きよかのブログ

高等遊民を目指します。

限界を超えてはいけない

というか、超えられないし越えようとするもんではないんじゃないかと思います。

 

まず、限界を越えようよ〜!、

みたいな体育会系思考には、私はほとほとついていけなくなってきた。

じゃあそれ超えちゃったらどうすんの...

そもそも、超えられた時点で果たして限界だったのか。

 

私は悪い意味で自分で限界を決めたことがない。

相対的であるはずなのに、いや、相対的だからこそ人に与えられた限界、あるいは人に自分の限界を委ねてきた。

 

もう限界という言葉があんまり好きじゃないから、もう意識したくない。

しかしながら単語が存在している時点で意識せざるを得ないし、

その「限界を超えられなかった自分」を責めてしまう材料にしかなっていない。

 

変なとこ意識が高い環境で生きてきたので、

限界を超えたらまた新しい限界(リミット)をセットして、また超えてというのの繰り返しが求められて来た。

辛〜

 

リミットとゴールがごちゃ混ぜになってるのかな?

達成するという面では同じだけど、ゴールって必ずしも限界を試すものではないですよね。

 

かといって限界の範囲内でほどほどにやるのは体質的にもう無理〜!

 

意識しないことが本当に限界を越えることに繋がっている気もするけど、

もうここで言葉に書き表すことでそういった思考の枠組みから逃れたいね。

 

と、最近考えるきっかけになったのが以下の本などです。

 

THE BOOK OF CIRCLES - 円環大全:知の輪郭を体系化するインフォグラフィックス

THE BOOK OF CIRCLES - 円環大全:知の輪郭を体系化するインフォグラフィックス

 

これ、あまりにも 青山ブックセンター本店 (@Aoyama_book) | Twitter にて宣伝されていたので関連書籍を読みました。

洋書だから英語版あるかな、と思ったけど近くになかったので、前著をとりあえず。

ビジュアル・コンプレキシティ ―情報パターンのマッピング

ビジュアル・コンプレキシティ ―情報パターンのマッピング

  • 作者: マニュエル・リマ,Manuel Lima,久保田晃弘,奥いずみ
  • 出版社/メーカー: ビー・エヌ・エヌ新社
  • 発売日: 2012/02/24
  • メディア: 単行本
  • クリック: 21回
  • この商品を含むブログ (12件) を見る
 

できもしないしやる予定もないけど、インフォグラフィックスとかマッピングという横文字に弱い。

THE BOOK OF TREES―系統樹大全:知の世界を可視化するインフォグラフィックス

THE BOOK OF TREES―系統樹大全:知の世界を可視化するインフォグラフィックス

 

木バージョンもあった。

 

ちなみに本を読まなくてもウェブサイトで図たちだけなら見れます。↓

www.visualcomplexity.com

 

一冊しか読んでないのでなんとも言えませんが、端的にいうと私はゾッとしました。

 

あらゆる技術を駆使したはずのグラフが、全部の人体の一部に見えてきてしまうんですよね。

 

ふとタイトルを見直すと丸(circle)や木など、とても基本的なものがモチーフになっていて、それもそのはず、と思ったり。

 

正直に申し上げますと、以下ツイートに影響されている部分が大きいです。

 

 

ほええ、と思いつつ同時期に借りたフンデルトヴァッサーの本をめくって見ると、

Hundertwasser 1928-2000: Personality, Life, Work

Hundertwasser 1928-2000: Personality, Life, Work

 

(表紙がわかりやすい関連書籍(まだ読んでいません))

Hundertwasser: The Painter-king With the Five Skins (Taschen Basic Art Series)

Hundertwasser: The Painter-king With the Five Skins (Taschen Basic Art Series)

 

 

なんかこの人も幾何学極彩色&サイケデリックだけど、

まじで自然リスペクトという感じ。

 

ガウディに似ているな、と思っていたらちゃんと影響を受けているとの言及がありました。

ガウディ完全ガイド

ガウディ完全ガイド

 

 井上雄彦とのコラボ展、もちろん行きましたよ〜

Casa BRUTUS特別編集 ガウディと井上雄彦 (マガジンハウスムック CASA BRUTUS)

Casa BRUTUS特別編集 ガウディと井上雄彦 (マガジンハウスムック CASA BRUTUS)

 

 バガボンドももはや漫画を超えているという点で、テーマは似ているかも。

バガボンド(1)(モーニングKC)

バガボンド(1)(モーニングKC)

 

 

ミケランジェロと関連してダ・ヴィンチなんかもいうまでもなく今では捕まるレベルで人体を追求した人ですから、仲間に入れましょう。

 

...こう、新旧問わず巨匠の画家たちを眺めていると、

もうそのすごさに圧倒されるというか、突き詰めるとここまでいっちゃうんだろうな、

っていうのがなんとなくわかるけど私は一生届くことがないんだろうな...

みたいな完膚なきまでの虚無感にもはや感動しますよね〜

 

冒頭に繋げようとすると、

巨匠のヤバさはさておき、人間には超えられない部分というよりも

超えたところで戻ってくる場所が普遍的にあるんじゃないかな、と思っています。

 

そこは悲観的にも楽観的に捉えることもできるので、場所に応じて使い分けられたらいいんじゃないかな。

 

例えば私は一人の人間が本を読む以上、

真の乱読というものは存在しないと思っているんですけど

それは自分の限界を見つけた、いうよりも

セレンディピティ力(?)が上がってるのかな、と捉えてもいいかもしれないですよね。

私なんかはまだまだこじつけに留まっていますけど。

 

オランダにも春が来て、天気が良かったり日が長いとつい色々やろっかな!!!

とあちこち手を出してしまう自分がいますが、

それも結局自分の範囲内で起こっていることで、

だからといって無理してはいけないな〜と自戒を込めて。

 

ちなみに、フンデルトヴァッサーは美術館に行った時に美術史専攻の友達に教えてもらったのがきっかけで知ることができました。

オーストリア出身だそうで、クリムトと同じで日本にもインスパイアされているみたい。

matome.naver.jp

美術館↓

www.cobra-museum.nl

Co=Copenhagen br=brussels a=amsterdamだって。おしゃれか!

