秋に参加したWebinarのメモ Hagia Sophia/Mieko Kawakami/Anti-racism
2020年は"remote"という単語に辞書上の定義以外の意味やconnotationが付加されていった一年であったように思う。
そろそろ今年も終わりを迎えつつあるが、暦上の区切りが果たしてこの途方もなさからどれほど私たちの気をそらしてくれるのかはさておき、私は最近になってやっと、少なくともremoteに関しては良い面も少しずつ見出せるようになってきた。
そのひとつに世界中のonline conferenceへの参加の敷居が下がったことが挙げられる。
思えば学部時代も今年大学院を卒業したライデンでも、ほとんど毎週のように大学で開かれる何かしらの講演会に参加していた。
(こう書くと積極的で真面目な学徒だった思われてしまいそうだが全くそんなことはありません)
早稲田にいたころは門を囲む美しい毛筆の立て看板を横目に登校しながら、目に入ってきて面白そうなものには気軽に覗きに行っていた。
とにかくキャンパスが大きくビルの数も多いのと方向音痴も相まって主催場所にたどり着けないこともあったが、そのときはそのときで別の面白そうなものに出会う。
大学というものはそういうふうにできている。*1
ライデンでも私がいた考古学学科でももちろん、Humanities(人文学科)主催のイベントもとても学際的で興味深いものが盛り沢山だった。*2
こういった情報は構内のポスターで得ることもできるが、ほとんどがFacebookでも告知されており、友達が興味を持っていると通知が来て気づくことも多かった。
そして多くの人にとっての一番の目当てはconferenceそのものではなくその後のフリードリンクだったりする。
いくら私自身が酒好きとはいえ学部備え付けのHeinekenのビアサーバーには驚いたし構内が酒臭くなるのはいかがなものかと思ったが、一度酔った勢いで非常に高名な文化人類学者のPhilippe Descola先生(ものすごく簡単に言うとNature⇄Cultureの研究をされている方)に話しかけることができたので、もう思い残すことはありません。
以上はconferenceが特定の物理的な場所で開催されていた、文字通りtake "place"していた頃のお話。
講演会や学会というとただlecturerが壇上に立って耳を傾ける聴衆がいて、という漠然としたイメージを持っていたが、こうして思い起こしてみると耳や目以上の身体的情報や感覚を知らず知らずのうちに駆使し刺激を受けていた場であったことがわかる。
私はもう見知っているはずのキャンパスで迷子になることもないし、構内でビール瓶につまづくこともないのか...と思うと少し寂しい。
一方で、remote化はacademiaを停滞させるばかりではない。
思った以上に世界単位でのオンラインへの移行は早く、時差の壁さえ乗り越えればパソコンひとつでどこのイベントにも参加できるようになった、というのは一学会ファンとして素直に喜ばしい。
私は秋から晴れて学生ではなくなってしまったが、それでもやはり興味・関心事として学術的な情報は流れてくるし、意識せずとも関わりは保たれていくように思う。
...というわけで前置きが長くなってしまったが、以下ここ三ヶ月でremoteで参加したなかでも特に楽しんだwebinar(この造語はあまり好きではない)を選び、講義録的なものを残してみたい。
というのも内容がとにかく豊富でまだ消化が完全に終わっておらず、とりあえず取り込んだ情報のメモを読み返して書き写してみつつ、現時点でもどういったものに発芽してゆくかを見てみたいと思ったからだ。
以下は目次で一応時系列なだけでそれ以上の意味は今のところ特にない。
- "Hagia Sophia: Perspectives from Cultural Heritage" Cornell University, September 19, 2020
- "A Virtual Conversation Kawakami Mieko’s Breasts and Eggs: Gender and Translation 川上未映子『夏物語』—ジェンダーと翻訳" 国際基督教大学(ICU), October 8, 2020
- "Curating and Collecting Antiracism?" RCMC (Research Center for Material Culture), Nov 19, 2020
*1:内田樹が『町場の教育論』(2008)で『ハチミツとクローバー』や『もやしもん』を例に、予測がつかないものに出会い取り込まれる場としてのphysicalな大学の必要性について語っている。この恩恵を浴びるように受けた者としては、パンデミック下の現役大学生たちは非常に不運だと思ってしまう...
