キヨカのブログ

半永久的夏期休暇自由研究

Sh*t worthyなことしようぜ

(to) give a shit という言葉はみなさん知っていますね。

"Don't give a shit!"という文のほうがよく聞くかな。
こちらは日本語に訳すと「んなつまんねぇこといちいち気にすんな!」に近い意味だと私は考えております。


shitはfuckに代替可能。
"I don't give a single fuck"というアレンジ版なんかも微塵も気にしない、屁でもない」という、確固たる意志が垣間見えて私は大好き!

www.urbandictionary.com

 

ass holeという言葉もよく聞きます。
これはもう直訳しちゃうとケツの穴ですが、カスとかクズ野郎と言ったところでしょうか。

 

何が言いたいかというと、私たちの人生はクソまみれということです。
もう少し綺麗な言葉で言い直すと、どんな人であっても様々な障害や不幸、不運が降りかかってくるということ。

 

そこで今日紹介したいのがこの本!イエーイ
本屋で見ない日がありません。

 

The Subtle Art of Not Giving a F*ck: A Counterintuitive Approach to Living a Good Life

The Subtle Art of Not Giving a F*ck: A Counterintuitive Approach to Living a Good Life

 


タイトルが直球すぎますけど、日本語に訳すのは少し難しそう。
日本にはどうだろう。来るかなぁ...

 

先ほどの続き兼この本の要約ですが、人生はどう転んだってassholeとかshitはついて回るので、何事にもgive a single fuckしない、というのはブッダにでもならない限り無理なんです。


というか、それに気がついたのがブッダ
彼は高貴な家の出身ですがそれに疑問を持ち家を飛び出しますが、結局どんな階級だろうとみんな悩みあるやん、と気がつくわけですね。(Chapter 2 ; "Happiness is a problem "参照)


そこで終わらずに心頭滅却しちゃうブッダなのですが、まあ、普通は無理ですね。

(私はブッダになれないのでここでgiving shitするのをやめます)

なれなくても手塚治虫大先生のブッダは教科書として一家に一台。

ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)

ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)

 

  

はい。

じゃあどうするの、ということで、解決策として悟りを開く以外は、なんだかんだshitとうまくやっていくしかない。

shitもバラエティに富んでいるので、自分にとってより価値がある(と思われる)shitを選び、こなしていく


ここで筆者は"shit-worthy"という独自の造語を用いていますが、非常に素晴らしい言葉だと思います。


何がshit-worthyかは、人それぞれです。


大変な仕事でもお金がたくさんもらえたらそれをshit-worthyとする人はいるだろうし、
色々あるけどなんだかんだ支え合う家族を最もshit-worthyなものと捉える人もいる。


生きていくために身の回りの環境をできるだけ自分にとって生きやすい場所に整えることをshit-worthy、まあ私多分これなんですけど、もいますね。
(私は好きなことしかやっていない/夢を追いかけているというイメージを持たれがちですが、思われるのは面白いのでいいけど、おそらくそうではないです。私は多分、人よりも少し自分がやりやすいshitを選ぶのがうまかっただけだと思う。あと運!)


これは一見すると非常に消極的な考え方で、shitだなんだと使用している言葉が汚いという理由以前にこんなことを面と向かって言う人はあまりいません。


もちろん今の仕事や専門に対し「これが自分のやりたいことです!!!」と胸を張っている人にはこんな考え方はいらないでしょう。


しかしそうではない人がほとんどで、だからこんな汚いタイトル()の本が世界的ベストセラーになっちまってるわけです。

 

本当はshit-worthyだから続けているだけでもいいじゃないか。
むしろそっちの方がすごくないか。


それをせめて自分の中では無理して美化しないであげていただきたい。

ていうか、そういったあまりにも仕事や人生を理想化する価値観を押し付けて来る人にこそgiving shitすんなよ、とこの本は教えてくれます。


人生はインスタグラムの裏側で起こってんだよ!

・ちょっと近況報告(関連本の紹介はさらに下にあります)

 

今年は、というか去年から私は選択の連続でした。

まあ主に進路なんですが。
なんか今オランダにいるけど、今でもここに来たことが正しいかどうか現時点では自信を持っていうことができません。
大学院(マスター)に申し込んだはずなのにプレマスターやんなさいとか言われたけど情報少なすぎてわけわからんし!
宿題多すぎるし!
オランダ人英語うますぎるし!


でも、私は少なくとも今の大学生活は自分にとってとーーーってもshit-worthyだと思っています。
多少辛いことがあってもやってみる価値があると思えます。
まあ高等遊民が何言ってんだって感じだけどね〜

 

・関連本


私はこのshit-worthyという考え方は私のだーいすきな認知不協和理論にもちょっと結びついてると思います。
辛いことも、いや辛いことだからこそ美しい記憶に変換されていく、という嬉しいような怖いような、賢いのかアホなのかわからなくなる脳の仕組みですね。


興味のある方は以前も紹介しましたが、是非こちらの本を。

全然伝わらないと思いますが、私はこういった、難しい内容を、決して難しくない話し言葉で文体・言葉遣い・構成・内容が完璧な講義集みたいな本(内田樹先生のとかも)を読んでいると脳内で吸収できる許容量を突破し、「ウーム」となります。

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)

 

あと、脳がバカというのとshitと関連してこの本も是非!

サナダムシをお腹で飼うまでしなくていいけど、腸の声をよく聞くといいことあるかもね。

脳はバカ、腸はかしこい

脳はバカ、腸はかしこい

 

あとお子さんがいる方は言うまでもないですがこれを。

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

 

 

最後にこの本に出会ったきっかけを。
私の好きな本屋さん通り(勝手に命名)の中でもお気に入りの、Mayflower Bookstoreで見つけました。

www.mayflowerbookshop.nl


古本と新刊が混ざった不思議な空間です。
お店の由来は多分、メイフラワー号(ピルグリム・ファーザーズたちが乗ってた船)がイギリスを出てアメリカに来る途中にこの小さな町ライデンに寄ったからだと思われます。

 

タイトルを見ていいなぁ!と思ったのと、一年半ほど前に

www.vox.com

この記事に出会いまして、記憶から消えてたけど記事の内容がThe Subtle Art of Not Giving a F**kと似ていたので「あの記事で紹介されていた本か」と思って読んでたら結局違ったという。
まあいいか。

 

記事で紹介されている本はこちらです。これもタイトルのインパクトすごいな

The Asshole Survival Guide: How to Deal with People Who Treat You Like Dirt

The Asshole Survival Guide: How to Deal with People Who Treat You Like Dirt

 

 

でも本当にここ最近タイトルのインパクトの強さで記憶に残りやすいのかもしれないけど、asshole関連の本、よく見ます。

 

Assholes: A Theory (English Edition)

Assholes: A Theory (English Edition)

 

セオリーまである。

 
みんないろんなassholeに疲れてるんだね。

疲れない程度に本でも読んで、楽な考え方をしていきましょう。それではまた!

去年は猫年、そして今年も

 今回は2017年の間、私の生活の癒しとなった様々な媒体の猫をご紹介します。

 

私はにわか猫好きというか、

トルコに行ってから猫を好きになった新参者ですので、

お手柔らかにお願いします。

 

①KEDI(映画)(邦題;「猫が教えてくれたこと」)

 

youtu.be

 

私としては涙なしには見られない、とても素敵な映画でした...(トルコ帰りたい)

日本での劇場公開を待てずに即YouTube Redで購入しました。

便利な世の中でございます。

 

しかし気に入らないのが日本のタイトルで、みなまで言うな、という気持ちでいっぱいです。

これに限らず日本における邦題の付け方は度々イラっとさせられることが多いですね。

 

この映画の主なテーマは、

トルコでは猫はペットと野良猫の中間の存在である、ということです。

猫が敷居を跨げば入れるし、窓は開けっ放しでいつでもまた出られるようにしている、という家やお店が少なくなりません。

(私が住んでいた学生寮も各棟に猫がおり、いろんな人が餌をあげたりしていました。)

 

来るもの拒まず、去る者追わず。

猫が自由気ままに闊歩しているのは、

トルコという国が伝統的に外から入って来る人や物に対し、そういった姿勢を貫いてきたからかもしれません。

 

映画の中に出てくる人たちは少し行き過ぎた例かもしれませんが笑、

トルコでは猫を嫌いな人を見たことがありません。

というか行けば共感していただけると思うのですが、

トルコの猫ってかわいいし気高いし美しいし人懐っこいので、

なんかもう、ありがとう...!ってなります。

 

②「めでる国芳ブック ねこ」

めでる国芳ブック ねこ

めでる国芳ブック ねこ

 

もう、タイトルの圧勝ですね。

めでたい、愛でたい!

 

私は浮世絵とか日本画とか全然詳しくないしそこまで興味はなかったのですが、

こういった切り口で紹介していただけると読みたくなる〜

 

さすが日本というか国芳というか、

江戸時代は、そこまで現在の日本の「なんでもキャラクター文化」「擬人化」が確立していなかったはずであるにも関わらず、

江戸の町民に負けないくらい、生き生きとした猫たちが描かれています。

猫で文字を書いているなどなかなか攻めています。

 

英語の解説付きなので、ぜひいろんな人にオススメしてください。

 

ちなみにシリーズで猫以外もあります。

めでる国芳ブック どうぶつ ([バラエティ])

めでる国芳ブック どうぶつ ([バラエティ])

 
めでる国芳ブック おどろかす ([バラエティ])

めでる国芳ブック おどろかす ([バラエティ])

 

 大学の生協ブックセンターにて

 

③ 「ファット・キャット・アート ―デブ猫、名画を語る」

ファット・キャット・アート ―デブ猫、名画を語る―

ファット・キャット・アート ―デブ猫、名画を語る―

 

 これも本当に眺めているだけで幸せというか、

あまりの違和感の無さに圧巻というか...

 

日本語訳のセンスも光っています。

他の言語をよく知らないけど、日本の猫語として「〜にゃ」の語尾って素晴らしい。

作者はロシアの方なのでロシア語でもそれに匹敵する猫語みたいなのがあるのかな...と想いを馳せてみたり。

トルコに負けずロシアも猫大国みたいですね〜

エルミタージュ行ってみたい。

 

国立西洋美術館内の本屋さんにて発見

 

北斎ジャポニズム展もよかった..

一筆書きの猫のシルエットとか素敵でした。

 

④「名画のネコはなんでも知っている」

名画のネコはなんでも知っている

名画のネコはなんでも知っている

 

 教授と生徒の対話形式で、ひたすら猫のいる名画を愛でる。

ところがこの二人は好みがうるさくて、あんまり猫を描くのがうまくなかった時代(?)の絵とかを貶しまくったりもするのが面白い。

さすがに中世の猫並みに不細工な猫⬇︎を取り上げてはいませんでしたが笑

www.buzzfeed.com

冒頭で取り上げていた猫に関する「文学部唯野教授」の引用も素敵ですが、そのお話は哲学の領域に入ってしまうのでまた今度。

文学部唯野教授 (同時代ライブラリー)
 

 

⑤ Simon's Cat

 

youtu.be


youtu.be

youtu.be

言わずと知れた大人気キャラ。

 

猫>>>>>>>>>>>>>>>>>>>人間の構図を、これでもかと思うほどにユーモラスに描き切る。

フェイスブック・インスタの更新頻度も高くめちゃくちゃ癒される。

シンプルな線ながら動きが滑らか。

 

一つ気になるのが猫の鳴き声で、

限りなく本物に近いけど多分おっさんがやってるんだよね...? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中間でいいじゃない

いやはや、10月も終わりそうですね。

 

今回ご紹介するのはこの三冊!

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

どれもめちゃくちゃ面白いのですが、 

なぜこの三つを同時に紹介したのかと言いますと、共通点があるわけなんですね。

 

タイトルにもあるように、中間です!イエイ!

 

三冊はそれぞれ

能動態と受動態の間としての「中動態」を、

言語が文化的(人為的)・自然的産物のどちらでもあることを、

日本人と外国人のコミュニケーションの方法論の間を、

論じています。

 

一見違うジャンルの本なのに共通点があるって面白いですよね。

こういうことがあるから読書はやめられない。

話が逸れますが、私は「乱読」というのは高い確率で不可能だと思っています。

なんだかんだ、どこかで自分と関係している本を選んでしまうので、

最初は乱読したと思っていても根本的な部分では無理というか...

結果的に読んでみたら他でも同じこと言ってたな〜、ということもありますしね〜

 

さて

皆さんは"中間"と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?

1 物と物との間の空間や位置。「駅と駅の中間に川がある」「中間地点」
2 思想や性質・程度などが両極端のどちらでもないこと。「双方の意見の中間をとる」「中間派」
3 物事が進行中であること。物事がまだ終わらずに途中であること。「得票数の中間発表」

中間(ちゅうげん)とは - コトバンク

 

辞書で検索したら三つほど見たかったのですが、

今回特に論じたいのは二つめの定義です。

 

私はこの意味での中間に対し、ずっと否定的な考え方を持っていました。

特にコミュニケーションの場面ではなおさらで、

エスかノーかを迫られた場合、

「どちらでもない中間」というのはあまり良いと見なされない、

という印象があります。

「中途半端」という言葉なんてネガティブな中間の最たる例ですよね。

 

また、「中間を図式化せよ」と言われたらどんなものを描きますか?

多くの人が下のような図を描くのではないでしょうか。

 

       ●         ○          ●     

 

そしてここの間にある○は、外側の二つの点と等間隔の距離を保っていませんか?

 

ここでもう一度定義を見直してみましょう。

一つめの定義には単に「物と物の間」と書いてあるだけで、等間隔なんてどこにも書いていません。

英語の"middle"を辞書で引くと等間隔と明言されていないまでもそういった定義が見受けられますが、ここではあくまで日本語で考えるので置いておいてください...middle Meaning in the Cambridge English Dictionary

 

これら三冊の本は中間に当たる○「等間隔でなくてもいい」し、

「常に○が動くものである」ことを教えてくれた本でした。

 

図で表すとこんな感じ。

 

       ●                 ○  ●     

                             これでもいいし、

       ●   ○                ●     

                             これでもいいし、

       ●            ○       ●     

                             これでもいい。

 

もう少し本の中身を紹介します。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

私たちは文法で「能動態」と「受動態」(とその対立)しか習わないし知らないが、

ギリシア語に始まる文法の歴史を紐解くと本来はそうではないことが判明。

むしろ「能動態」と「中動態」の対立であり、受動態から生まれた...

なんて言われると文法用語アレルギーはそれだけで本を投げ出しそうになりますが、

もうちょっと頑張って読んでみると、5章から読みやすくなります。

 

この文法と密接に関連しているのが「意思」の概念なのですが、

アリストテレスの時代にはそんなものはありませんでした。

それは「責任者を特定して責任を押し付けるため」に後から作り出されたものでした。

 

「責任者を特定するために言語が変化し」、

「行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意思に他ならない。

意思とは行為の帰属先である」。(p.176)

 

冒頭から散々述べられているように、

アルコール中毒者のような深刻なものから身近な問題まで、

誰か一人に責任を問うことは非常に困難です。

にも関わらず、私たちは「本人の純粋な意思」による行為(能動)か

そうではない(受動)かで問題を片付けようとしてしまう。

本来はスピノザが述べ、上の図で示したように常に揺れ動くものです。

それに当たるのが中動態であるのだが、

私たちはその存在さえ知らなかったから苦しかった。

この存在を知ったら楽になるかも。

まだ中動態の子孫は言語の中に生きているし。

 

この本の面白いところは出版社が「医学書院」なのに、

中身が思いっきり哲学書であること。

また、取り上げている分野も文法から哲学、小説と多岐に渡り、

よくここまでまとまるものだと感動しました。

筆者の学際的姿勢というか、

「中動態をキーワードにして様々な分野を結びつけたい」

という気持ちが伝わってくるような気がします。 

 

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

これもプロローグの翻訳がわかりにくいのもあって進まないけど、

ちゃんと一章からスイスイ行けます。 

恥ずかしながらまだ第一部しか読んでいないのでその部分だけ。

 

筆者はある言語が色に名前をつけるときに、

それが⑴自然的なものか、それとも⑵文化的慣習によるのか、

という19世紀から続く論争に終止符を打とうと試みました。

例えば、ある文化にとっての「青」は他の文化でも「青」なのか(⑴)、

それともそれぞれの文化がランダムに色名を付けているだけなのか(⑵)。

 

これに対し、筆者は「文化は制約(自然)の中で自由を謳歌する」(p.115)、

という結論を下しました。

ある一定までは自然が普遍的にどんな地域・言語にも影響を及ぼすが、

それ以外は各文化に委ねられている、ということです。

 

これも一見「どっちつかず」と言われてしまいそうですが、

こういった分野におけるたいていの良い論文の結論は

どちらにも中立の立場を示しつつ、良いところを取り入れている気がします。

それは筆者が行ったように先行研究に敬意を払い、

綿密に文献を読み込めばこその結論であるとも言えます。

 

筆者の問いの立て方も計算されています。

何度も「〇〇か、△△か?」と書いておきながら、

結論はどちらでもないオリジナルなものであるわけで、

より自分の答えが際立つ書き出しをしていると感じました。

 

新書であり、三つの中で最も読みやすいと思います。

 

作者は近年騒がれている「コミュ障」問題への解決策を斬新な方法で紹介しています。

 

特に面白いのが第6章です。

 

飛行機で隣の席の人に話しかけるか話しかけないか。

これに対しグローバル化が頭にあると、すぐに欧米式に

「フレンドリーになった方がいい」なんていう人が続出し、

「初対面の人とうまく話せる方法」なんていう本が何十万部も売れたりする。

いや、そうじゃないだろ。単なる文化の違いだろ。

それならば隣の人が本を読んでいたら気を遣って自分も静かにする、

という文化も認められていいはずだ。

 

「コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派はこうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない。」(p.148)

 

本当にこれに尽きると思う。

どちらかが絶対的に良いということはない。

ただ、知っておいて自分なりに時と場合によって取り入れたらいいと思います。

ここが中間のいいところで、どちらでもないからこそどちらにもなれる、というかね。

 

・・・と書いてみると自分がいかに良くも悪くも中間にいるかがわかります。

でもそれでいいと思います。

それと同時に、この「中間で良い」という考え方も常に揺れ動くべきである、

とも思っています。

 

はー長くなってしまった。

常に入れ替わりつつも30冊くらい家に本があるのに全然紹介しきれない。

明らかに後半にエネルギーが足りていないのですが、まあ良しとしましょう。

読むだけじゃなく自分で書くとなると大変ですが、

ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました!