エピソード記憶としての食べもの
つまらないデートで奢ってもらった100グラム五千円のシャトーブリアンよりも、親友と八時間くらい飲んだあとに食べる始発前の一蘭のラーメンのほうが美味しい。
そうなんです。
そういうことなんですよ!!!
私は自他共に認めるグルメな人間だと思っているのですが、美味しいものを食べる・作るのはもちろん、「食べ物に関するヤバいエピソード」が多い人間であると自負しています。
「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君の人となりを当ててみせよう」と言ったのはフランスの伝説的美食家、ブリア・サヴァランです。
You are what you eat. とかもよく聞きますね。
私の場合そんなこと言われなくてもわかってるっていうか、そうでしかない。
食べ物や食事と言った行為なしには私自身のことを語れないのです。
そこで今回はそのうちのいくつかを紹介できたらと思います。
食べ物に関する記事は常に書こうと思っていたのですが、気合を入れまくりたいがために逆にいつも書けずに終わっていたんですね。
あまりの凝り性でもどうしようもないので、ここいらで小出しにしておこうかなと。
いろいろあるんですけど、冒頭の文が以下のエピソードたちの特徴をうまく言い表していると思います。
つまり「表参道で五時間並んで食べたパンケーキは美味かった」といったような話は一切出てこないと思っていただいて大丈夫です。
食べ物に関してはいろいろな切り口で今後も攻めたいですが、単なる美味しいものたちを描写するのって視覚が情報の多くを占めている今、めちゃ難しいんですよね。
スマホの写真フォルダの中では主役級かもしれないけど、文字情報としては面白くなくなくなってきていると感じられているか、もう読まれないかもしれない。
杞憂だと良いのですが。
インスタグラム様様ですね。
だからといって面白さだけを求めて、珍味ばかりを攻めるのもどうかなと。
食べものを語るうえで私たちはこれからどうしていくべきなのか。
別に食べものとしては食べて美味しかったりカロリーとして蓄積されれば本来の目的を果たしているわけなので、別に書かれなくてよい。
写真のみのメニューのほうが文字だけのメニューよりわかりやすいし。
でも良い食べものと良い文章に囲まれて育ってきた身として、これからもこのお二方が仲良くされていくと嬉しい。
というわけで実験的にやってみようと思います。
個人的にグルメライターが本業ではない人たちの書く文章が好きなので、自分の文章もそうなっていくと嬉しい。
はい。
メニューみたいに並べてみました。
順番どおりに読んでも読まなくても大丈夫なので、クリックして飛ばして読んでみてください。
見出し機能にチャレンジしてみたよ!
- エビグラタン
- 千歳飴
- カップラーメン
- 唐揚げ
- ロイヤルミルクティー
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エビグラタン
記憶力には自信はないが、「食べものを食べる」という行為がいかなるものなのか意識し始めた瞬間はよく覚えている。
小学生のときに感じた圧倒的飢えだった。
というと砂漠でも行かれたんですかと聞かれそうだが全然そんなことはない。
空腹は最高のスパイスとよく聞くが、そんなレベルではない。
空腹のあまりもはや胃腸ではなく鼠径部が痺れてきてしまうほどだった。
なぜそこまで空腹になったのかは覚えていないが、とりあえず飢えを凌いだのがコンビニのエビグラタンだった。299円。
私の母は日々の食事はもちろん、お弁当にも一切冷凍食品を使わないし、コンビニや牛丼屋チェーンで買って済ませることはなかった。
その母が私に車であと五分で家に着くという距離の途中のコンビニで買い与えたという意味でも、このエビグラタンはすごいのだ。
当時はあまり食に関心を示さなかった私の悲痛な空腹の訴えがあの母をコンビニに走らせたというのもすごい。
エビグラタンもたまたまお昼過ぎのコンビニで陳列棚に残されていただけではない。
肉まんやおにぎりよりもお腹いっぱいになれて、しかもきちんと主食として完結している。
汁もないから、車の中でもこぼさずスプーンで食べられる。
でもちゃんとあったかい。
この利便性は愛である。
ちなみにアツアツを急いで掻き込んだため盛大に舌から喉を火傷したし、味はぜんぜん覚えていない。
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千歳飴
ミルキーはママの味で、糖分で頭が痛くなるほど食べていたい。
小さいころ牛乳も大好きだったから、ミルキーを牛乳で流し込むというカルシウム界もびっくりなかんじでおやつの時間を過ごしていたこともある。
そんな圧倒的支持率を誇るペコちゃんの最終兵器は七五三のときに姿を現すのだが、今風の言葉を使うならこんなユーザーインターフェースの悪さと言ったらない。
細長い飴が細長い袋に入っていて、全方向から舐められるのである。
ポッキーのような持ち手もない。
ベチャベチャにならないわけがないし、七五三の年頃の子どもが丁寧に割って少しずつ食べるなどといった理性を持ち備えてるはずがない。
しかも割ろうとしても竹並みに縦に裂けやすいので、全然食べやすい形にならない。
常に刺さる感じの形を保ち続けるので、あのわたあめよりも曲者である。
でもたまにはいい。
たまにだからいいのだ。
電信柱にぶつかってアイスを落とすような子でも、ハレの日には絶対千歳飴である。
