れつつあるイントロの長さにあったのかもしれない。
逆に言えばジャンルに限らずイントロを長くしさえすれば80年代感が出るとも言える。
 
ちょっとイントロ論が長くなってしまったが、イントロが曲に占める割合が高くなるにつれ、曲内のインストゥルメンタル(歌詞なしの部分)の割合が高くなる、といったら前半とつなげることができるだろうか。
 
しかもこのParcels、ライブバージョンはもっとイントロの長さ且つインストゥルメンタル感がすごいので「歌詞が全く主役にならない」演奏っぷりを見届けてほしい。
 
もうここで起こっているのはみそ汁でも寿司でもない。

刺身の味噌漬け(西京漬け)定食である。

 

youtu.be

キーボードのPatrickが3:37あたりからキーボードに背を向けて静かに狂ってしまう以下のライブ動画にも注目されたい。

youtu.be

以下ヘビロテ関連曲たち

↓Tom Mischも歌っている時の苦しげな表情が良いし、FKJはFrench Kiwi Juiceの略らしい。フレンチキウイジュースって何?

youtu.be↓骨盤がどうかしている方々たちによるフロアヌメヌメダンス

youtu.be

↓うう〜む、良いイントロの長さぢゃ...(イントロじいや)

youtu.be

 

私は音楽なんて作ったことがないどころか、音楽理論も習ったことのない、アウトプットの観点で言えば全くの音楽初心者でしかない。

それでもイントロの長短ほどだったら私にも数えることができ、そこから自分が好きなバンドや曲の傾向や現代の音楽産業における位置付けが少し垣間見えるのは楽しい。

好きなものは好きなんだ、良いものは良いのだ、というバカボンのパパ的な意見ももちろん大賛成だが、自分が好きなものの「どんなところが好きか」「なぜ好きか」の輪郭をなぞり全体像が浮かび上がってくることにはまた別の喜びがある。

そしてそれはずっと曲を流しまくって(私は好きな曲は好きになった途端一曲だけ500回ほど聴く)、歌詞が入っているのにインストゥルメンタルに聴こえるくらい、そもそも曲を聴いていないように感じるくらい、一つの曲を聴きまくってみて見えてくるものでもあったりするのかもしれない。