*2:なかでも記憶に残っているのがこの"Faculty symposium Humanities: The Myth of High and Low Culture"で、いわゆる古典などの王道の"文化"(high)と、近代のポップカルチャー(low)の区分に疑問を呈したもの
「ガイジンとして、ガイジンたちと」須賀敦子を読む
11年にわたるミラノ暮らしで、私にとっていちばんよかったのは、この「私など存在したいみたいに」という中に、ずっとほうりこまれていたことかもしれない。なかなか書生気分のぬけない私にとって、それは、無視された、失礼だ、という感想にはつながらなくて、あ、これはおもしろいぞ、いったい彼らはなにを話しているのだろう、と、いつも音無しの構えでみなの話に耳をかたむける側にまわった。当然、それは私が彼らの会話の深みについて行けなかったからでもあるが、私を客扱いにして、日本人用の話をする人たちのなかにいなかったことは、私のために幸いだった。*2
このころ、私はパリの街をよく歩いた。自分にとってまるで異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだの中に浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手にあちこちと歩いた。*7
この都心の小さな本屋と、やがて結婚して住むことになったムジェッロ街6番の家を軸にして、私のミラノは、狭く、やや長く、臆病に広がっていった。パイの一切れみたいなこの小さな空間を、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、自分のミラノはそれだけしかなかったような気もするし、つきあっていた友人たちの家までが、だいたい、この区画にかぎられていたようにも思える。たまに、このパイの部分から外に出ると、空気までが薄いように感じられて、そそくさと、帰ってきたような。経済的に余裕がなかったせいなのだろうか。好奇心が足りなかったのだろうか。いずれにせよ、私のミラノには、まず書店があって、それから街があった。*8
近年になって国家の概念が大陸とそこに暮らす人々の心をずたずたにひきさいてしまうまでのヨーロッパは、ことばや、川の流れや森の広がりなどによって、今日よりはもっと(政治的ではないという意味で)、自然な分かれ方をした土地だった。どこの国の人間というよりは、どの地方の言葉を話すかのほうが、たいせつだったにちがいない。*9
なんのために勉強しているのか、あるいは、将来、どんな職業を選ぼうとしているのか、扉を閉めたままで回答をおくらせて、ぐずぐずしているじぶんが、もどかしかった。その扉を開けると、たとえば、じぶんの価値を厳しく決めてしまう<他人の目>のようなものにわらわらと取り囲まれるのではないかと、そのことが怖かった。*15
『コルシア書店の仲間たち』は単行本もあるが、こちらをおすすめする。なんとなく時系列になってはいるが、ハッとする一行が分厚いページの間で見つかる、拾い読みが楽しい。
今年の一月に30巻が完結し話題になった文学全集、古典の新訳担当の作家の割り当ては言うまでもなく、単体でも数冊でも、もちろん全巻そろった状態でも本棚だけでなく部屋の格があがる装丁となっている。
こちらの画像の方が格帯のイラスト×本体の色のマリアージュがわかりやすいが、
全巻揃えることになったらぜひ180度に並べたいものだ。
詳細はこちらから。
www.kawade.co.jpこんなシリーズも今年完結したらしい。
文庫本版は船越桂の彫刻と画質の悪さが相まって表紙がこわい。そんな目で見ないでほしい。
私の周りでだいぶ前から噂になっていたこの本、須賀敦子が訳していたのか、もう読まない理由がなくなってしまった...
イタロ・カルヴィーノといえば『見えない都市』が全世界的に有名だけどまだ読んでいない...小説家の小説より、自著でも古典でも解説本が読みやすくおもしろいことが最近あったので、『なぜ古典を読むのか』から始めてもいいかな...
最近見つけた、文字が見にくいけれどもカルヴィーノのおそらく名著の装丁シリーズ、見飽きない...
Italo Calvino | HMH Books 全貌はこちらから。
*1:asahi.com(朝日新聞社):世界の夢の本屋さん - フォトギャラリー なぜか高画質で見れる
*2:"入り口のそばの椅子" p.10-11, 「コルシア書店の仲間たち」『須賀敦子』 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 25)
*3:"ガッティの背中" p. 179, 同上
*4:"L夫人"p.208, 「旅のあいまに」
*6:"解説" p.484
*7:”カティアが歩いた道" p.218, 「ヴェネツィアの街」
*8:”街" p.48, 「コルシア書店の仲間たち」
*9:"フランドルの海" p. 306, 「マルグリット・ユルスナール」
*10:"カティアが歩いた道" p. 225,「ヴェネツィアの街」
*11:"解説" p. 481
*12:"砂漠を行くものたち" p. 324,「マルグリット・ユルスナール」
*13:"女ともだち" p. 132, 「コルシア書店の仲間たち」
*14:"砂漠を行くものたち" p. 324,「マルグリット・ユルスナール」
*15:"砂漠を行くものたち" p. 334, 同上
*16:"ふつうの重荷" p. 164, 「コルシア書店の仲間たち」
*17:"ダヴィデにーあとがきにかえて" p.167, 「コルシア書店の仲間たち」
*18:"ガッティの背中" p.191, 「コルシア書店の仲間たち」
*19:"オリエント・エクスプレス", 「ヴェネツィアの宿」
*20:"木立ちのなかの神殿" p.341, 「マルグリット・ユルスナール」
「今日のみそ汁はインストゥルメンタルよ」Parcelsとかいう西京(最強)バンド
An instrumental is a musical composition or recording without lyrics, or singing, although it might include some inarticulate vocals, such as shouted backup vocals in a Big Band setting. Through semantic widening, a broader sense of the word song may refer to instrumentals.
"シングルCDなんか買うと3曲目あたりに歌なしの曲が入ってて「インストゥルメンタル」と書いてあります。ご家庭でみそ汁の具を買い忘れたお母さんはこう言えばいい。「今日のみそ汁はインストゥルメンタルよ」テスト中、答えがうかばないとき、みなさんは空欄の横にこう書くといい。「インストゥルメンタルです」漫画の中で僕は色々なもの描き忘れてると読者に指摘されるが、あれは勿論「インストゥルメンタル」だ。" 38巻
もはや現代詩といっても差し支えない表現力と、文章を四コマにしたような起承転結。
刺身の味噌漬け(西京漬け)定食である。
キーボードのPatrickが3:37あたりからキーボードに背を向けて静かに狂ってしまう以下のライブ動画にも注目されたい。
以下ヘビロテ関連曲たち
↓Tom Mischも歌っている時の苦しげな表情が良いし、FKJはFrench Kiwi Juiceの略らしい。フレンチキウイジュースって何?
youtu.be↓骨盤がどうかしている方々たちによるフロアヌメヌメダンス
↓うう〜む、良いイントロの長さぢゃ...(イントロじいや)
私は音楽なんて作ったことがないどころか、音楽理論も習ったことのない、アウトプットの観点で言えば全くの音楽初心者でしかない。
それでもイントロの長短ほどだったら私にも数えることができ、そこから自分が好きなバンドや曲の傾向や現代の音楽産業における位置付けが少し垣間見えるのは楽しい。
好きなものは好きなんだ、良いものは良いのだ、というバカボンのパパ的な意見ももちろん大賛成だが、自分が好きなものの「どんなところが好きか」「なぜ好きか」の輪郭をなぞり全体像が浮かび上がってくることにはまた別の喜びがある。
そしてそれはずっと曲を流しまくって(私は好きな曲は好きになった途端一曲だけ500回ほど聴く)、歌詞が入っているのにインストゥルメンタルに聴こえるくらい、そもそも曲を聴いていないように感じるくらい、一つの曲を聴きまくってみて見えてくるものでもあったりするのかもしれない。