別に込められたメッセージが教訓めいてなくたっていい。
(誰も千歳まで生きない)
でも「食べづらいけど甘くて美味しいので人目を気にせずむしゃぶりつく」なんて原始的な欲求の芽生えは、早いうちに経験しておいて損はない。
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カップラーメン
狂牛病の脅威はオーストラリアに旅行中の家族さえも逃すことはなかった。
「海外で食べるインスタント麺はおいしい」というのは我が家の家訓のひとつである。
でもほんとうに美味しい。
美味しく感じるのだ。
旅行という非日常と、ふだん”食べさせてもらえない”、”体に悪い”インスタント麺という非日常が合わさっているからだ。
恵まれた子どもならではの記憶である。
だからこそ当時の空港の検閲官に問いたいのである。
こんな家族の幸せを、カップ麺のふた一つ一つをカッターで裂き、あろうことか具だけ抜き取るなんて、こんなに非人道的なことがありますか、と。
いっそ麺まるごと取り上げてくれよ。
でもそんなことで味が損なわれる日本のカップラーメンではない。
あれはラーメンではない。
食のミニマリズムと携帯性を突き詰めた技術の結晶である。
そしてほんとうに非人道的なのは、牛たちをここまで追い詰めた人間なのだと幼心に学ぶ。
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唐揚げ
唐揚げは濡れてはいけないはずである。
永遠に和解しあえないと言われていた水と油の、後者の具現化ともいえるこの揚げものは、前者の友達、レモンとの対話を熱心に進めてきた。
その結果「自分の取り分は自分で」というポリシーが定着しつつある。
人にレモンを絞ってあげるのは、水分同士のチューハイだけ。
しかし常識は覆されるからこそ意味がある。
松蔭神社前に喜楽という中華料理屋がある。
看板メニューは唐揚げ定食。
わざわざ看板なんてつける必要すらないほどだ。
スライド式のドアを音を立てて開けるとき、鼻どころか皮膚全体を覆う油とにんにくにの香りが唐揚げを想起せざるをえない。
しかし運ばれてきた瞬間、初めて訪れた客はざわつく。
唐揚げを、しかも老舗の中華屋で濡れた状態で来るなんてと。
まあ落ち着いて、とセットの卵スープを一口すすり、いざ箸でつつくのだが、そのあまりの湿りっぷりにまた躊躇する。
でも空腹が限界でかぶりつくと、もう虜になっていた。
これはいわゆる唐揚げではないが、こうなった経緯には唐揚げという食べものへの探究心があるのだ。
唐揚げを伝えきるためには、主要な要素を切り捨てるときもあったっていい。
歯ごたえは刹那的だが、風味は口の中で持続する。
でも揚げたては揚げたて、アツアツなのだ。
瓶ビールで乾杯するしかない。
食後の口臭を恐れてムスロ定食を頼んだ臆病者にもいちおう一ピースあげる。
もう市販のミルクティーの異様な甘さと牛乳の割合の少なさに怒りを覚えた私は暴挙に出た。
煮え立つ牛乳にそのままティーバックをぶち込んだのである。
我ながら紅茶界を覆す大発明だと思った。
色もすごくいいかんじだし、なんたって濃い。
さっそく家族に自慢したら、「それをロイヤルミルクティーと言うんだよ」とつっぱねられた。
正確にはロイヤルミルクティーも水で抽出してから牛乳を足すそうで、比率の問題らしい。
牛乳ではどうも完全に紅茶の味が出し切れないそうなのだ。
それにしてもロイヤルってなんだ。
そして牛乳の比率が高くなるにつれ高級度が増すのなら、抽出しにくかろうが私の自己流ミルクティーが最高峰ということになる。
そもそも紅茶味の牛乳が飲みたいのか、紅茶に牛乳の風味を付けたしたいのかで論点が異なってくる。
コーヒー牛乳に関してはコーヒーは風味として位置づけられ、なんなら牛乳も存在感が薄くなり、コーヒー牛乳という味が確立しているのだ。
というわけでロイヤルミルクティーもミルクでもティーでもない、二つが混ざったものにしかできない味を目指すべきなのではないか。
とおもっていたらタピオカがあっさり仲介し、新たな地位を確立しつつある。
いずれにせよ一度試していただきたいのが両者の純粋なぶつかり合いとも言えるこの私流のミルクティーである。
暖められた牛乳が作る膜のせいなのか、ティーバッグが沈まないのだがこの相容れない感じがまた良い。
お互いなかなか譲らないのである。
私は猫舌なので長期戦に持ち込まれることが多い。
真っ白だった牛乳が次第に茶葉に心を許していくさまは、透明な水に圧倒的に茶葉が優勢に侵略していくものとは何か違うものがある。
いかがでしょう。
なんかこういう、エピソード記憶レストランみたいのやってみたいですね。
メニューにあるものに関して頼むときにそれに関するエピソードを言わなきゃいけない、みたいな。
無意識にやってるときもあるな。
ちなみに好き嫌いのない人間としては抽象的な「好きな食べ物はなんですか」という質問がめちゃくちゃ難しいのですが、おまけとしてジャンル別に並べてみようかな。
ブリヤ・サヴァランもこれくらいの答案を見て私を判断してほしいものです。
- おつまみ
日本酒なら、いぶりがっこクリームチーズ、白子ポン酢、なめろう
洋酒ならレバー、パテなど原形をとどめていないシャルキュトリ系とヤギとか臭いチーズが好き。
- お酒
ワイン/ドイツとオーストリアらへんのさっぱり甘め
カクテル/圧倒的モヒートだったが、ジンが来ている。XYZとかレモンジュース系のショートカクテルが好き
日本酒/金沢の!