小さいけれど、アヴァンギャルドとは何かを肌で感じることができます。

アヴァンギャルドも突き詰めた結果、捻り出している感じがして好きだ!

 

第三次世界大戦中なのかギリギリ踏みとどまってるのか知らないけど、こういう運動がこの時代にも欲しいよね。

 

最後までありがとうございます。

それではまた。

Sh*t worthyなことしようぜ

(to) give a shit という言葉はみなさん知っていますね。

"Don't give a shit!"という文のほうがよく聞くかな。
こちらは日本語に訳すと「んなつまんねぇこといちいち気にすんな!」に近い意味だと私は考えております。


shitはfuckに代替可能。
"I don't give a single fuck"というアレンジ版なんかも微塵も気にしない、屁でもない」という、確固たる意志が垣間見えて私は大好き!

www.urbandictionary.com

 

ass holeという言葉もよく聞きます。
これはもう直訳しちゃうとケツの穴ですが、カスとかクズ野郎と言ったところでしょうか。

 

何が言いたいかというと、私たちの人生はクソまみれということです。
もう少し綺麗な言葉で言い直すと、どんな人であっても様々な障害や不幸、不運が降りかかってくるということ。

 

そこで今日紹介したいのがこの本!イエーイ
本屋で見ない日がありません。

 

The Subtle Art of Not Giving a F*ck: A Counterintuitive Approach to Living a Good Life

The Subtle Art of Not Giving a F*ck: A Counterintuitive Approach to Living a Good Life

 


タイトルが直球すぎますけど、日本語に訳すのは少し難しそう。
日本にはどうだろう。来るかなぁ...

 

先ほどの続き兼この本の要約ですが、人生はどう転んだってassholeとかshitはついて回るので、何事にもgive a single fuckしない、というのはブッダにでもならない限り無理なんです。


というか、それに気がついたのがブッダ
彼は高貴な家の出身ですがそれに疑問を持ち家を飛び出しますが、結局どんな階級だろうとみんな悩みあるやん、と気がつくわけですね。(Chapter 2 ; "Happiness is a problem "参照)


そこで終わらずに心頭滅却しちゃうブッダなのですが、まあ、普通は無理ですね。

(私はブッダになれないのでここでgiving shitするのをやめます)

なれなくても手塚治虫大先生のブッダは教科書として一家に一台。

ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)

ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)

 

  

はい。

じゃあどうするの、ということで、解決策として悟りを開く以外は、なんだかんだshitとうまくやっていくしかない。

shitもバラエティに富んでいるので、自分にとってより価値がある(と思われる)shitを選び、こなしていく


ここで筆者は"shit-worthy"という独自の造語を用いていますが、非常に素晴らしい言葉だと思います。


何がshit-worthyかは、人それぞれです。


大変な仕事でもお金がたくさんもらえたらそれをshit-worthyとする人はいるだろうし、
色々あるけどなんだかんだ支え合う家族を最もshit-worthyなものと捉える人もいる。


生きていくために身の回りの環境をできるだけ自分にとって生きやすい場所に整えることをshit-worthy、まあ私多分これなんですけど、もいますね。
(私は好きなことしかやっていない/夢を追いかけているというイメージを持たれがちですが、思われるのは面白いのでいいけど、おそらくそうではないです。私は多分、人よりも少し自分がやりやすいshitを選ぶのがうまかっただけだと思う。あと運!)


これは一見すると非常に消極的な考え方で、shitだなんだと使用している言葉が汚いという理由以前にこんなことを面と向かって言う人はあまりいません。


もちろん今の仕事や専門に対し「これが自分のやりたいことです!!!」と胸を張っている人にはこんな考え方はいらないでしょう。


しかしそうではない人がほとんどで、だからこんな汚いタイトル()の本が世界的ベストセラーになっちまってるわけです。

 

本当はshit-worthyだから続けているだけでもいいじゃないか。
むしろそっちの方がすごくないか。


それをせめて自分の中では無理して美化しないであげていただきたい。

ていうか、そういったあまりにも仕事や人生を理想化する価値観を押し付けて来る人にこそgiving shitすんなよ、とこの本は教えてくれます。


人生はインスタグラムの裏側で起こってんだよ!

・ちょっと近況報告(関連本の紹介はさらに下にあります)

 

今年は、というか去年から私は選択の連続でした。

まあ主に進路なんですが。
なんか今オランダにいるけど、今でもここに来たことが正しいかどうか現時点では自信を持っていうことができません。
大学院(マスター)に申し込んだはずなのにプレマスターやんなさいとか言われたけど情報少なすぎてわけわからんし!
宿題多すぎるし!
オランダ人英語うますぎるし!


でも、私は少なくとも今の大学生活は自分にとってとーーーってもshit-worthyだと思っています。
多少辛いことがあってもやってみる価値があると思えます。
まあ高等遊民が何言ってんだって感じだけどね〜

 

・関連本


私はこのshit-worthyという考え方は私のだーいすきな認知不協和理論にもちょっと結びついてると思います。
辛いことも、いや辛いことだからこそ美しい記憶に変換されていく、という嬉しいような怖いような、賢いのかアホなのかわからなくなる脳の仕組みですね。


興味のある方は以前も紹介しましたが、是非こちらの本を。

全然伝わらないと思いますが、私はこういった、難しい内容を、決して難しくない話し言葉で文体・言葉遣い・構成・内容が完璧な講義集みたいな本(内田樹先生のとかも)を読んでいると脳内で吸収できる許容量を突破し、「ウーム」となります。

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

 

あと、脳がバカというのとshitと関連してこの本も是非!

サナダムシをお腹で飼うまでしなくていいけど、腸の声をよく聞くといいことあるかもね。

脳はバカ、腸はかしこい

脳はバカ、腸はかしこい

 

あとお子さんがいる方は言うまでもないですがこれを。

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

 

 

最後にこの本に出会ったきっかけを。
私の好きな本屋さん通り(勝手に命名)の中でもお気に入りの、Mayflower Bookstoreで見つけました。

www.mayflowerbookshop.nl


古本と新刊が混ざった不思議な空間です。
お店の由来は多分、メイフラワー号(ピルグリム・ファーザーズたちが乗ってた船)がイギリスを出てアメリカに来る途中にこの小さな町ライデンに寄ったからだと思われます。

 

タイトルを見ていいなぁ!と思ったのと、一年半ほど前に

www.vox.com

この記事に出会いまして、記憶から消えてたけど記事の内容がThe Subtle Art of Not Giving a F**kと似ていたので「あの記事で紹介されていた本か」と思って読んでたら結局違ったという。
まあいいか。

 

記事で紹介されている本はこちらです。これもタイトルのインパクトすごいな

The Asshole Survival Guide: How to Deal with People Who Treat You Like Dirt

The Asshole Survival Guide: How to Deal with People Who Treat You Like Dirt

 

 

でも本当にここ最近タイトルのインパクトの強さで記憶に残りやすいのかもしれないけど、asshole関連の本、よく見ます。

 

Assholes: A Theory (English Edition)

Assholes: A Theory (English Edition)

 

セオリーまである。

 
みんないろんなassholeに疲れてるんだね。

疲れない程度に本でも読んで、楽な考え方をしていきましょう。それではまた!

去年は猫年、そして今年も

 今回は2017年の間、私の生活の癒しとなった様々な媒体の猫をご紹介します。

 

私はにわか猫好きというか、

トルコに行ってから猫を好きになった新参者ですので、

お手柔らかにお願いします。

 

①KEDI(映画)(邦題;「猫が教えてくれたこと」)

 

youtu.be

 

私としては涙なしには見られない、とても素敵な映画でした...(トルコ帰りたい)

日本での劇場公開を待てずに即YouTube Redで購入しました。

便利な世の中でございます。

 

しかし気に入らないのが日本のタイトルで、みなまで言うな、という気持ちでいっぱいです。

これに限らず日本における邦題の付け方は度々イラっとさせられることが多いですね。

 

この映画の主なテーマは、

トルコでは猫はペットと野良猫の中間の存在である、ということです。

猫が敷居を跨げば入れるし、窓は開けっ放しでいつでもまた出られるようにしている、という家やお店が少なくなりません。

(私が住んでいた学生寮も各棟に猫がおり、いろんな人が餌をあげたりしていました。)

 

来るもの拒まず、去る者追わず。

猫が自由気ままに闊歩しているのは、

トルコという国が伝統的に外から入って来る人や物に対し、そういった姿勢を貫いてきたからかもしれません。

 

映画の中に出てくる人たちは少し行き過ぎた例かもしれませんが笑、

トルコでは猫を嫌いな人を見たことがありません。

というか行けば共感していただけると思うのですが、

トルコの猫ってかわいいし気高いし美しいし人懐っこいので、

なんかもう、ありがとう...!ってなります。

 

②「めでる国芳ブック ねこ」

めでる国芳ブック ねこ

めでる国芳ブック ねこ

 

もう、タイトルの圧勝ですね。

めでたい、愛でたい!

 

私は浮世絵とか日本画とか全然詳しくないしそこまで興味はなかったのですが、

こういった切り口で紹介していただけると読みたくなる〜

 

さすが日本というか国芳というか、

江戸時代は、そこまで現在の日本の「なんでもキャラクター文化」「擬人化」が確立していなかったはずであるにも関わらず、

江戸の町民に負けないくらい、生き生きとした猫たちが描かれています。

猫で文字を書いているなどなかなか攻めています。

 

英語の解説付きなので、ぜひいろんな人にオススメしてください。

 

ちなみにシリーズで猫以外もあります。

めでる国芳ブック どうぶつ ([バラエティ])

めでる国芳ブック どうぶつ ([バラエティ])

 
めでる国芳ブック おどろかす ([バラエティ])

めでる国芳ブック おどろかす ([バラエティ])

 

 大学の生協ブックセンターにて

 

③ 「ファット・キャット・アート ―デブ猫、名画を語る」

ファット・キャット・アート ―デブ猫、名画を語る―

ファット・キャット・アート ―デブ猫、名画を語る―

 

 これも本当に眺めているだけで幸せというか、

あまりの違和感の無さに圧巻というか...

 

日本語訳のセンスも光っています。

他の言語をよく知らないけど、日本の猫語として「〜にゃ」の語尾って素晴らしい。

作者はロシアの方なのでロシア語でもそれに匹敵する猫語みたいなのがあるのかな...と想いを馳せてみたり。

トルコに負けずロシアも猫大国みたいですね〜

エルミタージュ行ってみたい。

 

国立西洋美術館内の本屋さんにて発見

 

北斎ジャポニズム展もよかった..

一筆書きの猫のシルエットとか素敵でした。

 

④「名画のネコはなんでも知っている」

名画のネコはなんでも知っている

名画のネコはなんでも知っている

 

 教授と生徒の対話形式で、ひたすら猫のいる名画を愛でる。

ところがこの二人は好みがうるさくて、あんまり猫を描くのがうまくなかった時代(?)の絵とかを貶しまくったりもするのが面白い。

さすがに中世の猫並みに不細工な猫⬇︎を取り上げてはいませんでしたが笑

www.buzzfeed.com

冒頭で取り上げていた猫に関する「文学部唯野教授」の引用も素敵ですが、そのお話は哲学の領域に入ってしまうのでまた今度。

文学部唯野教授 (同時代ライブラリー)
 

 

⑤ Simon's Cat

 

youtu.be


youtu.be

youtu.be

言わずと知れた大人気キャラ。

 

猫>>>>>>>>>>>>>>>>>>>人間の構図を、これでもかと思うほどにユーモラスに描き切る。

フェイスブック・インスタの更新頻度も高くめちゃくちゃ癒される。

シンプルな線ながら動きが滑らか。

 

一つ気になるのが猫の鳴き声で、

限りなく本物に近いけど多分おっさんがやってるんだよね...? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中間でいいじゃない

いやはや、10月も終わりそうですね。

 

今回ご紹介するのはこの三冊!

