キヨカのブログ

半永久的夏期休暇自由研究

中間でいいじゃない

いやはや、10月も終わりそうですね。

 

今回ご紹介するのはこの三冊!

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

どれもめちゃくちゃ面白いのですが、 

なぜこの三つを同時に紹介したのかと言いますと、共通点があるわけなんですね。

 

タイトルにもあるように、中間です!イエイ!

 

三冊はそれぞれ

能動態と受動態の間としての「中動態」を、

言語が文化的(人為的)・自然的産物のどちらでもあることを、

日本人と外国人のコミュニケーションの方法論の間を、

論じています。

 

一見違うジャンルの本なのに共通点があるって面白いですよね。

こういうことがあるから読書はやめられない。

話が逸れますが、私は「乱読」というのは高い確率で不可能だと思っています。

なんだかんだ、どこかで自分と関係している本を選んでしまうので、

最初は乱読したと思っていても根本的な部分では無理というか...

結果的に読んでみたら他でも同じこと言ってたな〜、ということもありますしね〜

 

さて

皆さんは"中間"と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?

1 物と物との間の空間や位置。「駅と駅の中間に川がある」「中間地点」
2 思想や性質・程度などが両極端のどちらでもないこと。「双方の意見の中間をとる」「中間派」
3 物事が進行中であること。物事がまだ終わらずに途中であること。「得票数の中間発表」

中間(ちゅうげん)とは - コトバンク

 

辞書で検索したら三つほど見たかったのですが、

今回特に論じたいのは二つめの定義です。

 

私はこの意味での中間に対し、ずっと否定的な考え方を持っていました。

特にコミュニケーションの場面ではなおさらで、

エスかノーかを迫られた場合、

「どちらでもない中間」というのはあまり良いと見なされない、

という印象があります。

「中途半端」という言葉なんてネガティブな中間の最たる例ですよね。

 

また、「中間を図式化せよ」と言われたらどんなものを描きますか?

多くの人が下のような図を描くのではないでしょうか。

 

       ●         ○          ●     

 

そしてここの間にある○は、外側の二つの点と等間隔の距離を保っていませんか?

 

ここでもう一度定義を見直してみましょう。

一つめの定義には単に「物と物の間」と書いてあるだけで、等間隔なんてどこにも書いていません。

英語の"middle"を辞書で引くと等間隔と明言されていないまでもそういった定義が見受けられますが、ここではあくまで日本語で考えるので置いておいてください...middle Meaning in the Cambridge English Dictionary

 

これら三冊の本は中間に当たる○「等間隔でなくてもいい」し、

「常に○が動くものである」ことを教えてくれた本でした。

 

図で表すとこんな感じ。

 

       ●                 ○  ●     

                             これでもいいし、

       ●   ○                ●     

                             これでもいいし、

       ●            ○       ●     

                             これでもいい。

 

もう少し本の中身を紹介します。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

私たちは文法で「能動態」と「受動態」(とその対立)しか習わないし知らないが、

ギリシア語に始まる文法の歴史を紐解くと本来はそうではないことが判明。

むしろ「能動態」と「中動態」の対立であり、受動態から生まれた...

なんて言われると文法用語アレルギーはそれだけで本を投げ出しそうになりますが、

もうちょっと頑張って読んでみると、5章から読みやすくなります。

 

この文法と密接に関連しているのが「意思」の概念なのですが、

アリストテレスの時代にはそんなものはありませんでした。

それは「責任者を特定して責任を押し付けるため」に後から作り出されたものでした。

 

「責任者を特定するために言語が変化し」、

「行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意思に他ならない。

意思とは行為の帰属先である」。(p.176)

 

冒頭から散々述べられているように、

アルコール中毒者のような深刻なものから身近な問題まで、

誰か一人に責任を問うことは非常に困難です。

にも関わらず、私たちは「本人の純粋な意思」による行為(能動)か

そうではない(受動)かで問題を片付けようとしてしまう。

本来はスピノザが述べ、上の図で示したように常に揺れ動くものです。

それに当たるのが中動態であるのだが、

私たちはその存在さえ知らなかったから苦しかった。

この存在を知ったら楽になるかも。

まだ中動態の子孫は言語の中に生きているし。

 