ビール/IPAと見せかけて6パーセント以上あるやつ
- パン
クロワッサン、キッシュ、くるみパン、メロンパン
好きなパン屋さんはHOKUOです。北欧のパンより美味しいと思う。
- ケーキ
レモンタルト、ロールケーキ、ショートケーキ
でもレモン以外の柑橘系が乗ってるケーキは好きじゃない!
- 甲殻類と貝類
ダントツで牡蠣
あわよくば牡蠣で当たって死にたい。泡系のワインと合わせると美味しいカクテルになる。オイスターガズム。
- 麺類
汁ありなら鶏そばなどスープ透き通ってる系
うどんは釜玉!
- 調理器具
オーブントースター、ガスバーナー、ブレンダー
熱いものをアツアツで食べたいので、全身を火傷しながらグラタンとか食べます。
目の前で何かが溶けるのを目の当たりにするのが好きなのでバーナー。
ブレンダー万能なのでほしいです。
- キーワード
炙り、炭、串、揚げ、照り
二つ以上組み合わせるのも楽しい
よだれ鶏、瀬戸内レモン、バビ・グリン
- お土産
- 粉もの
マントウ、ナン、たこ焼き、ホットケーキ
- 臭い野菜
ニラ、春菊、パクチー
- 辛い料理
タイ料理、韓国料理、四川料理
一見わかりづらいのにあとからじわじわくる、理不尽な辛さが好き
山椒とか痺れ系も好き
- ホルモン
マルチョウ、トリッパ、レバー
- ごはんにかけるもの
味道楽(味道楽って何?)、塩昆布、しらす、ゆかり
- 食堂
オムライス、カツカレー
どうせなら千カロリーくらいぶつけてきてほしい。
- 魚
鰻、穴子、鯛
甘いタレを絡めながらご飯と食べるのが好き
- じゃがいも
フライドポテト、マッシュドポテト、ポテトサラダ、コロッケ
- 野菜
なす、ズッキーニ、アボカド、大根、さつまいも
- 揚げ物
天ぷら、かきあげ、串揚げ
- カレー
バターチキンカレー、グリーンカレーのエビが入ってるやつ
ココナッツミルク強めで!
- ○○ライス
ハヤシライス、海南チキンライス、オムライス
- スープ
豚汁、トムヤムクン、クラムチャウダー、オニオンスープ、スンドゥブ
- 煮
角煮、しぐれ煮、里芋
- フルーツ
みかんなど柑橘系全般、マンゴー、ざくろ、巨峰、パッションフルーツ、桃、パイナップル
好きなものを可視化するの、結構楽しくないですか。
食べものを語るなら、こうやってとことん話したい。
だから「地球最後の日に何が食べたい?」という質問が嫌いなんです。
一見、地球が終わるときに食べもののことしか考えてない人が考えた質問と見せかけてそうでもない。
「地球が終わること」と「食べもの」、両方に配慮が足りていない。
こういう質問をしてくる人はだいたい注文するもの決めるのも遅い。
どっちつかずなんですよ。
地球の終わり方にもいろいろあるじゃん、隕石ぶつかって一瞬で死ねるならまだしも、終わりそうな気配がしたら滅ぶ前に逃げるでしょ。
滅ぶ時期が分かっているなら(日本人なら)それなりの脱出に設備投資して、当分はそれなりのご飯食べられるようになってるでしょ。
え、そうでもないのかな、まあとりあえず私は地球滅亡の日にも食べもののことしか考えてないと思います。
でもこういうこと言うと「わかってない」とか言われる。
まあまあ言いたいことはなんとなくわかるけど、そんな話をするくらいなら、今空いているグラスを次なにで満たすかとか、残ってる最後のひとくち誰が食べるのかとかを考えましょうよ。
私は地球が滅びようが車に跳ねられようが、「いつ死んでもよくはないけど、それでも万が一のときに後悔しないよう好きなものをちゃんと定期的に摂取する」派です。
でも絶対、走馬灯は食べものばっかりだろうなぁ。
走馬灯、馬、馬刺し、とか考えちゃうもん。
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早春小噺寄せ集め
ん〜春は眠い!
最近天気が良くって眠気しかないので、我ながら良いなと思ったアイディアをなんとなく置いておいて今月は良しとします。
私の好きなオモコロやデイリーポータルZの記事ネタになりそうなタイトルを考えて実行に移さない感じ。
あとツイートにしては長すぎ、ブログにしては短すぎみたいな、そんな中途半端な原石(というと聞こえが良い)を集めてみました。
帯に短し襷に長しですね。
めちゃくちゃ盛るなら、内容としては益田ミリさんの「よくわからないけどいっか」感を目指しました。
この感覚、大事ですよ。
最近割と親しいと思っていた人に「SNSに挙げている内容がよくわからない」と言われて少しばかり凹んだのですが、世の中は結局わからないことばかりなのであまり気にしないことにしました。
私のわからなさを楽しんでいる人もいるはず!
でもわざわざ「あなたの言っていることがわからないよ」って言ってくれる存在はありがたい。
ていうか「あなたのことはよくわかってる」なんて、よく分かっている人こそ言わなくない?
わかろうとせず、わからせようとせず、流しそうめんを見送る感覚で見守っていただけますと幸いです。
タイミングが合えばすくって食べるかんじ。
- 英単語を検索して出てきたメタルバンドとホラー映画を紹介する
- 形ごとに名前が付いているランジェリーブランドがアツい
下着が好きなんですけど、色々探しているうちに最近のトレンドとしていちいち名前をつけると当たり前だけど個性が出てきて良い、 という印象があります。女性の名前が付いているブランドもあり、試着時に店員さんと話していると「え、誰のこと話してるの?」と言ったわけがわからない状況に陥るのも確かですが、名前とイメージと形は割と一致しているので覚えやすくて楽しいです。ちなみに私の推しメン且つ一番の友達はintimissimiのEleonoraちゃん。
- 「言ったもん勝ち」の対義語は「言わなかったもん負け」か
個人的にはそうであってほしくないと思う一方、発言の機会や場が格段に増えている世の中だからこそ、そう考え始めている人が多いのかな、という印象を受けます。「あのとき言わなかったからあれで良かったと思った」の、「あのとき」がどんなときだったのかという想像力のある人がもっと増えると良いな。自戒も込めて。
言えない状況で言えなかったことを後出しするのはかっこ悪くなくて、むしろめちゃくちゃ勇気がいることだと思う。
まあこのハイコンテクストな「察して」文化は特定の種類の人や国ではあまり通用しないので、特に嫌なことの場合はきちんと怒りましょう。そして、怒れなかったときは強気な友達に相談して、次に備えましょう。
- 好きな曲を三日で500回くらい聴いてしまう
いや、別にいいんですけど、音楽に”消費”という言葉を使うのが好きではない自分がいる一方、好きな曲の圧倒的な中毒性から生まれる消費感には毎度驚かされます。そしてさらに怖いのは、こんなに一時期好きなのに飽きる自分がいるということ。でも何かを「好きになる」という行為には、こういう一時的に盲目的な時期と、その熱が過ぎ去った後の付き合い方のバランスがポイントかもしれませんね。
そういえばiPodを使っていた時は、プレイリストの名前を作成時の日付にしていたことを思い出しました。今はspotifyでふとお気に入りに追加してしまうので、自分の音楽史みたいのなくなってきてしまった...こう、簡単に自分史っぽいの作れるの良いよね。
- 対談がしたい
顔を合わせているときはそこまで話さなかった友達からたまたま連絡が来たりして面白い議論に発展したり、何気なくアップしたインスタグラムのストーリーに鋭い考察が入って、共通の好きなことが見つかってより深い仲になったりと、出会いや付き合い方が多様化してきました。で、「わ〜い!」となって熱い議論を交わすのだけど、対談て前提ではなくて気がついたらなっていた、事後的なものが理想だなと。対談形式の本を読むのも好きなのですが、居酒屋で話している雰囲気を感じさせる、話の始まりと終わりの区別がつきにくい感じ、良いですよね。
私はサシ呑みが好きです。
- 試着室で買わない服を着て写真を撮る
「試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。」というキャッチコピーが一昔前に話題になりましたが、その前に試着室ではまず服そのものと対峙し、恋に落ちるべきですよね。海外の服屋さんが良いのは、柳原可奈子がモノマネしているようなショップ店員が徘徊しておらず、一流デパートでも基本放置プレイなところ。試着室で必要以上に声をかけられることもないので、めちゃくちゃ写真撮っても全然大丈夫。
この前嬉しかったのは、良い意味で絶対にお世辞を言わなそうな店員さんに何気なくカジュアルスーツ上下を着て出たら「めっちゃ似合ってるじゃん!写真写真!」っていわれたこと。普段は誰もお世辞を言わないから、気軽に買わないと思ってる服でも試着できて逆に購買欲が上がる、という謎の現象が起こりました。
あと服を買おうか迷ったらInstagramのストーリーに上げて色んなタイプの友達から意見をもらうもよし!