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

どれもめちゃくちゃ面白いのですが、 

なぜこの三つを同時に紹介したのかと言いますと、共通点があるわけなんですね。

 

タイトルにもあるように、中間です!イエイ!

 

三冊はそれぞれ

能動態と受動態の間としての「中動態」を、

言語が文化的(人為的)・自然的産物のどちらでもあることを、

日本人と外国人のコミュニケーションの方法論の間を、

論じています。

 

一見違うジャンルの本なのに共通点があるって面白いですよね。

こういうことがあるから読書はやめられない。

話が逸れますが、私は「乱読」というのは高い確率で不可能だと思っています。

なんだかんだ、どこかで自分と関係している本を選んでしまうので、

最初は乱読したと思っていても根本的な部分では無理というか...

結果的に読んでみたら他でも同じこと言ってたな〜、ということもありますしね〜

 

さて

皆さんは"中間"と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?

1 物と物との間の空間や位置。「駅と駅の中間に川がある」「中間地点」
2 思想や性質・程度などが両極端のどちらでもないこと。「双方の意見の中間をとる」「中間派」
3 物事が進行中であること。物事がまだ終わらずに途中であること。「得票数の中間発表」

中間(ちゅうげん)とは - コトバンク

 

辞書で検索したら三つほど見たかったのですが、

今回特に論じたいのは二つめの定義です。

 

私はこの意味での中間に対し、ずっと否定的な考え方を持っていました。

特にコミュニケーションの場面ではなおさらで、

エスかノーかを迫られた場合、

「どちらでもない中間」というのはあまり良いと見なされない、

という印象があります。

「中途半端」という言葉なんてネガティブな中間の最たる例ですよね。

 

また、「中間を図式化せよ」と言われたらどんなものを描きますか?

多くの人が下のような図を描くのではないでしょうか。

 

       ●         ○          ●     

 

そしてここの間にある○は、外側の二つの点と等間隔の距離を保っていませんか?

 

ここでもう一度定義を見直してみましょう。

一つめの定義には単に「物と物の間」と書いてあるだけで、等間隔なんてどこにも書いていません。

英語の"middle"を辞書で引くと等間隔と明言されていないまでもそういった定義が見受けられますが、ここではあくまで日本語で考えるので置いておいてください...middle Meaning in the Cambridge English Dictionary

 

これら三冊の本は中間に当たる○「等間隔でなくてもいい」し、

「常に○が動くものである」ことを教えてくれた本でした。

 

図で表すとこんな感じ。

 

       ●                 ○  ●     

                             これでもいいし、

       ●   ○                ●     

                             これでもいいし、

       ●            ○       ●     

                             これでもいい。

 

もう少し本の中身を紹介します。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

私たちは文法で「能動態」と「受動態」(とその対立)しか習わないし知らないが、

ギリシア語に始まる文法の歴史を紐解くと本来はそうではないことが判明。

むしろ「能動態」と「中動態」の対立であり、受動態から生まれた...

なんて言われると文法用語アレルギーはそれだけで本を投げ出しそうになりますが、

もうちょっと頑張って読んでみると、5章から読みやすくなります。

 

この文法と密接に関連しているのが「意思」の概念なのですが、

アリストテレスの時代にはそんなものはありませんでした。

それは「責任者を特定して責任を押し付けるため」に後から作り出されたものでした。

 

「責任者を特定するために言語が変化し」、

「行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意思に他ならない。

意思とは行為の帰属先である」。(p.176)

 

冒頭から散々述べられているように、

アルコール中毒者のような深刻なものから身近な問題まで、

誰か一人に責任を問うことは非常に困難です。

にも関わらず、私たちは「本人の純粋な意思」による行為(能動)か

そうではない(受動)かで問題を片付けようとしてしまう。

本来はスピノザが述べ、上の図で示したように常に揺れ動くものです。

それに当たるのが中動態であるのだが、

私たちはその存在さえ知らなかったから苦しかった。

この存在を知ったら楽になるかも。

まだ中動態の子孫は言語の中に生きているし。

 

この本の面白いところは出版社が「医学書院」なのに、

中身が思いっきり哲学書であること。

また、取り上げている分野も文法から哲学、小説と多岐に渡り、

よくここまでまとまるものだと感動しました。

筆者の学際的姿勢というか、

「中動態をキーワードにして様々な分野を結びつけたい」

という気持ちが伝わってくるような気がします。 

 

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

これもプロローグの翻訳がわかりにくいのもあって進まないけど、

ちゃんと一章からスイスイ行けます。 

恥ずかしながらまだ第一部しか読んでいないのでその部分だけ。

 

筆者はある言語が色に名前をつけるときに、

それが⑴自然的なものか、それとも⑵文化的慣習によるのか、

という19世紀から続く論争に終止符を打とうと試みました。

例えば、ある文化にとっての「青」は他の文化でも「青」なのか(⑴)、

それともそれぞれの文化がランダムに色名を付けているだけなのか(⑵)。

 

これに対し、筆者は「文化は制約(自然)の中で自由を謳歌する」(p.115)、

という結論を下しました。

ある一定までは自然が普遍的にどんな地域・言語にも影響を及ぼすが、

それ以外は各文化に委ねられている、ということです。

 

これも一見「どっちつかず」と言われてしまいそうですが、

こういった分野におけるたいていの良い論文の結論は

どちらにも中立の立場を示しつつ、良いところを取り入れている気がします。

それは筆者が行ったように先行研究に敬意を払い、

綿密に文献を読み込めばこその結論であるとも言えます。

 

筆者の問いの立て方も計算されています。

何度も「〇〇か、△△か?」と書いておきながら、

結論はどちらでもないオリジナルなものであるわけで、

より自分の答えが際立つ書き出しをしていると感じました。

 

新書であり、三つの中で最も読みやすいと思います。

 

作者は近年騒がれている「コミュ障」問題への解決策を斬新な方法で紹介しています。

 

特に面白いのが第6章です。

 

