きよかのブログ

高等遊民を目指します。

中間でいいじゃない

いやはや、10月も終わりそうですね。

 

今回ご紹介するのはこの三冊!

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

どれもめちゃくちゃ面白いのですが、 

なぜこの三つを同時に紹介したのかと言いますと、共通点があるわけなんですね。

 

タイトルにもあるように、中間です!イエイ!

 

三冊はそれぞれ

能動態と受動態の間としての「中動態」を、

言語が文化的(人為的)・自然的産物のどちらでもあることを、

日本人と外国人のコミュニケーションの方法論の間を、

論じています。

 

一見違うジャンルの本なのに共通点があるって面白いですよね。

こういうことがあるから読書はやめられない。

話が逸れますが、私は「乱読」というのは高い確率で不可能だと思っています。

なんだかんだ、どこかで自分と関係している本を選んでしまうので、

最初は乱読したと思っていても根本的な部分では無理というか...

結果的に読んでみたら他でも同じこと言ってたな〜、ということもありますしね〜

 

さて

皆さんは"中間"と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?

1 物と物との間の空間や位置。「駅と駅の中間に川がある」「中間地点」
2 思想や性質・程度などが両極端のどちらでもないこと。「双方の意見の中間をとる」「中間派」
3 物事が進行中であること。物事がまだ終わらずに途中であること。「得票数の中間発表」

中間(ちゅうげん)とは - コトバンク

 

辞書で検索したら三つほど見たかったのですが、

今回特に論じたいのは二つめの定義です。

 

私はこの意味での中間に対し、ずっと否定的な考え方を持っていました。

特にコミュニケーションの場面ではなおさらで、

エスかノーかを迫られた場合、

「どちらでもない中間」というのはあまり良いと見なされない、

という印象があります。

「中途半端」という言葉なんてネガティブな中間の最たる例ですよね。

 

また、「中間を図式化せよ」と言われたらどんなものを描きますか?

多くの人が下のような図を描くのではないでしょうか。

 

       ●         ○          ●     

 

そしてここの間にある○は、外側の二つの点と等間隔の距離を保っていませんか?

 

ここでもう一度定義を見直してみましょう。

一つめの定義には単に「物と物の間」と書いてあるだけで、等間隔なんてどこにも書いていません。

英語の"middle"を辞書で引くと等間隔と明言されていないまでもそういった定義が見受けられますが、ここではあくまで日本語で考えるので置いておいてください...middle Meaning in the Cambridge English Dictionary

 

これら三冊の本は中間に当たる○「等間隔でなくてもいい」し、

「常に○が動くものである」ことを教えてくれた本でした。

 

図で表すとこんな感じ。

 

       ●                 ○  ●     

                             これでもいいし、

       ●   ○                ●     

                             これでもいいし、

       ●            ○       ●     

                             これでもいい。

 

もう少し本の中身を紹介します。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

私たちは文法で「能動態」と「受動態」(とその対立)しか習わないし知らないが、

ギリシア語に始まる文法の歴史を紐解くと本来はそうではないことが判明。

むしろ「能動態」と「中動態」の対立であり、受動態から生まれた...

なんて言われると文法用語アレルギーはそれだけで本を投げ出しそうになりますが、

もうちょっと頑張って読んでみると、5章から読みやすくなります。

 

この文法と密接に関連しているのが「意思」の概念なのですが、

アリストテレスの時代にはそんなものはありませんでした。

それは「責任者を特定して責任を押し付けるため」に後から作り出されたものでした。

 

「責任者を特定するために言語が変化し」、

「行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意思に他ならない。

意思とは行為の帰属先である」。(p.176)

 

冒頭から散々述べられているように、

アルコール中毒者のような深刻なものから身近な問題まで、

誰か一人に責任を問うことは非常に困難です。

にも関わらず、私たちは「本人の純粋な意思」による行為(能動)か

そうではない(受動)かで問題を片付けようとしてしまう。

本来はスピノザが述べ、上の図で示したように常に揺れ動くものです。

それに当たるのが中動態であるのだが、

私たちはその存在さえ知らなかったから苦しかった。

この存在を知ったら楽になるかも。

まだ中動態の子孫は言語の中に生きているし。

 

この本の面白いところは出版社が「医学書院」なのに、

中身が思いっきり哲学書であること。

また、取り上げている分野も文法から哲学、小説と多岐に渡り、

よくここまでまとまるものだと感動しました。

筆者の学際的姿勢というか、

「中動態をキーワードにして様々な分野を結びつけたい」

という気持ちが伝わってくるような気がします。 

 

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

これもプロローグの翻訳がわかりにくいのもあって進まないけど、

ちゃんと一章からスイスイ行けます。 

恥ずかしながらまだ第一部しか読んでいないのでその部分だけ。

 

筆者はある言語が色に名前をつけるときに、

それが⑴自然的なものか、それとも⑵文化的慣習によるのか、

という19世紀から続く論争に終止符を打とうと試みました。

例えば、ある文化にとっての「青」は他の文化でも「青」なのか(⑴)、

それともそれぞれの文化がランダムに色名を付けているだけなのか(⑵)。

 

これに対し、筆者は「文化は制約(自然)の中で自由を謳歌する」(p.115)、

という結論を下しました。

ある一定までは自然が普遍的にどんな地域・言語にも影響を及ぼすが、

それ以外は各文化に委ねられている、ということです。

 

これも一見「どっちつかず」と言われてしまいそうですが、

こういった分野におけるたいていの良い論文の結論は

どちらにも中立の立場を示しつつ、良いところを取り入れている気がします。

それは筆者が行ったように先行研究に敬意を払い、

綿密に文献を読み込めばこその結論であるとも言えます。

 

筆者の問いの立て方も計算されています。

何度も「〇〇か、△△か?」と書いておきながら、

結論はどちらでもないオリジナルなものであるわけで、

より自分の答えが際立つ書き出しをしていると感じました。

 

新書であり、三つの中で最も読みやすいと思います。

 

作者は近年騒がれている「コミュ障」問題への解決策を斬新な方法で紹介しています。

 

特に面白いのが第6章です。

 

飛行機で隣の席の人に話しかけるか話しかけないか。

これに対しグローバル化が頭にあると、すぐに欧米式に

「フレンドリーになった方がいい」なんていう人が続出し、

「初対面の人とうまく話せる方法」なんていう本が何十万部も売れたりする。

いや、そうじゃないだろ。単なる文化の違いだろ。

それならば隣の人が本を読んでいたら気を遣って自分も静かにする、

という文化も認められていいはずだ。

 

「コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派はこうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない。」(p.148)

 

本当にこれに尽きると思う。

どちらかが絶対的に良いということはない。

ただ、知っておいて自分なりに時と場合によって取り入れたらいいと思います。

ここが中間のいいところで、どちらでもないからこそどちらにもなれる、というかね。

 

・・・と書いてみると自分がいかに良くも悪くも中間にいるかがわかります。

でもそれでいいと思います。

それと同時に、この「中間で良い」という考え方も常に揺れ動くべきである、

とも思っています。

 

はー長くなってしまった。

常に入れ替わりつつも30冊くらい家に本があるのに全然紹介しきれない。

明らかに後半にエネルギーが足りていないのですが、まあ良しとしましょう。

読むだけじゃなく自分で書くとなると大変ですが、

ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました!