きよかのブログ

高等遊民を目指します。

中間でいいじゃない

いやはや、10月も終わりそうですね。

 

今回ご紹介するのはこの三冊!

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

どれもめちゃくちゃ面白いのですが、 

なぜこの三つを同時に紹介したのかと言いますと、共通点があるわけなんですね。

 

タイトルにもあるように、中間です!イエイ!

 

三冊はそれぞれ

能動態と受動態の間としての「中動態」を、

言語が文化的(人為的)・自然的産物のどちらでもあることを、

日本人と外国人のコミュニケーションの方法論の間を、

論じています。

 

一見違うジャンルの本なのに共通点があるって面白いですよね。

こういうことがあるから読書はやめられない。

話が逸れますが、私は「乱読」というのは高い確率で不可能だと思っています。

なんだかんだ、どこかで自分と関係している本を選んでしまうので、

最初は乱読したと思っていても根本的な部分では無理というか...

結果的に読んでみたら他でも同じこと言ってたな〜、ということもありますしね〜

 

さて

皆さんは"中間"と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?

1 物と物との間の空間や位置。「駅と駅の中間に川がある」「中間地点」
2 思想や性質・程度などが両極端のどちらでもないこと。「双方の意見の中間をとる」「中間派」
3 物事が進行中であること。物事がまだ終わらずに途中であること。「得票数の中間発表」

中間(ちゅうげん)とは - コトバンク

 

辞書で検索したら三つほど見たかったのですが、

今回特に論じたいのは二つめの定義です。

 

私はこの意味での中間に対し、ずっと否定的な考え方を持っていました。

特にコミュニケーションの場面ではなおさらで、

エスかノーかを迫られた場合、

「どちらでもない中間」というのはあまり良いと見なされない、

という印象があります。

「中途半端」という言葉なんてネガティブな中間の最たる例ですよね。

 

また、「中間を図式化せよ」と言われたらどんなものを描きますか?

多くの人が下のような図を描くのではないでしょうか。

 

       ●         ○          ●     

 

そしてここの間にある○は、外側の二つの点と等間隔の距離を保っていませんか?

 

ここでもう一度定義を見直してみましょう。

一つめの定義には単に「物と物の間」と書いてあるだけで、等間隔なんてどこにも書いていません。

英語の"middle"を辞書で引くと等間隔と明言されていないまでもそういった定義が見受けられますが、ここではあくまで日本語で考えるので置いておいてください...middle Meaning in the Cambridge English Dictionary

 

これら三冊の本は中間に当たる○「等間隔でなくてもいい」し、

「常に○が動くものである」ことを教えてくれた本でした。

 

図で表すとこんな感じ。

 

       ●                 ○  ●     

                             これでもいいし、

       ●   ○                ●     

                             これでもいいし、

       ●            ○       ●     

                             これでもいい。

 

もう少し本の中身を紹介します。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

私たちは文法で「能動態」と「受動態」(とその対立)しか習わないし知らないが、

ギリシア語に始まる文法の歴史を紐解くと本来はそうではないことが判明。

むしろ「能動態」と「中動態」の対立であり、受動態から生まれた...

なんて言われると文法用語アレルギーはそれだけで本を投げ出しそうになりますが、

もうちょっと頑張って読んでみると、5章から読みやすくなります。

 

この文法と密接に関連しているのが「意思」の概念なのですが、

アリストテレスの時代にはそんなものはありませんでした。

それは「責任者を特定して責任を押し付けるため」に後から作り出されたものでした。

 

「責任者を特定するために言語が変化し」、

「行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意思に他ならない。

意思とは行為の帰属先である」。(p.176)

 

冒頭から散々述べられているように、

アルコール中毒者のような深刻なものから身近な問題まで、

誰か一人に責任を問うことは非常に困難です。

にも関わらず、私たちは「本人の純粋な意思」による行為(能動)か

そうではない(受動)かで問題を片付けようとしてしまう。

本来はスピノザが述べ、上の図で示したように常に揺れ動くものです。

それに当たるのが中動態であるのだが、

私たちはその存在さえ知らなかったから苦しかった。

この存在を知ったら楽になるかも。

まだ中動態の子孫は言語の中に生きているし。

 

この本の面白いところは出版社が「医学書院」なのに、

中身が思いっきり哲学書であること。

また、取り上げている分野も文法から哲学、小説と多岐に渡り、

よくここまでまとまるものだと感動しました。

筆者の学際的姿勢というか、

「中動態をキーワードにして様々な分野を結びつけたい」

という気持ちが伝わってくるような気がします。 

 

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

これもプロローグの翻訳がわかりにくいのもあって進まないけど、

ちゃんと一章からスイスイ行けます。 

恥ずかしながらまだ第一部しか読んでいないのでその部分だけ。

 

筆者はある言語が色に名前をつけるときに、

それが⑴自然的なものか、それとも⑵文化的慣習によるのか、

という19世紀から続く論争に終止符を打とうと試みました。

例えば、ある文化にとっての「青」は他の文化でも「青」なのか(⑴)、

それともそれぞれの文化がランダムに色名を付けているだけなのか(⑵)。

 