飛行機で隣の席の人に話しかけるか話しかけないか。

これに対しグローバル化が頭にあると、すぐに欧米式に

「フレンドリーになった方がいい」なんていう人が続出し、

「初対面の人とうまく話せる方法」なんていう本が何十万部も売れたりする。

いや、そうじゃないだろ。単なる文化の違いだろ。

それならば隣の人が本を読んでいたら気を遣って自分も静かにする、

という文化も認められていいはずだ。

 

「コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派はこうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない。」(p.148)

 

本当にこれに尽きると思う。

どちらかが絶対的に良いということはない。

ただ、知っておいて自分なりに時と場合によって取り入れたらいいと思います。

ここが中間のいいところで、どちらでもないからこそどちらにもなれる、というかね。

 

・・・と書いてみると自分がいかに良くも悪くも中間にいるかがわかります。

でもそれでいいと思います。

それと同時に、この「中間で良い」という考え方も常に揺れ動くべきである、

とも思っています。

 

はー長くなってしまった。

常に入れ替わりつつも30冊くらい家に本があるのに全然紹介しきれない。

明らかに後半にエネルギーが足りていないのですが、まあ良しとしましょう。

読むだけじゃなく自分で書くとなると大変ですが、

ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました!

ヨガの言語

そろそろ大学生活も終わりを迎えているわけですが、
振り返ってみればヨガと飲酒だけは欠かさなかったかな、と思います。
飲酒の話はまた今度にするとして、最近クラスにも本格的に通い始めたことですし
今回ヨガについて書くことにします。
書評がこのブログ全体のテーマでもあるわけなので、もちろん面白い本の紹介も兼ねています。

 

私は様々な先生と出会いました。
最初は学校のジム、YouTube、そして授業、今はスタジオの、と言ったところです。
私は他の分野に関しても先生運がめちゃくちゃ強いんですよね。
後ほど紹介する『ヨーガ大全』には「良いグル(師)は見つけるのに12年かけろ」と書いてあったので、自分のことをとてもラッキーだと思っています。
最初始めたときは肩こりと運動不足がきっかけでしたが、とにかくポーズを覚えるのに必死でした。
でも新しいことを始めるときって、こういった時期が一番辛いけど楽しいかもしれません。
とりあえずクラス中は体ボキボキ言わせながら、とにかく必死に見よう見まねでやろうと集中するので、他のことは頭から吹っ飛びます。
気を抜いたら怪我をしますしね。
私は瞑想もやってみたこともあるのですが、やっぱり体を動かす方が頭をリフレッシュするには向いていると感じました。
(というか瞑想は寝てしまいます)

 

まだまだ初心者ですが、さすがに五年もやっていると色々なことに気がつくようになりました。
今日は特にヨガの言語について書こうと思います。

インストラクターの方々を見ていると話しながら受講者と動いているのももちろん、指導する際の言語の選択が難しそうだなと感じます。
これは他のあらゆる体を動かすスポーツなどの指導者に言えることかもしれません。
(ちなみに職人気質で「背中で学ぶ」ばっかり、というのも意地悪であまり好きではありません)

やっているときに様々なアドヴァイスをいただくのですが、
「そんな綺麗にポーズ取れるわけないだろ、ブッダじゃあるまいし」と思う瞬間が多々あります。
もちろん優しい、経験豊かなインストラクターさんであればあるほど「できる範囲で無理をしないでください」と強調してくれますが、
その「できる範囲」もやってみないとわからない部分が多いわけで、できるだけ理想的なポーズを取ろうとします。
もちろん参加者みんながみんなできるわけではありません。
特に固定メンバーがおらず、レベルがまちまちなクラスでは尚更です。
『ヨーガ大全』の中でも言及されていますが、そこで重要になってくるのがイメージです。
最悪ポーズがぐちゃぐちゃでも、自分の頭でイメージを膨らませ試行錯誤を繰り返すことが求められます。
あまりにも間違っていれば直してくれるわけですから。

 

そのイメージのために欠かせないのが、言語です。
私はポイントが二つあると思っています。
まず、簡潔であること、そしてその中で正しい概念を伝えること。
ヨガはだいたい一時間やそこらへん、最初から最後まで大きな流れの中でほぼ毎回違った色々なポーズをするわけですから、くどくど説明する時間はありません。
だからと言ってなんとなく感覚でやっていいものではありません、特に慣れていないうちは。

これらは一見当たり前だし、キャッチコピーやプレゼンのコツだな、なんて私も書きながら考えたりしていたのですが、まあそうかもしれません。
(良いものは普遍性を帯びてくるものです)
でも、少なくとも私が今まで経験したスポーツとは違う印象を受けました。
例えば私は剣道をやっていたのですが、新しい技を教わる時は一回集合して一通り説明を聞いてから技に挑戦する、という形を取っていました。
教わる段階と実践の段階に断絶があるわけです。
座学、とまではいかないにしても、

①見る・聞く〜頭で考える

②考えながら実践する

という明らかな隔たりがあります。
今思えば体育の授業などでも、あまりにも説明が長く「そんなこと一気に言われても覚えらんないよ」と感じていた記憶があります。
(そもそも話を聞いていなかった)

 

これに対しヨガは考えながらやる、聞いて見ながら考えて動かす、脳と体の連絡をよりスピーディに行うことが求められます。
太陽礼拝なんかは、ポーズはいくつかあるもののある程度決まっているので反射的に動くようにもなりますが。

さて、この「ヨガにおいて言語が重要である」と私が考える根拠は主に二つあります。

 

⑴ポーズの名前の翻訳

一度、何を土地狂ったのか「アシュタンガヨガ」というクラスに参加したことがあります。
約一時間全部サンスクリット語でした。(日本の教室で全員日本人です)
もちろん私があらかじめ初心者であることは先生(もはや僧だった)に伝えてはおいたものの、周りは全員毎回出席の壮々たるメンバーで、なぜかクラス開始前に逆立ちをしまくっていました。
しかし気が付いた時にはもう遅かった。
「オーム」から始まるマントラを唱えて、いよいよスタートです。
(このときはさすがにカンペを頂きましたが、カタカナで書いてあるから読めるだけで全く意味不明)