この本の面白いところは出版社が「医学書院」なのに、

中身が思いっきり哲学書であること。

また、取り上げている分野も文法から哲学、小説と多岐に渡り、

よくここまでまとまるものだと感動しました。

筆者の学際的姿勢というか、

「中動態をキーワードにして様々な分野を結びつけたい」

という気持ちが伝わってくるような気がします。 

 

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

これもプロローグの翻訳がわかりにくいのもあって進まないけど、

ちゃんと一章からスイスイ行けます。 

恥ずかしながらまだ第一部しか読んでいないのでその部分だけ。

 

筆者はある言語が色に名前をつけるときに、

それが⑴自然的なものか、それとも⑵文化的慣習によるのか、

という19世紀から続く論争に終止符を打とうと試みました。

例えば、ある文化にとっての「青」は他の文化でも「青」なのか(⑴)、

それともそれぞれの文化がランダムに色名を付けているだけなのか(⑵)。

 

これに対し、筆者は「文化は制約(自然)の中で自由を謳歌する」(p.115)、

という結論を下しました。

ある一定までは自然が普遍的にどんな地域・言語にも影響を及ぼすが、

それ以外は各文化に委ねられている、ということです。

 

これも一見「どっちつかず」と言われてしまいそうですが、

こういった分野におけるたいていの良い論文の結論は

どちらにも中立の立場を示しつつ、良いところを取り入れている気がします。

それは筆者が行ったように先行研究に敬意を払い、

綿密に文献を読み込めばこその結論であるとも言えます。

 

筆者の問いの立て方も計算されています。

何度も「〇〇か、△△か?」と書いておきながら、

結論はどちらでもないオリジナルなものであるわけで、

より自分の答えが際立つ書き出しをしていると感じました。

 

新書であり、三つの中で最も読みやすいと思います。

 

作者は近年騒がれている「コミュ障」問題への解決策を斬新な方法で紹介しています。

 

特に面白いのが第6章です。

 

飛行機で隣の席の人に話しかけるか話しかけないか。

これに対しグローバル化が頭にあると、すぐに欧米式に

「フレンドリーになった方がいい」なんていう人が続出し、

「初対面の人とうまく話せる方法」なんていう本が何十万部も売れたりする。

いや、そうじゃないだろ。単なる文化の違いだろ。

それならば隣の人が本を読んでいたら気を遣って自分も静かにする、

という文化も認められていいはずだ。

 

「コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派はこうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない。」(p.148)

 

本当にこれに尽きると思う。

どちらかが絶対的に良いということはない。

ただ、知っておいて自分なりに時と場合によって取り入れたらいいと思います。

ここが中間のいいところで、どちらでもないからこそどちらにもなれる、というかね。

 

・・・と書いてみると自分がいかに良くも悪くも中間にいるかがわかります。

でもそれでいいと思います。

それと同時に、この「中間で良い」という考え方も常に揺れ動くべきである、

とも思っています。

 

はー長くなってしまった。

常に入れ替わりつつも30冊くらい家に本があるのに全然紹介しきれない。

明らかに後半にエネルギーが足りていないのですが、まあ良しとしましょう。

読むだけじゃなく自分で書くとなると大変ですが、

ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました!

ヨガの言語

そろそろ大学生活も終わりを迎えているわけですが、
振り返ってみればヨガと飲酒だけは欠かさなかったかな、と思います。
飲酒の話はまた今度にするとして、最近クラスにも本格的に通い始めたことですし
今回ヨガについて書くことにします。
書評がこのブログ全体のテーマでもあるわけなので、もちろん面白い本の紹介も兼ねています。

 

私は様々な先生と出会いました。
最初は学校のジム、YouTube、そして授業、今はスタジオの、と言ったところです。
私は他の分野に関しても先生運がめちゃくちゃ強いんですよね。
後ほど紹介する『ヨーガ大全』には「良いグル(師)は見つけるのに12年かけろ」と書いてあったので、自分のことをとてもラッキーだと思っています。
最初始めたときは肩こりと運動不足がきっかけでしたが、とにかくポーズを覚えるのに必死でした。
でも新しいことを始めるときって、こういった時期が一番辛いけど楽しいかもしれません。
とりあえずクラス中は体ボキボキ言わせながら、とにかく必死に見よう見まねでやろうと集中するので、他のことは頭から吹っ飛びます。
気を抜いたら怪我をしますしね。
私は瞑想もやってみたこともあるのですが、やっぱり体を動かす方が頭をリフレッシュするには向いていると感じました。
(というか瞑想は寝てしまいます)

 

まだまだ初心者ですが、さすがに五年もやっていると色々なことに気がつくようになりました。
今日は特にヨガの言語について書こうと思います。

インストラクターの方々を見ていると話しながら受講者と動いているのももちろん、指導する際の言語の選択が難しそうだなと感じます。
これは他のあらゆる体を動かすスポーツなどの指導者に言えることかもしれません。
(ちなみに職人気質で「背中で学ぶ」ばっかり、というのも意地悪であまり好きではありません)

やっているときに様々なアドヴァイスをいただくのですが、
「そんな綺麗にポーズ取れるわけないだろ、ブッダじゃあるまいし」と思う瞬間が多々あります。
もちろん優しい、経験豊かなインストラクターさんであればあるほど「できる範囲で無理をしないでください」と強調してくれますが、
その「できる範囲」もやってみないとわからない部分が多いわけで、できるだけ理想的なポーズを取ろうとします。
もちろん参加者みんながみんなできるわけではありません。
特に固定メンバーがおらず、レベルがまちまちなクラスでは尚更です。
『ヨーガ大全』の中でも言及されていますが、そこで重要になってくるのがイメージです。
最悪ポーズがぐちゃぐちゃでも、自分の頭でイメージを膨らませ試行錯誤を繰り返すことが求められます。
あまりにも間違っていれば直してくれるわけですから。

 

そのイメージのために欠かせないのが、言語です。
私はポイントが二つあると思っています。
まず、簡潔であること、そしてその中で正しい概念を伝えること。
ヨガはだいたい一時間やそこらへん、最初から最後まで大きな流れの中でほぼ毎回違った色々なポーズをするわけですから、くどくど説明する時間はありません。
だからと言ってなんとなく感覚でやっていいものではありません、特に慣れていないうちは。

これらは一見当たり前だし、キャッチコピーやプレゼンのコツだな、なんて私も書きながら考えたりしていたのですが、まあそうかもしれません。
(良いものは普遍性を帯びてくるものです)
でも、少なくとも私が今まで経験したスポーツとは違う印象を受けました。
例えば私は剣道をやっていたのですが、新しい技を教わる時は一回集合して一通り説明を聞いてから技に挑戦する、という形を取っていました。
教わる段階と実践の段階に断絶があるわけです。
座学、とまではいかないにしても、

①見る・聞く〜頭で考える

②考えながら実践する

という明らかな隔たりがあります。
今思えば体育の授業などでも、あまりにも説明が長く「そんなこと一気に言われても覚えらんないよ」と感じていた記憶があります。
(そもそも話を聞いていなかった)

 

これに対しヨガは考えながらやる、聞いて見ながら考えて動かす、脳と体の連絡をよりスピーディに行うことが求められます。
太陽礼拝なんかは、ポーズはいくつかあるもののある程度決まっているので反射的に動くようにもなりますが。

さて、この「ヨガにおいて言語が重要である」と私が考える根拠は主に二つあります。

 

⑴ポーズの名前の翻訳

一度、何を土地狂ったのか「アシュタンガヨガ」というクラスに参加したことがあります。
約一時間全部サンスクリット語でした。(日本の教室で全員日本人です)
もちろん私があらかじめ初心者であることは先生(もはや僧だった)に伝えてはおいたものの、周りは全員毎回出席の壮々たるメンバーで、なぜかクラス開始前に逆立ちをしまくっていました。
しかし気が付いた時にはもう遅かった。
「オーム」から始まるマントラを唱えて、いよいよスタートです。
(このときはさすがにカンペを頂きましたが、カタカナで書いてあるから読めるだけで全く意味不明)