これに対し、筆者は「文化は制約(自然)の中で自由を謳歌する」(p.115)、

という結論を下しました。

ある一定までは自然が普遍的にどんな地域・言語にも影響を及ぼすが、

それ以外は各文化に委ねられている、ということです。

 

これも一見「どっちつかず」と言われてしまいそうですが、

こういった分野におけるたいていの良い論文の結論は

どちらにも中立の立場を示しつつ、良いところを取り入れている気がします。

それは筆者が行ったように先行研究に敬意を払い、

綿密に文献を読み込めばこその結論であるとも言えます。

 

筆者の問いの立て方も計算されています。

何度も「〇〇か、△△か?」と書いておきながら、

結論はどちらでもないオリジナルなものであるわけで、

より自分の答えが際立つ書き出しをしていると感じました。

 

新書であり、三つの中で最も読みやすいと思います。

 

作者は近年騒がれている「コミュ障」問題への解決策を斬新な方法で紹介しています。

 

特に面白いのが第6章です。

 

飛行機で隣の席の人に話しかけるか話しかけないか。

これに対しグローバル化が頭にあると、すぐに欧米式に

「フレンドリーになった方がいい」なんていう人が続出し、

「初対面の人とうまく話せる方法」なんていう本が何十万部も売れたりする。

いや、そうじゃないだろ。単なる文化の違いだろ。

それならば隣の人が本を読んでいたら気を遣って自分も静かにする、

という文化も認められていいはずだ。

 

「コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派はこうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない。」(p.148)

 

本当にこれに尽きると思う。

どちらかが絶対的に良いということはない。

ただ、知っておいて自分なりに時と場合によって取り入れたらいいと思います。

ここが中間のいいところで、どちらでもないからこそどちらにもなれる、というかね。

 

・・・と書いてみると自分がいかに良くも悪くも中間にいるかがわかります。

でもそれでいいと思います。

それと同時に、この「中間で良い」という考え方も常に揺れ動くべきである、

とも思っています。

 

はー長くなってしまった。

常に入れ替わりつつも30冊くらい家に本があるのに全然紹介しきれない。

明らかに後半にエネルギーが足りていないのですが、まあ良しとしましょう。

読むだけじゃなく自分で書くとなると大変ですが、

ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました!

ヨガの言語

そろそろ大学生活も終わりを迎えているわけですが、
振り返ってみればヨガと飲酒だけは欠かさなかったかな、と思います。
飲酒の話はまた今度にするとして、最近クラスにも本格的に通い始めたことですし
今回ヨガについて書くことにします。
書評がこのブログ全体のテーマでもあるわけなので、もちろん面白い本の紹介も兼ねています。

 

私は様々な先生と出会いました。
最初は学校のジム、YouTube、そして授業、今はスタジオの、と言ったところです。
私は他の分野に関しても先生運がめちゃくちゃ強いんですよね。
後ほど紹介する『ヨーガ大全』には「良いグル(師)は見つけるのに12年かけろ」と書いてあったので、自分のことをとてもラッキーだと思っています。
最初始めたときは肩こりと運動不足がきっかけでしたが、とにかくポーズを覚えるのに必死でした。
でも新しいことを始めるときって、こういった時期が一番辛いけど楽しいかもしれません。
とりあえずクラス中は体ボキボキ言わせながら、とにかく必死に見よう見まねでやろうと集中するので、他のことは頭から吹っ飛びます。
気を抜いたら怪我をしますしね。
私は瞑想もやってみたこともあるのですが、やっぱり体を動かす方が頭をリフレッシュするには向いていると感じました。
(というか瞑想は寝てしまいます)

 

まだまだ初心者ですが、さすがに五年もやっていると色々なことに気がつくようになりました。
今日は特にヨガの言語について書こうと思います。

インストラクターの方々を見ていると話しながら受講者と動いているのももちろん、指導する際の言語の選択が難しそうだなと感じます。
これは他のあらゆる体を動かすスポーツなどの指導者に言えることかもしれません。
(ちなみに職人気質で「背中で学ぶ」ばっかり、というのも意地悪であまり好きではありません)

やっているときに様々なアドヴァイスをいただくのですが、
「そんな綺麗にポーズ取れるわけないだろ、ブッダじゃあるまいし」と思う瞬間が多々あります。
もちろん優しい、経験豊かなインストラクターさんであればあるほど「できる範囲で無理をしないでください」と強調してくれますが、
その「できる範囲」もやってみないとわからない部分が多いわけで、できるだけ理想的なポーズを取ろうとします。
もちろん参加者みんながみんなできるわけではありません。
特に固定メンバーがおらず、レベルがまちまちなクラスでは尚更です。
『ヨーガ大全』の中でも言及されていますが、そこで重要になってくるのがイメージです。
最悪ポーズがぐちゃぐちゃでも、自分の頭でイメージを膨らませ試行錯誤を繰り返すことが求められます。
あまりにも間違っていれば直してくれるわけですから。

 

そのイメージのために欠かせないのが、言語です。
私はポイントが二つあると思っています。
まず、簡潔であること、そしてその中で正しい概念を伝えること。
ヨガはだいたい一時間やそこらへん、最初から最後まで大きな流れの中でほぼ毎回違った色々なポーズをするわけですから、くどくど説明する時間はありません。
だからと言ってなんとなく感覚でやっていいものではありません、特に慣れていないうちは。

これらは一見当たり前だし、キャッチコピーやプレゼンのコツだな、なんて私も書きながら考えたりしていたのですが、まあそうかもしれません。
(良いものは普遍性を帯びてくるものです)
でも、少なくとも私が今まで経験したスポーツとは違う印象を受けました。
例えば私は剣道をやっていたのですが、新しい技を教わる時は一回集合して一通り説明を聞いてから技に挑戦する、という形を取っていました。
教わる段階と実践の段階に断絶があるわけです。
座学、とまではいかないにしても、

①見る・聞く〜頭で考える

②考えながら実践する

という明らかな隔たりがあります。
今思えば体育の授業などでも、あまりにも説明が長く「そんなこと一気に言われても覚えらんないよ」と感じていた記憶があります。
(そもそも話を聞いていなかった)

 

これに対しヨガは考えながらやる、聞いて見ながら考えて動かす、脳と体の連絡をよりスピーディに行うことが求められます。
太陽礼拝なんかは、ポーズはいくつかあるもののある程度決まっているので反射的に動くようにもなりますが。

さて、この「ヨガにおいて言語が重要である」と私が考える根拠は主に二つあります。

 

⑴ポーズの名前の翻訳

一度、何を土地狂ったのか「アシュタンガヨガ」というクラスに参加したことがあります。
約一時間全部サンスクリット語でした。(日本の教室で全員日本人です)
もちろん私があらかじめ初心者であることは先生(もはや僧だった)に伝えてはおいたものの、周りは全員毎回出席の壮々たるメンバーで、なぜかクラス開始前に逆立ちをしまくっていました。
しかし気が付いた時にはもう遅かった。
「オーム」から始まるマントラを唱えて、いよいよスタートです。
(このときはさすがにカンペを頂きましたが、カタカナで書いてあるから読めるだけで全く意味不明)

まず「タダーサナ」。
は?と脳がフリーズします。そして体も止まります。
やったことあるんですよ。知ってるし。立つやつね!なんなら山のポーズっていう日本語も知ってる。
と思いつつ、周りを見て他のポーズも一生懸命真似しつつ頑張ったわけですが、
ついに「シャヴァーサナ」(最後必ずやる寝るポーズ)以外全くわからず。
もちろん今まで経験したどのヨガよりも肉体的に一番辛かったのですが、
言語が理解できなかったため、先ほど言及した脳と体の連携がうまく取れなくて、何よりも悔しかった。
ヨガはインストラクターがあらかじめ組んだ流れの中でやるから気持ちくなるように計算されているのに、
彼らの発する言葉(日本語の場合でも)が理解できなければ意味がないも同然です。
(アシュタンガヨガはもうちょっと色んなポーズ名を覚えたら再チャレンジします)

なので初心者向けのクラスでは、サンスクリット語のポーズ名を言ったあと、
よりイメージしやすい日本語か英語を追加することが多いです。
私がポーズとサンスクリット語名・日本語名共に好きなのは「ヴィラバドラーサナ」、戦士のポーズです。
すごく自分が大したことのある人物に思えてくるポーズなのでオススメです。

もちろん慣れていてポーズ名を理解できる人にはこれは必要ありません。
ただ、ヨガが幅広い人に開かれている限り、イスラーム教のクルアーンのような、
アラビア語でなければ意味がない」という考え方に固執する必要もないんじゃないかと思うわけです。
もちろんイスラーム教を否定するわけでは全くなく、むしろこんなに難しいとされているアラビア語中心主義であるにも関わらず、年々信者が増加していく背景にも興味があったります。

 

⑵形容詞

先ほども言いましたが、ヨガのポーズをサンスクリット語はおろか日本語で言われても最初はイメージできない人がほとんどです。
むしろ経験者であればあるほど、様々なアドヴァイスを取り入れ、試行錯誤を繰り返し、同じポーズを何年もかけて何百回も繰り返すことでより良い形にしようとします。
そこで必要となってくるのが、先生によるポーズの説明です。
説明と言いましたが、これも一回のポーズにつき長くて20~30秒。
「(息を)吸って〜吐いて〜」なども間に盛り込むので、もっと短いかもしれません。

そこで最近、様々なインストラクターの共通言語が一部見えてきました。
以下三つ並べてみたのですが、×は動詞を使用し長いのに対し、○は形容詞で短い、という特徴があります。
また、×は一見すると「やろうと思えばできます」と反論したくなる感じですね。
もちろん補足として○の後に×を言うこともありますが、大抵は○が先、という印象を受けました。

広い ○肩を広く  ×背筋を伸ばし肩幅を広げる
長い ○手を長く  ×手を(できるだけ)伸ばす
重い ○お尻を重く ×重心をお尻に置く

こういった動詞を形容詞に変換する作業の上手な先生は、人の体を動かすことが上手だと感じました。
言語のチョイスは⑴と異なり、先生の数のぶんだけ言語があり、先生との相性ももちろんあると思います。
また、言うまでもなくこれだけがいい先生を見つける決め手ではありません。

 

最後に軽く本の紹介!

図説ヨーガ大全

図説ヨーガ大全

 

これは大学の図書館で、あまりにも分厚くて黄色かったのでトイレの前の「東洋哲学コーナー」で私の足を止めることとなりました。
ヨガの概念を筆者なりの言葉+自身のイラストで説明しているため(ここでも言語が重要ですね)見かけによらずわかりやすく、インドやインド人の考え方を知る上でとても面白いと感じました。(ITとマンダラを関連づけていたり)
修行僧にもゆるい人がいたり、なんとなくやっていたポーズの深い意味を知ることもできました。
もちろん、ヨガが長い年月をかけて作り上げられた哲学であり、れっきとした医学であることも。
ヨガ(ヨーガ)を「心に鈴をつける」、つまり飼いならすためのものである、と書いてある部分も非常に興味深い。
私は個人的にヨガは目的でも手段(ダイエット・肩こり解消)でもなんでも良いと思っているのですが、
いずれにせよ精神・肉体の自己治癒能力の向上という共通項があります。
あとよくレッスン中に聞く、ヨガを通して自分の変化に「気づき」、「戻る」という感覚もそうですね。
本来の状態、悪い状態からベストな状態からヨガを通して戻ってくる、つまりリセットする感覚がわかってきた気がします。
(このブログもアロマヨガ直後に猛烈に書いております)

 

最後に、ヨガは今思えば私の趣味に数えることができるかもしれませんが、なんとなく続けられたから続いたと思います。
それこそ「戻ってくる」じゃないですけど、毎日決めてやるわけでもなく、
なんとなくやりたい時にやっていたらいわゆる習慣化していました。
何かを続けるのもきっちり決めるんじゃなくて、こういう方法がいい場合もあるのかもしれません。
このブログもそうなのかなぁ。

結婚したくない、働きたくない(けど呑み食いしたい)

最近アナーキズムにはまっている。

というのも栗原康著の『はたらかないで、たらふく食べたい-「生の負債」からの解放宣言-』を一気に読み、

更に同著の『村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝-』もつられて思わず読んでしまったからだ。

 

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

 
村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

 

ちなみに一冊めは以下リンクのBETTERA STANDで出会った。

オープンスペースで色々な目的で利用できるのだが、

その奥にちょっとした本棚みたいなところがあって、

覗きに行ったらオーナーっぽい人がパソコンをいじっていたりしてなんとも良い雰囲気だった。

顔が赤かったのでバーに並んでいる日本酒を飲んでいたに違いない。

 

bettara.jp

 

私はできれば働きたくない。

バイト先で泣きながら「働きたくありません」と言って社長を困らせたこともある。

社長が変人じゃなかったら終わっていた。本当にありがたい。

人は大きくなると泣ける場所でしか涙を流しにくくなるのだ。

あそこで泣いておいてよかった。

 

さて、栗原氏が描き出す大杉栄伊藤野枝はすごくかっこいい。

ちょっと今の私の文体も氏のそれに似てきてしまっているのだが、

上記の二冊のタイトルみたいな魅力的な単語を盛り込んで、

スバズバと現代社会の問題点、主に結婚制度を中心に大杉や野枝とぶった切っていく。

日本史や日本の歴史人物に全く興味のなかった私にでさえ、すごく読みやすかった。

 

いや、かっこよすぎる。ありえないだろ。

やっちゃいけないだろ、思ってても。という部分もいっぱいある。

現代の道徳に当てはめると返り討ちで即死してしまいそうな部分も少なくない。

あちこちにお金を借りまくって学ぶことを貫いた高野長英や、

家族の反対を押し切って駆け落ちした男と離婚した挙句、

二番めの夫の大杉とは四角関係になり、しかもその中でも力づくで頂点に立った野枝はもう、反則である。

私も半ば同じようなことをしているので人のことは責められないが。

 

そんなめちゃくちゃな人たちでも、

思想がしっかりしていたから現代でも彼らの功績が讃えられているわけで、

もう亡くなった人の性格や罪を責めるのはここらへんにしておこう。

 

結婚制度に関する部分が面白い。

野枝は栗原によれば結婚制度は奴隷制度で女は家畜と同じ、

ふざけるな、なめんな、そんなものいらないと言っている人である。

(と言いつつ子どもは産みまくっており、結婚≠子ども≠家族をつくづく体現している)

私も結婚したくないし、奴隷制度なんて御免である。

 

野枝が怖いのは、ガチだったことだ。

女性の権利を主張するために制度を批判するのではなく、

体当たりで結婚や家族制度を実際に壊しにかかって行ったからである。

でも、野枝みたいに制度をぶち壊した先にはなにがある?

 

『放蕩記』は母娘の葛藤を描いたものだが、決して父親が無関係なわけではない。

むしろ読んでいて作品中父親の影の濃さに驚くほどだ。

父親が浮気しているから、母親が娘に愚痴を言うようになり、それが諸悪の根源かと言うとそうでもないのだが。

同性同士のぶつかり合いは、異性がいるからこそ引き立つものだ。

 そもそも母娘関係は父親や家族制度なしには生まれない。

(とはいえこの作品の主題は注目に値する。母から娘に対する数々の行動・言動は戦慄するものが多いが、身に覚えがある人は少なくないはずだ。作品中では躾と"調教"を区別している。)

それでは家族制度が悪いのか?

放蕩記 (集英社文庫)

放蕩記 (集英社文庫)

 

それだったら無くしてしまおう。

 

でも好きな人とは一緒にいたい。

プラトンの言うように人間は元は二人で一つだったのだから、

パートナーを求めるのは当然だ。

(これはよく聞く話だったのでちゃんと読んでみたら、球のように移動していたらしくすごく気持ち悪くて驚いた)

鍛冶場の神・ヘファイストスが提案したように、

好きな人とずっといたかったら物理的に溶接してもらうのも悪くないかも。

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 
饗宴  恋について (角川ソフィア文庫)

饗宴 恋について (角川ソフィア文庫)

 

でもいくら何でも一蓮托生は嫌だな、やっぱり色んな人と付き合いたい。

 

じゃあ『すばらしき新世界』が理想かもしれない。

タイトルからして理想的じゃないか。

"家族"なんて気持ち悪い。"両親"とかいう概念もヘドが出る。

子どもは壜の中で生まれ、あらかじめ人生も身分も容姿の良し悪しも決まっていてとても楽だ。

好きな人とやりたい放題だし、むしろ男女問わず乱交が賞賛される世の中だ。

それでも避妊はきちんとしているから子どもはできない。

家族という集団の構成員間のなんという息苦しい親密さ、なんという危険で常軌を逸した猥褻な関係!気でも狂ったように自分の子供たちを抱え込む母親

は、もういない。

親から子どもが生まれる過程が断ち切られるため、家族や家庭などもなくなる。

そして人々はストレスのない、安定した生活を手に入れることができる。

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

 

やっぱりまだまだわからない。

どれも正しくて、どれも間違っているような気がする。

でもなんとなく、女は強いなと思った。

自分が女だから、出産は痛そうだからとかではない。

 

『BUTTER』を読むと、自分の女性性(性的魅力や商品価値)に期待を持つどころか嫌気が差し、胃もたれを起こすほどだ。

若くも痩せてもいない女が何人もの男をたぶらかしていたのなら、私たちも希望を失うなとか、そういうレベルの議論ではない。

 

木嶋佳苗、もとい、カジマナはこう叫ぶ。

「女が幸せになれないのは悪い。女が男を受け止めれる女神になれ」と。

男には敵わない。

でも料理が作れる女は無敵だ。

女子力という意味ではない。

生の権力を握っているのは女なのだ。

そんなもの何百年も前から決まっているから、

自然の摂理に従って、欲望のままに過ごせばいいのである。

我慢する必要などない。

こんな無敵な存在の前では、野枝がぶち壊そうとせずとも、

つい最近できたばかりの制度、そしてそれに関する議論さえも無意味かもしれない。

 

(ちなみにタイトルに関連して「ちびくろさんぼ」が挟んであるのだが、特に進化に関する描写が面白かった。たまたまその時生き延びたものが生き、死ぬ者は死ぬ。それだけだ。)

(また、『放蕩記』の夏帆と『BUTTER』の里佳は似た部分があり、女子校出身の男役であるところだ。彼女たちが身につけた社会的役割や立ち回りは、女子校卒業後も影響が大きいようだ。)

BUTTER

BUTTER

 

 

と、一気に書いてしまいましたが、どうなんでしょう。

お盆明けで疲れているだけかもしれないし、

たまたま最近読んだ本のキーワードが"結婚"や"労働"だった気がするので、

思いついて勢いで書いてしまいました。

 

文章ではこんなことを言っていても実際に言うとぶん殴られるのがオチですが、

最近嬉しかったのは高校からの友達で看護師の子に

「あなた(私)みたいな人が働かなくてもいいように働くのもいいかなって思えてくる。だって私はあなたみたなことできるかって言われたらできないし。」

とさらっと言われたことです。

なぜか私が彼女を励まし、私は彼女に励まされていました。

友情って素晴らしい。

嫁ぎたい。

上半期読書まとめ③

 

・女の機嫌の直し方

著者;黒川伊保子

きっかけ;どこかの書店で、タイトルに惹かれて

感想;女という生き物は本当によくわからない...という問題に恋愛アドバイザーでも占い師でもなく、ついにAI開発者がメスを入れる時代が来た。これはぜひ女性に読んでほしい。私は私の機嫌の治し方がわからず、そのことで大いに悩み多方に迷惑をかけた経験があるので読んだ。要するにだいぶ前から言われている「男女の脳は違うのでそれを分かり合いましょう」という話なのだが、多くの人はこの本を読んだ後も「そんなことはわかってるけどできないから問題なんだよ」と思うことであろう。私もそう思った。ただ、私は著者自身の息子を育てる上での姿勢に非常に感銘を受けたためそちらを強調したい。彼女は子育てが「思い通りにいかない」ことを楽しんでいる。楽しむことができる。なぜなら彼女はAI開発者で、思い通りに行くものを自分で作ることができるからだ。息子がロボットだったらつまらないとまで言い切っている。苦しくても楽しめたら勝ちですね。

話を聞かない男、地図が読めない女

話を聞かない男、地図が読めない女

 

 

・女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

著者;三砂ちづる

きっかけ;BETTARA STAND 日本橋 by YADOKARI – 「BETTARA STAND 日本橋」は、元駐車場となっていた土地を移動可能な動産・タイ二ーハウスやDIYで作る屋台などを利用したイベントスペース・オープンカフェキッチン施設です。のミニ図書コーナー

感想;こちらはエッセイ集である。著者の三砂ちづるさんは現代の津田梅子というか、津田塾大教授というか、すごい方である。全然おせっかいなんかではない。オムツ離れの話とか、ブラジルでの家族・仕事の概念など盛りだくさんで非常に面白いのだが、特に印象に残ったのは「怒る」ことについてだ。著者はもっと怒ろう、と提案する。「女の怒りはポイント制」なんて誰かがうまいことを言っていたが、なぜポイントが貯まるのか、そして一斉に還元されるのか考えたことがあまりない。ただ火山がいつ爆発するのかをビクビクして過ごすしかないのだろうか。私は、私も含めて周りの人々には「怒る」練習が足りていないと感じる。「怒ってはいけない」と教わることはあっても、適切なやり方を教わる機会がないから当然かもしれない。貯めて貯めて大爆発しなくても、もっと平和的且つ対象に有効なやり方があるはずだ。私のこれからの課題である。

女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

 

 ・百合のリアル

著者;まきむぅ(牧村朝子)(@makimuuuuuu)さん | Twitter

きっかけ;著者による大学の講演会で

感想;まきむぅはとにかく可愛らしかった。講演会の感想と併せて書きたい。まず、著者も述べているが、この本はいわゆる今話題の(流行で終わらないことを祈る)LGBTと呼ばれている人々だけのためのものではない。同時に性の多様性について考えることは、人間そのものの多様性について考えることにつながる。「女」も「百合」も「LGBT」も、レッテルに過ぎない。自分に合わないレッテルを貼られるのは誰だって嫌いだ。私たちは肩書きとしてそれらを使わなければならない時もあるが、自分で選ぶのと他人から呼ばれるのは違う。あくまで「私は他でもない私である」ということを尊重するべきだ、と著者は主張する。「モテ」とは?「女子力」とは?当たり前に飛び交う言葉を見直す必要があるだろう。

百合のリアル (星海社新書)

百合のリアル (星海社新書)

 
百合のリアル 増補版

百合のリアル 増補版

 

 

・かたちだけの愛 

著者;平野啓一郎

きっかけ;朝日新聞のコラム

www.asahi.com

感想;恋愛小説を中学生以来読んでいなかったけど久しぶりに「これは!」と感じた(その時たまたま失恋中だったからかもしれない)。ひらがなと漢字の使い分け方が素敵な文体だった。コラムにも引用されているような、愛と利己心の描写が感動的で、フロムの「愛するということ」にも通じるところがある。他にもセックスを「健康」と言ったり、小説でしか言えない、薄々みんなが思っていることを言い切っている。この本自体は買わなかったが影響を与えたとされる(本文中にも引用あり)日本が誇る変態・谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は買ってしまった。

かたちだけの愛 (中公文庫)

かたちだけの愛 (中公文庫)

 
陰翳礼讃・文章読本 (新潮文庫)

陰翳礼讃・文章読本 (新潮文庫)

 

 

・愛するということ

著者;エーリッヒ・フロム

きっかけ;大学の友人

感想;数年前に一度挫折したが、ふと思い出して再挑戦した。新訳版だからか読みやすく、引用も多くて助かった。読んでいると死んだはずの著者に診察されているような気持ちになってきて怖い。失恋中に読むべきではないが、失恋したときくらいしか読もうと思わない。とはいえ内容はもちろん「恋」ではなく「愛」の話で(その違いは本書で)、恋愛だけには留まらない。問題なく愛情を注いで子どもを育てることがいかに難しいかを思い知らされた。いつか英語でも読んでみたい。

愛するということ

愛するということ

 

 

 ・女心についての十篇 - 耳瓔珞

著者;安野モヨコ

きっかけ;忘れた

感想;とにかく挿絵や装飾が美しくて、お腹いっぱいになる。この中では川端康成の「むすめごころ」がもっとも歪んでいるのに可愛らしくて気に入った。恐らくモヨコ先生のお気に入りであろう、岡本かの子という作家を知る機会ができて嬉しい。私は以前から先生の漫画の大ファンで、最新の『鼻下長紳士回顧録』も読んだが、この漫画といい耳瓔珞といい、この文庫の前のシリーズの『晩菊』(谷崎潤一郎の脚フェチ話収録)といい、取り上げている国は違えど最近の先生のテーマは「変態」であるに違いない。

女心についての十篇 - 耳瓔珞 (中公文庫)
 
鼻下長紳士回顧録 上 (フィールコミックス)

鼻下長紳士回顧録 上 (フィールコミックス)

 

2017年上半期読書まとめ②

ザムザから手塚治虫ファム・ファタールに行きます。

 

・恋しくて

著者;村上春樹

きっかけ;生協の本屋で、表紙に惹かれて

感想;この本の真髄は「村上春樹が選んだラブストーリー」というところにあるのではなく、一番最後に彼が書いた「恋するザムザ」にある。恐らく、彼自身も選んでいるうちに書きたくなっちゃったのだろう。とても微笑ましい作品で、読み進めたいと同時に読み終わりたくなかった。私はザムザを、原作のカフカの小説ではなく手塚治虫の短編集『メタモルフォーゼ』を通して知った。その絵の芋虫が強烈で、すっかりそのイメージが頭にこびりついてから原作を読んだので、毒虫の挿絵を一切許さなかったとしているカフカには少し申し訳ない。そう言えばこの作品の日本語の題は「変身」だ。しかし英題では"metamorphosis"であり、"transformation"ではないなと今気がつき、それでは両者の違いはなんだろう。メタモルフォーゼと言えばエッシャーだよなぁ、と連想が止まらない。ちなみにこの『恋しくて』は日本以外の文学作品の寄せ集めなのに表紙に竹久夢二の『黒船屋』を選び、それをこれだけ大幅にトリミングしても認識できるようギリギリのところで攻めている。

恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES

恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES

 
変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)

 
メタモルフォーゼ 手塚治虫文庫全集
 
エッシャー: グラフィックワーク NBS-J (ニューベーシック・アート・シリーズ)

エッシャー: グラフィックワーク NBS-J (ニューベーシック・アート・シリーズ)

 
カフカはなぜ自殺しなかったのか?: 弱いからこそわかること

カフカはなぜ自殺しなかったのか?: 弱いからこそわかること

 

↑この本はまだ読んでいないけど読む予定

さらに余談だがプラハにあるカフカ像がなかなか強烈なので、ぜひいつか訪れたい。

 

サロメの乳母の話

著者;塩野七生

きっかけ;Amazon,平野啓一郎新訳の『サロメ』関連書籍から

感想;サロメにも手塚治虫を通して出会った。引用されている『七色いんこ』は手塚の演劇オタクっぷりが随所に見られる作品であり、その大人びた作風が小学生にはいくら何でも早すぎた。題材としてのファム・ファタールは、他にも『人間昆虫記』『奇子』などにも見られる。手塚の描く美女はそれだけで画集ができてしまうほど魅力的で、未だに私たちを惹きつけてやまない(私の中でイチオシは『ドン・ドラキュラ』のチョコラ)。また、ワイルドの『サロメ』はビアズリーの挿絵でも有名だが、手塚からビアズリーへの明らかなオマージュが『MW』だ。倒錯した愛のグロテスクさと見事にマッチしている。『MW』の中のサロメは主人公の結城で、これもまた曲者である。しかし塩野の描くサロメは違う。とても人の運命を弄ぶいたいけな美少女ではなかった、という見方を乳母を通して語らせる。歴史に「もし」はないが、語る人の目線によってこんなにも変わるものかと改めて気づかされる。ちなみに私はサロメという名前のフランス人女性に出会ったが、彼女もなかなかの食わせ者だった。また、今飲んでいるオランジーナのCMに最近起用され始めた「オランジーナ先生」の名前もサロメで驚いた。これからどんなサロメに出逢えるか楽しみだ。

サロメの乳母の話 (新潮文庫)

サロメの乳母の話 (新潮文庫)

 
サロメ (岩波文庫)

サロメ (岩波文庫)

 
サロメ

サロメ

 
サロメ (光文社古典新訳文庫)

サロメ (光文社古典新訳文庫)

 
七色いんこ (1) (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

七色いんこ (1) (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

 
人間昆虫記 (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

人間昆虫記 (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

 
奇子 1-2巻セット

奇子 1-2巻セット

 
MW 1

MW 1

 

初めてザムザやサロメに出会ったときは、彼らの本来の姿など知る由もなかった。しかし、最初の出会いにはあまりこだわるべきではないように思う。いつか何かのきっかけで答え合わせができる日が来るかもしれないし、来なくてもそれはそれで良いのである。そもそもイメージが流布しすぎていて答えなどただ私が強調したいのは、なんとなく書店で本を眺めていても、彼らには時間や作品のジャンルを超えて鑑賞者を惹きつけてやまない魅力があるということだ。