まず「タダーサナ」。
は?と脳がフリーズします。そして体も止まります。
やったことあるんですよ。知ってるし。立つやつね!なんなら山のポーズっていう日本語も知ってる。
と思いつつ、周りを見て他のポーズも一生懸命真似しつつ頑張ったわけですが、
ついに「シャヴァーサナ」(最後必ずやる寝るポーズ)以外全くわからず。
もちろん今まで経験したどのヨガよりも肉体的に一番辛かったのですが、
言語が理解できなかったため、先ほど言及した脳と体の連携がうまく取れなくて、何よりも悔しかった。
ヨガはインストラクターがあらかじめ組んだ流れの中でやるから気持ちくなるように計算されているのに、
彼らの発する言葉(日本語の場合でも)が理解できなければ意味がないも同然です。
(アシュタンガヨガはもうちょっと色んなポーズ名を覚えたら再チャレンジします)

なので初心者向けのクラスでは、サンスクリット語のポーズ名を言ったあと、
よりイメージしやすい日本語か英語を追加することが多いです。
私がポーズとサンスクリット語名・日本語名共に好きなのは「ヴィラバドラーサナ」、戦士のポーズです。
すごく自分が大したことのある人物に思えてくるポーズなのでオススメです。

もちろん慣れていてポーズ名を理解できる人にはこれは必要ありません。
ただ、ヨガが幅広い人に開かれている限り、イスラーム教のクルアーンのような、
アラビア語でなければ意味がない」という考え方に固執する必要もないんじゃないかと思うわけです。
もちろんイスラーム教を否定するわけでは全くなく、むしろこんなに難しいとされているアラビア語中心主義であるにも関わらず、年々信者が増加していく背景にも興味があったります。

 

⑵形容詞

先ほども言いましたが、ヨガのポーズをサンスクリット語はおろか日本語で言われても最初はイメージできない人がほとんどです。
むしろ経験者であればあるほど、様々なアドヴァイスを取り入れ、試行錯誤を繰り返し、同じポーズを何年もかけて何百回も繰り返すことでより良い形にしようとします。
そこで必要となってくるのが、先生によるポーズの説明です。
説明と言いましたが、これも一回のポーズにつき長くて20~30秒。
「(息を)吸って〜吐いて〜」なども間に盛り込むので、もっと短いかもしれません。

そこで最近、様々なインストラクターの共通言語が一部見えてきました。
以下三つ並べてみたのですが、×は動詞を使用し長いのに対し、○は形容詞で短い、という特徴があります。
また、×は一見すると「やろうと思えばできます」と反論したくなる感じですね。
もちろん補足として○の後に×を言うこともありますが、大抵は○が先、という印象を受けました。

広い ○肩を広く  ×背筋を伸ばし肩幅を広げる
長い ○手を長く  ×手を(できるだけ)伸ばす
重い ○お尻を重く ×重心をお尻に置く

こういった動詞を形容詞に変換する作業の上手な先生は、人の体を動かすことが上手だと感じました。
言語のチョイスは⑴と異なり、先生の数のぶんだけ言語があり、先生との相性ももちろんあると思います。
また、言うまでもなくこれだけがいい先生を見つける決め手ではありません。

 

最後に軽く本の紹介!

図説ヨーガ大全

図説ヨーガ大全

 

これは大学の図書館で、あまりにも分厚くて黄色かったのでトイレの前の「東洋哲学コーナー」で私の足を止めることとなりました。
ヨガの概念を筆者なりの言葉+自身のイラストで説明しているため(ここでも言語が重要ですね)見かけによらずわかりやすく、インドやインド人の考え方を知る上でとても面白いと感じました。(ITとマンダラを関連づけていたり)
修行僧にもゆるい人がいたり、なんとなくやっていたポーズの深い意味を知ることもできました。
もちろん、ヨガが長い年月をかけて作り上げられた哲学であり、れっきとした医学であることも。
ヨガ(ヨーガ)を「心に鈴をつける」、つまり飼いならすためのものである、と書いてある部分も非常に興味深い。
私は個人的にヨガは目的でも手段(ダイエット・肩こり解消)でもなんでも良いと思っているのですが、
いずれにせよ精神・肉体の自己治癒能力の向上という共通項があります。
あとよくレッスン中に聞く、ヨガを通して自分の変化に「気づき」、「戻る」という感覚もそうですね。
本来の状態、悪い状態からベストな状態からヨガを通して戻ってくる、つまりリセットする感覚がわかってきた気がします。
(このブログもアロマヨガ直後に猛烈に書いております)

 

最後に、ヨガは今思えば私の趣味に数えることができるかもしれませんが、なんとなく続けられたから続いたと思います。
それこそ「戻ってくる」じゃないですけど、毎日決めてやるわけでもなく、
なんとなくやりたい時にやっていたらいわゆる習慣化していました。
何かを続けるのもきっちり決めるんじゃなくて、こういう方法がいい場合もあるのかもしれません。
このブログもそうなのかなぁ。

結婚したくない、働きたくない(けど呑み食いしたい)

最近アナーキズムにはまっている。

というのも栗原康著の『はたらかないで、たらふく食べたい-「生の負債」からの解放宣言-』を一気に読み、

更に同著の『村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝-』もつられて思わず読んでしまったからだ。

 

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

 
村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

 

ちなみに一冊めは以下リンクのBETTERA STANDで出会った。

オープンスペースで色々な目的で利用できるのだが、

その奥にちょっとした本棚みたいなところがあって、

覗きに行ったらオーナーっぽい人がパソコンをいじっていたりしてなんとも良い雰囲気だった。

顔が赤かったのでバーに並んでいる日本酒を飲んでいたに違いない。

 

bettara.jp

 

私はできれば働きたくない。

バイト先で泣きながら「働きたくありません」と言って社長を困らせたこともある。

社長が変人じゃなかったら終わっていた。本当にありがたい。

人は大きくなると泣ける場所でしか涙を流しにくくなるのだ。

あそこで泣いておいてよかった。

 

さて、栗原氏が描き出す大杉栄伊藤野枝はすごくかっこいい。

ちょっと今の私の文体も氏のそれに似てきてしまっているのだが、

上記の二冊のタイトルみたいな魅力的な単語を盛り込んで、

スバズバと現代社会の問題点、主に結婚制度を中心に大杉や野枝とぶった切っていく。

日本史や日本の歴史人物に全く興味のなかった私にでさえ、すごく読みやすかった。

 

いや、かっこよすぎる。ありえないだろ。

やっちゃいけないだろ、思ってても。という部分もいっぱいある。

現代の道徳に当てはめると返り討ちで即死してしまいそうな部分も少なくない。

あちこちにお金を借りまくって学ぶことを貫いた高野長英や、

家族の反対を押し切って駆け落ちした男と離婚した挙句、

二番めの夫の大杉とは四角関係になり、しかもその中でも力づくで頂点に立った野枝はもう、反則である。

私も半ば同じようなことをしているので人のことは責められないが。

 

そんなめちゃくちゃな人たちでも、

思想がしっかりしていたから現代でも彼らの功績が讃えられているわけで、

もう亡くなった人の性格や罪を責めるのはここらへんにしておこう。

 

結婚制度に関する部分が面白い。

野枝は栗原によれば結婚制度は奴隷制度で女は家畜と同じ、

ふざけるな、なめんな、そんなものいらないと言っている人である。

(と言いつつ子どもは産みまくっており、結婚≠子ども≠家族をつくづく体現している)

私も結婚したくないし、奴隷制度なんて御免である。

 

野枝が怖いのは、ガチだったことだ。

女性の権利を主張するために制度を批判するのではなく、

体当たりで結婚や家族制度を実際に壊しにかかって行ったからである。

でも、野枝みたいに制度をぶち壊した先にはなにがある?

 

『放蕩記』は母娘の葛藤を描いたものだが、決して父親が無関係なわけではない。

むしろ読んでいて作品中父親の影の濃さに驚くほどだ。

父親が浮気しているから、母親が娘に愚痴を言うようになり、それが諸悪の根源かと言うとそうでもないのだが。

同性同士のぶつかり合いは、異性がいるからこそ引き立つものだ。

 そもそも母娘関係は父親や家族制度なしには生まれない。

(とはいえこの作品の主題は注目に値する。母から娘に対する数々の行動・言動は戦慄するものが多いが、身に覚えがある人は少なくないはずだ。作品中では躾と"調教"を区別している。)

それでは家族制度が悪いのか?

放蕩記 (集英社文庫)

放蕩記 (集英社文庫)

 

それだったら無くしてしまおう。

 

でも好きな人とは一緒にいたい。

プラトンの言うように人間は元は二人で一つだったのだから、

パートナーを求めるのは当然だ。

(これはよく聞く話だったのでちゃんと読んでみたら、球のように移動していたらしくすごく気持ち悪くて驚いた)

鍛冶場の神・ヘファイストスが提案したように、

好きな人とずっといたかったら物理的に溶接してもらうのも悪くないかも。

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 
饗宴  恋について (角川ソフィア文庫)

饗宴 恋について (角川ソフィア文庫)

 

でもいくら何でも一蓮托生は嫌だな、やっぱり色んな人と付き合いたい。

 

じゃあ『すばらしき新世界』が理想かもしれない。

タイトルからして理想的じゃないか。

"家族"なんて気持ち悪い。"両親"とかいう概念もヘドが出る。

子どもは壜の中で生まれ、あらかじめ人生も身分も容姿の良し悪しも決まっていてとても楽だ。

好きな人とやりたい放題だし、むしろ男女問わず乱交が賞賛される世の中だ。

それでも避妊はきちんとしているから子どもはできない。

家族という集団の構成員間のなんという息苦しい親密さ、なんという危険で常軌を逸した猥褻な関係!気でも狂ったように自分の子供たちを抱え込む母親

は、もういない。

親から子どもが生まれる過程が断ち切られるため、家族や家庭などもなくなる。

そして人々はストレスのない、安定した生活を手に入れることができる。

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

 

やっぱりまだまだわからない。

どれも正しくて、どれも間違っているような気がする。

でもなんとなく、女は強いなと思った。

自分が女だから、出産は痛そうだからとかではない。

 

『BUTTER』を読むと、自分の女性性(性的魅力や商品価値)に期待を持つどころか嫌気が差し、胃もたれを起こすほどだ。

若くも痩せてもいない女が何人もの男をたぶらかしていたのなら、私たちも希望を失うなとか、そういうレベルの議論ではない。

 

木嶋佳苗、もとい、カジマナはこう叫ぶ。

「女が幸せになれないのは悪い。女が男を受け止めれる女神になれ」と。

男には敵わない。

でも料理が作れる女は無敵だ。

女子力という意味ではない。

生の権力を握っているのは女なのだ。

そんなもの何百年も前から決まっているから、

自然の摂理に従って、欲望のままに過ごせばいいのである。

我慢する必要などない。

こんな無敵な存在の前では、野枝がぶち壊そうとせずとも、

つい最近できたばかりの制度、そしてそれに関する議論さえも無意味かもしれない。

 

(ちなみにタイトルに関連して「ちびくろさんぼ」が挟んであるのだが、特に進化に関する描写が面白かった。たまたまその時生き延びたものが生き、死ぬ者は死ぬ。それだけだ。)

(また、『放蕩記』の夏帆と『BUTTER』の里佳は似た部分があり、女子校出身の男役であるところだ。彼女たちが身につけた社会的役割や立ち回りは、女子校卒業後も影響が大きいようだ。)

BUTTER

BUTTER

 

 

と、一気に書いてしまいましたが、どうなんでしょう。

お盆明けで疲れているだけかもしれないし、

たまたま最近読んだ本のキーワードが"結婚"や"労働"だった気がするので、

思いついて勢いで書いてしまいました。

 

文章ではこんなことを言っていても実際に言うとぶん殴られるのがオチですが、

最近嬉しかったのは高校からの友達で看護師の子に

「あなた(私)みたいな人が働かなくてもいいように働くのもいいかなって思えてくる。だって私はあなたみたなことできるかって言われたらできないし。」

とさらっと言われたことです。

なぜか私が彼女を励まし、私は彼女に励まされていました。

友情って素晴らしい。

嫁ぎたい。

上半期読書まとめ③

 