- FacebookのMessengerのリアクション機能
があんまり好きじゃない。そもそもいいねボタンが多様化し始めた時から暗雲が立ち込めていた気もする。感情を集約しちゃいけないと思うんですよね。「シェアされているコンテンツに対する反応を多様化させる」という(おそらく本来の目的)よりは、「五つの反応に沿ったコンテンツがシェアされるようになり、反応が計量化しやすくなった」気がします。ユーザーではなく、あくまで作成者のためのものなのでは。そしてその五つの中から選ぶ私たちの感情も微妙なニュアンスを失い始めているのではないかと。
Instagramのストーリーへの反応も、いくつかオプションがありますよね。そもそものFacebookやTwitterはコンテンツに対する気軽な共感からのつながりを拡大することで利用者を獲得していったわけだと思うのですが、 upvoteかdownvoteしかないredditや、そもそもそんなものが存在しない2ちゃんねるを見てみるとコメント欄に重きが置かれていて、そこで議論が交わされている。Twitterやtumblrもボタンを押せば済む反応ではないことは、言葉にしなければならない。それがフェイスブックには減ってきている気がする。
なかでもメッセンジャーのハート顔の利用頻度の高さ、気軽さといったらない。Twitterの「お気に入り」の★から♡への以降も、Instagramのダイレクトメッセージの♡の軽さも、多用しておきながらなんだか怖い。昔だったら、♡押されたらどんなコンテンツをシェアしたのであれ、もっと強い意味を持っていた気がすると誰かがツイートしていました。
自分の感情がそのまま伝わることというのはほぼないので、だからスタンプや絵文字に頼るわけですが、使用を重ねる度に私たちの感情がそちらに合わせてきてしまっている気がする。絵文字で肌の色が指定できるようになったように、選択肢が増えれば増えるほど自分の意見を代弁してくれるものが増えるわけなのですが、それだけが表現方法になってしまったら悲しいので、私はブログを続けるのだと思います。♡
でも♡はやっぱり良いよね。♡は良い。
個別のメッセージもアプリによって同じ人に対してでもコミュニケーションの仕方が全然違うなと、Messenger、Whatsapp、LINEを使い分けていて思います。メッセージがかさばりがちだったところに、LINEのリプライ機能は嬉しい。
- 「海外で活躍する日本人」と「海外に行って(も)変な日本人」
島国だからか、国外に出る人に注目する国、日本。でもその対象は「外に出て日本の文化を広めるために頑張っている」人や、「海外で勉強して帰国後日本でその知識を活かす」人。その対極にいるのが、「海外に行って変なんなっちゃって帰ってこなくなりました」という、国内外に利益をもたらしていない根なし草のような存在で、まあ私なんですけども。
「『クレイジージャーニー』に出そう」ってよく言われますけど、クレイジーはクレイジーでも旅人なら日本が拠点ですからね。私はどちらかというと、元から母国に適合していなかったのが、よその国で暮らしてからというもの帰国後もその傾向が増したという感じです。「どこにいても、どこにも属している(belong)気がしない」というのは少し悲しいことですが、きっと何事もパーフェクトフィットなんてないのでしょう。でもだからこそ実験がてら色々な場所に住んでみたりできるのであり、離れてみて見えてくるものがあるというのは確か。
というわけで私はそこらへんのweabooよりも日本に詳しいオタク、みたいな地位を海外で確立しつつあります。 一応国籍はまだ日本なので、自分のなかの「日本らしさ」と「日本らしくなさ」の葛藤を楽しんでみたいと思います。トルコの時間の流れ方や、Dutch directnessもうまく取り入れていると嬉しい。
・self respectとconfidenceの違い
私は自己評価が低い方だと思います。これはもう良いとか悪いとかではなくて、ここまで来たら変わらないものです。でもそのあまりの低さの割には周りにそう思われてない方だと思います。これも結構どうしようもない。
冒頭に戻りますが、「誰かが私のことをどう思っているのか」というのは二重構造の想像みたいなものだと思います。相手がもし私に関する評価を下したとしても、私がその評価を理解できるとは限らないし。いや、私も自分のことよくわからないし。答え合わせというものが不可能ですよね。
でも、たまにはひどいことを誰かに言ってしまう(し言われることもある)!なぜか「私のことを全く知らないはず」の通りすがりの人にもその権利はあるようです。そのときに大事なのがself respectです。
そんなとき「毒を以て毒を制す」とまでは行かなくても、「自分は不当な扱いを受けている」という出来事には強気でいきたい。これ、自信とか自己評価と別物なんですよね。defense mechanismという言葉もよく聞きますが、自分のことは守らなきゃ。そういう感覚を研ぎ澄ませていきたいなと思います。
というのも最近友達と話してて気がつきました。相手の子も自己評価が低いんだけど、なんか気高いなって思ってて、ポイントはself respectなのかなと。
追記
24歳になりました!干支2周しちゃったって信じられない。
最近のハイライトは、友達とスカイプしているときに5秒くらい寝てその5秒間に買い物している夢を見て、目覚めたときにそれまでの会話となにも脈絡もなく「スウェット」と口にしたこと。
映画『善き人のためのソナタ』の最初の方のシーンで、「眠らせないのが一番の拷問だ」って言ってたのがあった気がするけど本当にそれで、私だったら眠らせてもらえなかったら真っ先に仲間を裏切ると思います。
拷問シーンで言えば『007 慰めの報酬』のも結構「イテテテテ!」ってなりました。
それではみなさん、良い三月を〜
暖かすぎて桜フライングしているライデン。
行為の棚ぼた化(撞着語法)
あけましておめでとうございます!
2019年。
どうも響きが好きではないのですが、始まってしまいましたね。
この時期になるともう抱負を書かなくてはいけないか、年末に振り返りつつ新年に間に合うように発表するそうじゃないですか。
私も毎度遅れながらも割と考えるのですが、でも毎年うまいことが言えない、みなさんと同じ人間です!
今年もよろしくお願いします。
今回は書き留めたい言葉があるので書こうと思いました。
これが結果として抱負や目標になるならそれもいいかな。
というのも昨年後半にかけて精神的ダメージの百鬼夜行が押し寄せ続けていたんですね。
百鬼、しかも毎晩連続で来ちゃうともうどうしようもない。
玄関を閉め鍵を掛け通り過ぎるのを待つしかないんですけど、でもたまに外に出なきゃいけなくて、それでもう絶対エンカウントしちゃう。
これについては現在進行形なので、また全貌が解明してから書こうかなと思います。
今はそれらを妖怪の行進に例えられる程度には回復し戦えるようになってきた、ということだけはお伝えしておきます。
なんで私が選ばれちゃったんだろう〜
年女だから?
月イチ更新を目指していたブログが停滞してしまったのも恐らく妖怪のせいですね。
妖怪、便利!
いや〜定期的に書き続けると言うのは本当に体力の要ることで、すでに他で消耗していると無理なんですよね。
村上春樹が書くためにマラソンしているのがわかりかけて来ました。
それに好きなものや楽しいことを書く場なのに、暗い方向に持って行きたくなかった。
ギャグマンガ家の人たちって、きっと単に面白いだけでなく辛いことでも昇華するスキルがないとやっていけないんじゃないか。
そんななか、先日久しぶりに会った高校の頃からの友人の言葉を紹介・分析したいと思います。
彼女と出会ったのが高校一年生で15〜16歳ですから、それはそれは大昔ですね。
クラスが一緒だったのですが、正直なぜ仲良くなったのかあまり覚えていません。
誕生日だけはとても近くて、高校生ながらに「同じ星座でもこんなに違うんだ...」と星座占いを信じすぎているにしても大きな違いに愕然とした記憶があります。
彼女は優等生の中でもトップクラスで、私は特別にうるさい猿とかだと思ってもらえれば大丈夫です。
これは決して卑下などではなく、当時のクラスメイトにアンケートをとれば全く同じ答えが返ってくるはず。
私はほとんど覚えていないのですが、本格的に仲良くなったのは、彼女曰く「下北沢のエスニック料理屋」だそうです。
私が彼女をこのお店に連れて行ったことで、このときまだ新ジャンルであった東南アジアやインドカレーに足を踏み入れるきっかけとなってしまったらしいのです。
これは責任重大で、というのも彼女はその後大学も東南アジア関連、仕事も一流企業のグルメ系所属という、味覚のエリート街道まっしぐらでここまで来ているからです。
そうなると流石に自分のことでも猿というのは気が引けてきたので、オランウータンにします。
...このように、毎回忘れて、毎回私が訊く「なんで私たち仲良くなったんだっけ?」という質問に彼女が答えるというお馴染みのやり取りを今回会ったときもしていました。
大学入学後はだいたい一年に一回ほど顔を合わせるのですが、
やはり最近は高校時代には想像だにしなかった話が出てくるもので
その都度増す話の重みや深みに「私も大人になったな〜」と振り返る指標となっていました。
今回は私が主に愚痴を聞いてもらう流れになりました。
そうして牛すじカレーを啜りながら身の上話をしたあと、お店を出て次のカフェに向かって歩いていたときに、彼女は言いました。
「きよかも辛いこととか悲しいこととかあるかもしれないけどさ」
ここで私が予測した言葉は、
「お互い頑張ろう」とか、
「きっと今年はいいことあるよ」でした。
恥ずかしながら。
しかし彼女がその次に発した言葉は、
「きよかは私の一部だから」。
私はその一言に非常に感動し筆を取ることになったわけですが、なぜ私はそんなに感動したのでしょうか、というのを以下分析したいわけなんです。
まあそうなんでも分析せずに親友の言葉だと思って素直に受け止めなさいよ、と思う方もいらっしゃるでしょう。
しかしこれが分析結果、私がもっとも必要としていたにも関わらず気がつかなかったことであったと判明したので、書き留めておく必要がでてきました。
感動したことに感覚的に共感できる方もいるかもしれません。
そうした方は答え合わせのような感覚で読んでいただければと思います。
正解なんてないんですけど、もしこれを読んでいる方がいつか誰かに言われたときに湧き上がる感情を理解する手助けになるかもしれないしね。
数週間考えていたのですが、キーワードは「アンパンマン」と「棚からぼたもち」かなと思います。
(これはまた私の大好きな贈与論に突入してしまうんですけど、混みいった話と先祖のネックレスのために何キロも航海する先人たちの話については私よりも何千倍も専門家で大御所である後述の参考文献を読んでいただくとして)
アンパンマンと棚ぼたの共通点は、誰かに利益を与えていますよね。
でも与え方が決定的に違う。
私は彼女の言葉でこれに気が付いたのです。
そもそも、「棚から落ちるぼたもちに意思はあるのか」という哲学的ツッコミが出て来そうですが、それ!そこ大事!