 

 ・ヨーロッパの幻想美術-世紀末デカダンスファム・ファタール(宿命の女)たち

著者;海野弘

きっかけ;シリーズ関連著作、生協にて

感想;ファム・ファタールとは?と感じた方にはこの本をおすすめする。と言っても私もこれから読むのだが、著書の既出のシリーズからその完成度の高さ・内容の充実度は保証する(『ロシアの挿絵とおとぎ話の世界』『チェコの挿絵とおとぎ話の世界』『ウィリアム・モリス - クラシカルで美しいパターンとデザイン-』が特に素敵)。表紙は『接吻』で有名なクリムトの『ダナエ』で、これもまたとんでもない。浮気公認(?)ギリシア神話の中でゼウスは美女を誘惑するために様々な姿に変身するが、中でも対ダナエ戦はすごい。「黄金の雨」などと表現されているので美しく聞こえるが要は精子で、その結果見事ペルセウスが誕生する。しかしレイプ被害話になると必ず一人はいるおじさんが言いそうだが、ダナエもダナエで無防備すぎである。この題材でテツィアーノやレンブラントも描いているが、やはりクリムトのものが一番好きだ。そこにはもはやレイプがどうのとかの議論を挟む余地がないほど見とれてしまう静けさと、いやらしくないエロさがある。話が逸れすぎたが海野弘のシリーズは本当におすすめである。扱っているテーマも幅広く装飾も美しい。私はこれらをスキャンするために春休み中家のプリンターを占拠していたのため母からクレームが来た。

ヨーロッパの幻想美術-世紀末デカダンスとファム・ファタール(宿命の女)たち-

ヨーロッパの幻想美術-世紀末デカダンスとファム・ファタール(宿命の女)たち-

 
ロシアの挿絵とおとぎ話の世界

ロシアの挿絵とおとぎ話の世界

 
チェコの挿絵とおとぎ話の世界

チェコの挿絵とおとぎ話の世界

 
ウィリアム・モリス - クラシカルで美しいパターンとデザイン-

ウィリアム・モリス - クラシカルで美しいパターンとデザイン-

 

2017年上半期読書まとめ①

本は個人的なものだと思っていたが、いくら多読・乱読をしようとしても一人では限界がある。私も人に紹介してもらって意外と面白い本に出会えたので、良ければ参考にしてください。書いてみて感じたが自分が好きな本を紹介するのはとても楽しい作業である。ぜひお勧めがあれば教えてください。気が向いたら読みます。

 

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉

著者;小坂井敏晶

きっかけ;出口治明(@p_hal)さん | Twitter←仕事に効く教養としての「世界史」の著者

感想;これほどタイトルで損をしている本はない。中身は様々な分野を引き合いに出しつつも内容が非常によくまとめられていて読みやすい。新書などで1/3の簡略版を出しても売れると思う。個人的には認知不協和理論の部分が悔しくなるくらい納得が行って面白かったと同時に少し精神を病んだ。高校生でも読めそうな本だけど高校生以下の教育(洗脳)には向かないので当時知らなくてよかった...自分もこんな論文を書いてみたい。最初図書館で借りたため分厚くて読むのに苦労したが、思わず電子版を購入してしまった。

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

 
仕事に効く 教養としての「世界史」

仕事に効く 教養としての「世界史」

 

 

・暇と退屈の倫理学 増補新版 

きっかけ;姜尚中『悩む力』

感想;上の本とダブルパンチで読んでほしい。タイトルからして衝撃的だが、内容は上と同様、非常に読みやすい。定住革命と産業革命の結果、近現代人が直面せざるをえない暇と退屈(実は二つは同じものではない)の問題を提示し、その解決を試みている。二冊とも読んでいて悲しくなるのは、所詮私たちは自分の頭で考えている錯覚をしつつ、環境から多大な影響を無意識下に受けて行動している(させられている)にすぎない、ということだ。また、暇や退屈について考えることは労働に直結している。姜尚中の『悩む力』を読んで少し病んだら、こちらを読んだら私が経験したように少し楽になるかもしれない。 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 
悩む力 (集英社新書 444C)

悩む力 (集英社新書 444C)

 
続・悩む力 (集英社新書)

続・悩む力 (集英社新書)

 

 

マイケル・ジャクソンの思想

著者;安冨歩

きっかけ;姉

感想;「子どもが子ども時代を奪われる」問題に取り組んだ人物としてのマイケルや、彼の歌の歌詞に秘められたメッセージを解読しようと取り組んでいる一冊。「ジャムする」「魂の脱植民地化」など、鳥肌が立つようなキーワードが盛りだくさん。著者は確実にぶっ飛んでいるが、本の中でその考えの文字化に成功しているため、彼の頭の中を知ることができるのは非常に有難い。東大でこんな授業がやっているとしたら受講してみたい。

マイケル・ジャクソンの思想

マイケル・ジャクソンの思想