・女の機嫌の直し方

著者;黒川伊保子

きっかけ;どこかの書店で、タイトルに惹かれて

感想;女という生き物は本当によくわからない...という問題に恋愛アドバイザーでも占い師でもなく、ついにAI開発者がメスを入れる時代が来た。これはぜひ女性に読んでほしい。私は私の機嫌の治し方がわからず、そのことで大いに悩み多方に迷惑をかけた経験があるので読んだ。要するにだいぶ前から言われている「男女の脳は違うのでそれを分かり合いましょう」という話なのだが、多くの人はこの本を読んだ後も「そんなことはわかってるけどできないから問題なんだよ」と思うことであろう。私もそう思った。ただ、私は著者自身の息子を育てる上での姿勢に非常に感銘を受けたためそちらを強調したい。彼女は子育てが「思い通りにいかない」ことを楽しんでいる。楽しむことができる。なぜなら彼女はAI開発者で、思い通りに行くものを自分で作ることができるからだ。息子がロボットだったらつまらないとまで言い切っている。苦しくても楽しめたら勝ちですね。

話を聞かない男、地図が読めない女

話を聞かない男、地図が読めない女

 

 

・女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

著者;三砂ちづる

きっかけ;BETTARA STAND 日本橋 by YADOKARI – 「BETTARA STAND 日本橋」は、元駐車場となっていた土地を移動可能な動産・タイ二ーハウスやDIYで作る屋台などを利用したイベントスペース・オープンカフェキッチン施設です。のミニ図書コーナー

感想;こちらはエッセイ集である。著者の三砂ちづるさんは現代の津田梅子というか、津田塾大教授というか、すごい方である。全然おせっかいなんかではない。オムツ離れの話とか、ブラジルでの家族・仕事の概念など盛りだくさんで非常に面白いのだが、特に印象に残ったのは「怒る」ことについてだ。著者はもっと怒ろう、と提案する。「女の怒りはポイント制」なんて誰かがうまいことを言っていたが、なぜポイントが貯まるのか、そして一斉に還元されるのか考えたことがあまりない。ただ火山がいつ爆発するのかをビクビクして過ごすしかないのだろうか。私は、私も含めて周りの人々には「怒る」練習が足りていないと感じる。「怒ってはいけない」と教わることはあっても、適切なやり方を教わる機会がないから当然かもしれない。貯めて貯めて大爆発しなくても、もっと平和的且つ対象に有効なやり方があるはずだ。私のこれからの課題である。

女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言

 

 ・百合のリアル

著者;まきむぅ(牧村朝子)(@makimuuuuuu)さん | Twitter

きっかけ;著者による大学の講演会で

感想;まきむぅはとにかく可愛らしかった。講演会の感想と併せて書きたい。まず、著者も述べているが、この本はいわゆる今話題の(流行で終わらないことを祈る)LGBTと呼ばれている人々だけのためのものではない。同時に性の多様性について考えることは、人間そのものの多様性について考えることにつながる。「女」も「百合」も「LGBT」も、レッテルに過ぎない。自分に合わないレッテルを貼られるのは誰だって嫌いだ。私たちは肩書きとしてそれらを使わなければならない時もあるが、自分で選ぶのと他人から呼ばれるのは違う。あくまで「私は他でもない私である」ということを尊重するべきだ、と著者は主張する。「モテ」とは?「女子力」とは?当たり前に飛び交う言葉を見直す必要があるだろう。

百合のリアル (星海社新書)

百合のリアル (星海社新書)

 
百合のリアル 増補版

百合のリアル 増補版

 

 

・かたちだけの愛 

著者;平野啓一郎

きっかけ;朝日新聞のコラム

www.asahi.com

感想;恋愛小説を中学生以来読んでいなかったけど久しぶりに「これは!」と感じた(その時たまたま失恋中だったからかもしれない)。ひらがなと漢字の使い分け方が素敵な文体だった。コラムにも引用されているような、愛と利己心の描写が感動的で、フロムの「愛するということ」にも通じるところがある。他にもセックスを「健康」と言ったり、小説でしか言えない、薄々みんなが思っていることを言い切っている。この本自体は買わなかったが影響を与えたとされる(本文中にも引用あり)日本が誇る変態・谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は買ってしまった。

かたちだけの愛 (中公文庫)

かたちだけの愛 (中公文庫)

 
陰翳礼讃・文章読本 (新潮文庫)

陰翳礼讃・文章読本 (新潮文庫)

 

 

・愛するということ

著者;エーリッヒ・フロム

きっかけ;大学の友人

感想;数年前に一度挫折したが、ふと思い出して再挑戦した。新訳版だからか読みやすく、引用も多くて助かった。読んでいると死んだはずの著者に診察されているような気持ちになってきて怖い。失恋中に読むべきではないが、失恋したときくらいしか読もうと思わない。とはいえ内容はもちろん「恋」ではなく「愛」の話で(その違いは本書で)、恋愛だけには留まらない。問題なく愛情を注いで子どもを育てることがいかに難しいかを思い知らされた。いつか英語でも読んでみたい。

愛するということ

愛するということ

 

 

 ・女心についての十篇 - 耳瓔珞

著者;安野モヨコ

きっかけ;忘れた

感想;とにかく挿絵や装飾が美しくて、お腹いっぱいになる。この中では川端康成の「むすめごころ」がもっとも歪んでいるのに可愛らしくて気に入った。恐らくモヨコ先生のお気に入りであろう、岡本かの子という作家を知る機会ができて嬉しい。私は以前から先生の漫画の大ファンで、最新の『鼻下長紳士回顧録』も読んだが、この漫画といい耳瓔珞といい、この文庫の前のシリーズの『晩菊』(谷崎潤一郎の脚フェチ話収録)といい、取り上げている国は違えど最近の先生のテーマは「変態」であるに違いない。

女心についての十篇 - 耳瓔珞 (中公文庫)
 
鼻下長紳士回顧録 上 (フィールコミックス)

鼻下長紳士回顧録 上 (フィールコミックス)