恐らく現代科学の範疇では答えはノーです。
諺のなかでぼたもちは主語として扱われていない。
表現上ではあたかもぼたもちが自ら棚から落ち、人々の口に入っているようですが、解釈としてはあくまでぼたもちを幸運にも手に入れた人間側に焦点が当てられています。
ていうか棚からぼたもちが落ちるって何ごと?
それこそ妖怪のような、超自然的な存在を用いないと説明できなくない?
諺作成者にぜひ聞きたい。
調べていると
「棚からぼたもちが落ちるのを口を開けて待っていた」説と
「口を開けていたらぼたもちが落ちてきた」説が出てくるのですが、
前者はもしそうだったとしても、その一見究極の怠け者に見えて実際全然そうではない矛盾した行動が現在の私の理解の範疇を超えているので、以下後者を支持したいです。
アンパンマンはどうか。
アンパンマンは「困っている人を助けたい」という明確な意思のもと、自分の身を削る英雄です。
ではもらう側から考えたら?
ぼたもちを”労せずして”手に入れた人と違うのは、こちらも明確な意思のもと助けを呼び、助けをもらった。
とてもわかりやすい関係です。
でも、結局どちらも与えている。
お腹が満たされるという点では同じ。
しかもあんこつき!やった!
あ〜難しい意思の話になってしまいました。
これも専門外なので、幾度となく紹介している『中動態』を読んでいただければ。
友達の言葉に戻ります。
ここで私が言いたいのは、おそらく私は彼女にとってぼたもちだったということです。
恩着せがましい言い方をすれば私は彼女に何かを与え、それが彼女の一部になった、というのが通常の解釈なはず。
二者間の関係は矢印で表されるはず。
アンパンマンと彼が助けた人々、という関係と言ってもいい。
でも、私たちの場合それが成り立っていないんです。
なぜなら私は彼女に与えていないからです。
というよりも、私は与えているという意識がなかった、という方が正しい。
だから私は感動したのです。
自らの意思のもとで行う与える行為でしか、人に与えられないと思っていた。
そしてそれには時間を置いて返礼が伴う、と。
贈与論そのものです。
→こう来て
←こう来る。
なんとなく、自分で良かれと思ってやっていることではなくても、なんらかの形で自分の行為が人に利益をもたらすことがあるかもしれない、というのはわかってはいました。
「ありがとう」と直接言ってもらわなくても、私から利益を受けている人がいるかもしれないと前向きになれるというか。
でも言葉にはしづらいというか、言ってはいけないというかそんな気持ちがありました。
でも彼女の一言ですっきりした。
これはおそらく「私にとって彼女は何か」という関係にも当てはまります。
どちらも無意識で始まって、いつしかそれがお互いの自分の一部になっていた。
reciprocal!
だから利益という概念なんて掠りもしないんです。
ここに彼女の単語選びのセンスを感じます。
外部からお肉などの塊を咀嚼して消化する一方的な行為ではなく、成形前の柔らかいパンのタネを捏ねているうちにパンと自分の境界がわからなくなった、そんな感じ。
あれすごく気持ち良いですよね。
しかもどちらかに留まってしまっているのではなく、この交換運動は現在進行形で継続中です。
だから、矢印で表すなら🔁ですね。
動きをたくさんつけてGIFにしたいくらい。
それにしても「一部となる」ってものすごいことです。
彼女が一番すごいのは、ただ私から何かを吸収しているだけでなく、それをきちんと消化しているところ。
これは言い換えれば私が彼女にたまたま消化しやすいものを与えていたからかもしれないし、単に彼女の消化器官が優れていたからかもしれない。
長い時間をかけて消化という行為に向き合っていたからかもしれない。
いずれにせよ「一部」という言葉の裏には膨大な過程を感じさせる何かがあります。
ちなみに私は食べ物でも、知識でも、愛情でも取り入れすぎてパンクすることが多々あります。
ここは欲望に忠実というよりは、感受性が豊か、好奇心と食欲が旺盛に言い換えておきましょうかね。
歩く受容体みたいなんだと思います。
パンクするのもブレイクスルーというか、結構重要な成長の機会だと思うんですけど、立て続けに起こるとどうも難しい。
私は多分それが主な理由でここ数ヶ月疲れていた。
吸収の対義語は消化なんですよね。
発散ではない。
だから取り込みすぎるとあくまで内にしばらくこもっている。
そンな感じで疲れてしまったので、私は「もらう」「あげる」という意識のもとに行う行為をできるだけ減らしていこうと思います。
ブログにしたって多分そういう意識で書いていると私も読んでいる人もつまらないだろうし。
意思伝達の手段として、自分の考えを文章を通してわかりやすく伝えるという技術は磨いていきたいけれども。
実はそこがブログ以上の文の単位(本など)の良いところでもあって、書く側もそれなりに推敲を重ねている(はず)なので、消化する側もそれなりに根気が要る。
そういった時間のかかるコミュニケーションは速度を重視していない分、議論が深められるんではないかなと。
「あげる」ことを意識的に行い見返りを求めないほど私は今のところ出来た人間でもなければ余裕もないし、そういったサイクルに疲れてきてしまった。
解消するにはこの「あげる」意識の低下をしていきたいなと。
そしてそれをこの記事のタイトルのように行為の棚ぼた化と名づけたいと思います。
主体を自分ではなく周りに置き換えています。
私という棚からぼた餅が落ちているんだけれども、私は落としていることに気がつかない。
(すごくアホっぽく聞こえますけど、私実際によく落し物をするのでこれが自分にとってもっとも適切な表現ということに落ち着きました)
行為には主語があると考えられがちですが、この場合主語があるようなないような、撞着語法になってしまいました。
私は何かを誰かや何かに与えているかもしれないけど、そういった意識を常に持つ必要はない。
数とかも数えない。
消化できる人はうまく消化してくれるだろうし、食あたりを起こす人もいるかもしれないけれども。
これを無責任といった言葉で片付けるのは簡単ですが、
少なくとも自分ができる範囲の行動が誰かのためになれば良いな、と思って生きていればそんな悪いことは起こらないのではないか。
5秒ルールみたいな感じで、もう一回拾って自分で食べてしまっても良い。
こうやってくどく書いているのも自分自身を説得させようとしている部分が大きいので、普段から自然にバランスが取れている人は当たり前すぎて読んでいてもわからないかもしれません。
自戒を込めて一言で言うと
「好意でやっても返ってこないことの方が大半だし、気にするな、気にするなら無理してやるな」という話ですね。
少なくとも今のところは私はアンパンマンのようには自分の身を削ってまでできないからです。
前からそうではないかと思っていたけど、認めるのに時間がかかりました。
それに意図的な「贈与」と「返礼」だけでは、やっぱり世界はつまらないじゃないですか。
ここは実はボランティアをしている方に聞きたいところです。
あと個人的に非常にお世話になったけどいまだに理解できない、イスラム教などの「喜捨」の精神がある宗教の方や地域の人と話してみても面白いかも〜
ここまで書いて思ったけど、私は何かを誰かに与えていて、その返礼として友達から言葉をかけてもらったとも言えるのかな。
マイナスが、プラスに...逆もまた然り。
わー贈与の輪から抜け出してぇ〜!
〜近況報告〜
・友達と会った日の帰り道にものすごいボルゾイ、オーラで例えるともののけ姫のモロが、しかも三頭が悠悠と散歩していたので、ありがたい言葉を忘れかけるほどだった。
・スペイン人の女友達と二人でクリスマスイブを過ごし、「飲みすぎて苦しいのでブラを取っても良いですか」と訊いたら「当たり前じゃん、家父長制なんか崩壊しとるんじゃ!」(?)と返された。
・現在のハウスメイトの一人が40代のおじさんなのだが、最初に彼の娘が登場、そして次はオネエの同僚(?)が出てきてなかなか本物に会えないかと思いきや、最終的に出てきたのがボブ・マーリーだった。
周りに起こる現象がすぐに消化できない、あるあるですね!
・参考文献
受容体が強すぎる人は読みやすすぎるのに内容のインパクトがすごいので、オーバーフローしないように気をつけてください(私は一年以上引きずっています)
「かいじゅうたちのいるところ」の怪獣と主人公の関係くらい、人を好きになってみたい
「パンヴェニスト」って汎(パン)・ヴェートーヴェンの人みたい(?)
文中の「滔々と」という表現が素敵。ザ・表意文字と言ったところか。これはいつか使ってみたい
・関係ないけど今読んでいる本
「イミテーション・ゲーム」もう一回見たくなった
もう人が物語なんじゃないか。「利己的な遺伝子」ならぬ、人は物語の乗り物
わたしじゃなくて「あたし」なのがポイント。読書用じゃなくて観賞用のタイプの本です
今年もよろしくお願いしま〜す!
チャイ!