まず「タダーサナ」。
は?と脳がフリーズします。そして体も止まります。
やったことあるんですよ。知ってるし。立つやつね!なんなら山のポーズっていう日本語も知ってる。
と思いつつ、周りを見て他のポーズも一生懸命真似しつつ頑張ったわけですが、
ついに「シャヴァーサナ」(最後必ずやる寝るポーズ)以外全くわからず。
もちろん今まで経験したどのヨガよりも肉体的に一番辛かったのですが、
言語が理解できなかったため、先ほど言及した脳と体の連携がうまく取れなくて、何よりも悔しかった。
ヨガはインストラクターがあらかじめ組んだ流れの中でやるから気持ちくなるように計算されているのに、
彼らの発する言葉(日本語の場合でも)が理解できなければ意味がないも同然です。
(アシュタンガヨガはもうちょっと色んなポーズ名を覚えたら再チャレンジします)

なので初心者向けのクラスでは、サンスクリット語のポーズ名を言ったあと、
よりイメージしやすい日本語か英語を追加することが多いです。
私がポーズとサンスクリット語名・日本語名共に好きなのは「ヴィラバドラーサナ」、戦士のポーズです。
すごく自分が大したことのある人物に思えてくるポーズなのでオススメです。

もちろん慣れていてポーズ名を理解できる人にはこれは必要ありません。
ただ、ヨガが幅広い人に開かれている限り、イスラーム教のクルアーンのような、
アラビア語でなければ意味がない」という考え方に固執する必要もないんじゃないかと思うわけです。
もちろんイスラーム教を否定するわけでは全くなく、むしろこんなに難しいとされているアラビア語中心主義であるにも関わらず、年々信者が増加していく背景にも興味があったります。

 

⑵形容詞

先ほども言いましたが、ヨガのポーズをサンスクリット語はおろか日本語で言われても最初はイメージできない人がほとんどです。
むしろ経験者であればあるほど、様々なアドヴァイスを取り入れ、試行錯誤を繰り返し、同じポーズを何年もかけて何百回も繰り返すことでより良い形にしようとします。
そこで必要となってくるのが、先生によるポーズの説明です。
説明と言いましたが、これも一回のポーズにつき長くて20~30秒。
「(息を)吸って〜吐いて〜」なども間に盛り込むので、もっと短いかもしれません。

そこで最近、様々なインストラクターの共通言語が一部見えてきました。
以下三つ並べてみたのですが、×は動詞を使用し長いのに対し、○は形容詞で短い、という特徴があります。
また、×は一見すると「やろうと思えばできます」と反論したくなる感じですね。
もちろん補足として○の後に×を言うこともありますが、大抵は○が先、という印象を受けました。

広い ○肩を広く  ×背筋を伸ばし肩幅を広げる
長い ○手を長く  ×手を(できるだけ)伸ばす
重い ○お尻を重く ×重心をお尻に置く

こういった動詞を形容詞に変換する作業の上手な先生は、人の体を動かすことが上手だと感じました。
言語のチョイスは⑴と異なり、先生の数のぶんだけ言語があり、先生との相性ももちろんあると思います。
また、言うまでもなくこれだけがいい先生を見つける決め手ではありません。

 

最後に軽く本の紹介!

図説ヨーガ大全

図説ヨーガ大全

 

これは大学の図書館で、あまりにも分厚くて黄色かったのでトイレの前の「東洋哲学コーナー」で私の足を止めることとなりました。
ヨガの概念を筆者なりの言葉+自身のイラストで説明しているため(ここでも言語が重要ですね)見かけによらずわかりやすく、インドやインド人の考え方を知る上でとても面白いと感じました。(ITとマンダラを関連づけていたり)
修行僧にもゆるい人がいたり、なんとなくやっていたポーズの深い意味を知ることもできました。
もちろん、ヨガが長い年月をかけて作り上げられた哲学であり、れっきとした医学であることも。
ヨガ(ヨーガ)を「心に鈴をつける」、つまり飼いならすためのものである、と書いてある部分も非常に興味深い。
私は個人的にヨガは目的でも手段(ダイエット・肩こり解消)でもなんでも良いと思っているのですが、
いずれにせよ精神・肉体の自己治癒能力の向上という共通項があります。
あとよくレッスン中に聞く、ヨガを通して自分の変化に「気づき」、「戻る」という感覚もそうですね。
本来の状態、悪い状態からベストな状態からヨガを通して戻ってくる、つまりリセットする感覚がわかってきた気がします。
(このブログもアロマヨガ直後に猛烈に書いております)

 

最後に、ヨガは今思えば私の趣味に数えることができるかもしれませんが、なんとなく続けられたから続いたと思います。
それこそ「戻ってくる」じゃないですけど、毎日決めてやるわけでもなく、
なんとなくやりたい時にやっていたらいわゆる習慣化していました。
何かを続けるのもきっちり決めるんじゃなくて、こういう方法がいい場合もあるのかもしれません。
このブログもそうなのかなぁ。

結婚したくない、働きたくない(けど呑み食いしたい)

最近アナーキズムにはまっている。

というのも栗原康著の『はたらかないで、たらふく食べたい-「生の負債」からの解放宣言-』を一気に読み、

更に同著の『村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝-』もつられて思わず読んでしまったからだ。

 

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

 
村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

 

ちなみに一冊めは以下リンクのBETTERA STANDで出会った。

オープンスペースで色々な目的で利用できるのだが、

その奥にちょっとした本棚みたいなところがあって、

覗きに行ったらオーナーっぽい人がパソコンをいじっていたりしてなんとも良い雰囲気だった。

顔が赤かったのでバーに並んでいる日本酒を飲んでいたに違いない。

 

bettara.jp

 

私はできれば働きたくない。

バイト先で泣きながら「働きたくありません」と言って社長を困らせたこともある。

社長が変人じゃなかったら終わっていた。本当にありがたい。

人は大きくなると泣ける場所でしか涙を流しにくくなるのだ。

あそこで泣いておいてよかった。

 

さて、栗原氏が描き出す大杉栄伊藤野枝はすごくかっこいい。

ちょっと今の私の文体も氏のそれに似てきてしまっているのだが、

上記の二冊のタイトルみたいな魅力的な単語を盛り込んで、

スバズバと現代社会の問題点、主に結婚制度を中心に大杉や野枝とぶった切っていく。

日本史や日本の歴史人物に全く興味のなかった私にでさえ、すごく読みやすかった。

 

いや、かっこよすぎる。ありえないだろ。

やっちゃいけないだろ、思ってても。という部分もいっぱいある。

現代の道徳に当てはめると返り討ちで即死してしまいそうな部分も少なくない。

あちこちにお金を借りまくって学ぶことを貫いた高野長英や、

家族の反対を押し切って駆け落ちした男と離婚した挙句、

二番めの夫の大杉とは四角関係になり、しかもその中でも力づくで頂点に立った野枝はもう、反則である。

私も半ば同じようなことをしているので人のことは責められないが。

 

そんなめちゃくちゃな人たちでも、

思想がしっかりしていたから現代でも彼らの功績が讃えられているわけで、

もう亡くなった人の性格や罪を責めるのはここらへんにしておこう。

 

結婚制度に関する部分が面白い。

野枝は栗原によれば結婚制度は奴隷制度で女は家畜と同じ、

ふざけるな、なめんな、そんなものいらないと言っている人である。

(と言いつつ子どもは産みまくっており、結婚≠子ども≠家族をつくづく体現している)

私も結婚したくないし、奴隷制度なんて御免である。

 

野枝が怖いのは、ガチだったことだ。

女性の権利を主張するために制度を批判するのではなく、

体当たりで結婚や家族制度を実際に壊しにかかって行ったからである。

でも、野枝みたいに制度をぶち壊した先にはなにがある?

 

『放蕩記』は母娘の葛藤を描いたものだが、決して父親が無関係なわけではない。

むしろ読んでいて作品中父親の影の濃さに驚くほどだ。

父親が浮気しているから、母親が娘に愚痴を言うようになり、それが諸悪の根源かと言うとそうでもないのだが。

同性同士のぶつかり合いは、異性がいるからこそ引き立つものだ。

 そもそも母娘関係は父親や家族制度なしには生まれない。

(とはいえこの作品の主題は注目に値する。母から娘に対する数々の行動・言動は戦慄するものが多いが、身に覚えがある人は少なくないはずだ。作品中では躾と"調教"を区別している。)

それでは家族制度が悪いのか?

放蕩記 (集英社文庫)

放蕩記 (集英社文庫)

 

それだったら無くしてしまおう。

 

でも好きな人とは一緒にいたい。

プラトンの言うように人間は元は二人で一つだったのだから、

パートナーを求めるのは当然だ。

(これはよく聞く話だったのでちゃんと読んでみたら、球のように移動していたらしくすごく気持ち悪くて驚いた)

鍛冶場の神・ヘファイストスが提案したように、

好きな人とずっといたかったら物理的に溶接してもらうのも悪くないかも。

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 
饗宴  恋について (角川ソフィア文庫)

饗宴 恋について (角川ソフィア文庫)

 

でもいくら何でも一蓮托生は嫌だな、やっぱり色んな人と付き合いたい。

 

じゃあ『すばらしき新世界』が理想かもしれない。

タイトルからして理想的じゃないか。

"家族"なんて気持ち悪い。"両親"とかいう概念もヘドが出る。

子どもは壜の中で生まれ、あらかじめ人生も身分も容姿の良し悪しも決まっていてとても楽だ。

好きな人とやりたい放題だし、むしろ男女問わず乱交が賞賛される世の中だ。

それでも避妊はきちんとしているから子どもはできない。

家族という集団の構成員間のなんという息苦しい親密さ、なんという危険で常軌を逸した猥褻な関係!気でも狂ったように自分の子供たちを抱え込む母親

は、もういない。

親から子どもが生まれる過程が断ち切られるため、家族や家庭などもなくなる。

そして人々はストレスのない、安定した生活を手に入れることができる。

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

 

やっぱりまだまだわからない。

どれも正しくて、どれも間違っているような気がする。

でもなんとなく、女は強いなと思った。

自分が女だから、出産は痛そうだからとかではない。

 

『BUTTER』を読むと、自分の女性性(性的魅力や商品価値)に期待を持つどころか嫌気が差し、胃もたれを起こすほどだ。

若くも痩せてもいない女が何人もの男をたぶらかしていたのなら、私たちも希望を失うなとか、そういうレベルの議論ではない。

 

木嶋佳苗、もとい、カジマナはこう叫ぶ。

「女が幸せになれないのは悪い。女が男を受け止めれる女神になれ」と。

男には敵わない。

でも料理が作れる女は無敵だ。

女子力という意味ではない。

生の権力を握っているのは女なのだ。

そんなもの何百年も前から決まっているから、

自然の摂理に従って、欲望のままに過ごせばいいのである。

我慢する必要などない。

こんな無敵な存在の前では、野枝がぶち壊そうとせずとも、

つい最近できたばかりの制度、そしてそれに関する議論さえも無意味かもしれない。

 

(ちなみにタイトルに関連して「ちびくろさんぼ」が挟んであるのだが、特に進化に関する描写が面白かった。たまたまその時生き延びたものが生き、死ぬ者は死ぬ。それだけだ。)

(また、『放蕩記』の夏帆と『BUTTER』の里佳は似た部分があり、女子校出身の男役であるところだ。彼女たちが身につけた社会的役割や立ち回りは、女子校卒業後も影響が大きいようだ。)

BUTTER

BUTTER

 

 

と、一気に書いてしまいましたが、どうなんでしょう。

お盆明けで疲れているだけかもしれないし、

たまたま最近読んだ本のキーワードが"結婚"や"労働"だった気がするので、

思いついて勢いで書いてしまいました。

 

文章ではこんなことを言っていても実際に言うとぶん殴られるのがオチですが、

最近嬉しかったのは高校からの友達で看護師の子に

「あなた(私)みたいな人が働かなくてもいいように働くのもいいかなって思えてくる。だって私はあなたみたなことできるかって言われたらできないし。」

とさらっと言われたことです。

なぜか私が彼女を励まし、私は彼女に励まされていました。

友情って素晴らしい。

嫁ぎたい。