キヨカのブログ

半永久的夏期休暇自由研究

土曜日のシミット

あなたは世界を変えたことがありますか?

 

私はあります。

 

最近、「同じものでも見方を変えると違う風に見える」という考え方を耳にするが、そういうのではなくて、本当に私はある。

 

 

今私が住むオランダの街には水曜と土曜に市場が開かれる。

 

野菜や果物、チーズなどが多いが、雑貨なども乱入しているので出店の基準は未だ謎である。

 

到着したばかりの頃はほとんど毎週末行っていた。

 

だいたい毎回同じ店が構えているが、売りものは変わるし掘り出し物もあるからだ。

 

1ヶ月か2ヶ月経った頃、私はこの市場で奇跡の再会を果たす。

 

そう、私はシミットに再会したのだ。

 

トルコの国民的パンである。

 

ドーナツのような形をしているが、れっきとしたパンである。

 

なんならドーナツがシミットを真似したのではないか?

 

パンといってもおそらく油などがふんだんに使われているのでヘルシーには程遠い。

 

ヘルシーで美味しいものなんてないからいいのだ。

 

まずシミットが人を惹きつけるのは、その形だろう。

 

あらゆる点で似たものとしてプレッツェルがあるが、シミットはそんなひねりさえも効かせていない。

 

丸だよ、だからどうした、まずは口に入れてみな!と強気である。

 

ちなみに値段は道端で売っていても一リラ(2015年当時は約五十円)くらい。

 

オプションでチョコかチーズをつけられるが、まずはそのまま食べてみてほしい。

 

どう食べるか、というのも問題である。

 

ドーナツよりは大きいので、両手で持ってがぶりといくと大きな穴の中に顔を突っ込む形になり、勢い余ると目や鼻にぶつかる可能性がある。

 

そしてごまがまぶしてあるので、口の周りに付きやすい。

 

歩きながら食べているときは要注意だ。

 

カモメもあなたのシミットを狙っていることがある。

 

第二の方法というよりも主流はちぎりながら食べる、というもの。

 

この良い点は先述したトッピングをつけやすいことにある。

 

あと言うまでもなく見た目が上品だ。

 

シミットのトッピングはかけるものではなく、給食などで配られるようなプラスチックの小さな市販のソースであり、ディップするものだ。

 

これを毎回ちぎるたびにソースが毎ちぎりことに平等につけられるよう非常に気をもむ。

 

サイズにも問題がある。

 

一個だと少し物足りないが、二個目は直後に食べたくない。

 

二人で分けるには絶対足りない。

 

友達とかには絶対あげたくない。

 

自分で買ってください!と怒りたくなる。

 

ちぎる大きさで私のケチ具合が相手にわかってしまうのも嫌だ。

 

そうなったらやはりかぶりついて分ける隙を与えない、と言うのも一つの手だ。

 

 

 

こんな絶妙さにやられ、私はシミットの虜になった。

 

朝ごはんからおやつまで万能である。

 

しかしながら日本で手に入るはずもなく、帰国後は他のトルコ食品ロスを含め非常に苦しい思いをした。


そして私はなぜかオランダにいる。

 

日本よりは近く、移民も含めてトルコ人口は多い。

 

トルコ語もよく聞こえる。

 

それでも、ケバブならまだしも、シミットに会えるなんて思わなかった。

 

私はあの懐かしい円を見て、やはりトルコとの縁を再認識してしまったのだ。

 

迷わず大人買いした。

 

三つ!

 

もちろん値段は少し高いが気にしない。

 

購入した場所は常連のモロッコ系のおそうざい屋さんで、よく見たらバクラバなんかもあった。

 

私はその1週間をとても幸せな気持ちで過ごした。

 

2日に一回、ちぎって食べた。

 

かぶりつくなんてことはもったいなくてできなかった。

 

 

そしてまた週末。

 

9時から始まるので売り切れる前にと急いでいった。

 

でも、ない!

 

私は以前シミットの隣にあった普通に美味しそうなパンたちには目もくれず、近くにいた売り場のおばさんに「シミットはどこですかッ」と興奮気味で聞いた。

 

彼女はただの売り子さんで、前回買った時にもいたが値段を知らないほどだった。

 

そんな彼女がシミットの行方を知るはずもない。

 

そもそもシミットとと言う単語を知らなかったようだった。

 

なんとか身振り手振りで伝える。

 

すると「あーあれは先週たまたま売っただけなのよ」。

 

私はそこで諦める女ではない。

 

食べ物の恨みは一生の恨み。

 

これはちょっと違う表現であるし、おばさんとしても怒りを向けられるのは御門違いだ。

 

なぜ私が唖然とした顔をしているのかさえも分からなかっただろう。

 

絶対にトルコ人ではない顔で何を言っているんだこいつは。

 

それでも諦めきれなかった。

 

この時点でシミットがただのパンでないことがお分かりいただけると思う。

 

 

そして次の土曜日。

 

もちろんシミットの姿はない。

 

しかし同じおばさんと目が合い、全く同じ質問を繰り返した。

 

おばさんは今度は私が先週の人物と同じだと気づいたような気づいてないような、「ない」と短く答えた。

 

次の週。

 

ない。

 

「ない」。

 

ない。

 

「ない」。

 

1ヶ月ほど経つうちに、私はこの土曜日の朝の短いやり取りが楽しみになっていた。

 

いや、それは嘘だ。

 

美化しすぎた。

 

なんでもいいのでシミットをはやく持ってきて欲しい。

 

「日本なら…」と言いたくないが、これだけ客が聞いているのに持ってこないってどういうことなのだ、

 

と思う一方、

 

最初の週に「一時的な商品だ」と言われたにもかかわらず毎週、失礼な言い方ではないにせよしつこく訊きつづけるのってもはやクレーマーの域である。

 

この図々しさ、もとい「お問い合わせ」能力は海外生活で身につけた私の一部である。

 

「前にも言ったけど…」というのはたとえ何度同じやり取りをしていても有効ではない。

 

入荷したらお知らせが来るシステムなんてないのだ。

 

それにその言葉を口にしているうちにこちらが疲れる。

 

「ああ、私何回言ってるんだろう」と。

 

だから毎回フレッシュな気持ちで、なにごともなかったかのように粘り強く質問する。

 

そして、同じことを答えられても理由に深く踏み込まない。

 

理由をわかった上でやっているので、聞く必要がないというのもあるし、

 

理由はだいたい「ないものはない」からだ。

 

 

そんなやりとりを繰り返して1ヶ月ほどたったある日、シミットは唐突に私の眼の前に現れた。

 

おばさんは嬉々とした私の顔を見て、あ、と思ったようだったが特に何も言われなかった。

 

私はにっこり笑ってシミットを三つ買いたいと伝えた。

 

おばさんは今までの出来事を思い出すそぶりも見せず、普通の接客スマイルでシミットを包んでくれた。

 

未だに値段は不明瞭であり、他の従業員三人ほどに問い合わせていたことも付け加えておく。

 

おばさんは悪くない。

 

目の前に売っているものを売る、それだけだ。

 

不思議と「勝った!」といったような気持ちは起こらなかった。

 

ただ、わたしのやっていたことが正しかったことが認められた気がしてなんだか嬉しかった。

 

私の周りの世界が私が踏み込んでみたことで、ひっそりと変化したことに少し感動した。

 

それ以降シミットはゴールデンメンバーとして加入し、その形と美味しさからこの小さな町の人々の週末を盛り上げている(はず)。

 

毎週微妙に味と形が異なっていて、そこもいい。

 

今やシミットは私にとっての土曜日の儀式となった。

 

世界を変えてみて、自分の世界も少し変わったことに気がつく。

 

自分と世界が思ったより地続きであったことにも。

 

きっとこの程度のことが世界を変えるし、世界を変えるとはこの程度のことなんだと思う。

 

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...なーんて少しクサいことを言ってしまいましたが、軽く本の紹介!

 

上から

 

トルコ料理の本は多くあれど、意外とパンについて言及されることは少ない。盲点をついたもの、

 

・陳腐なタイトルとは裏腹に各界の研究者がドーナツについてガチトークをする。

 

・言わずと知れた名著!洋書のアートブック的な厚さとサイズ。トイレに置いておきたい。

失われたドーナツの穴を求めて

失われたドーナツの穴を求めて

  • 作者: 芝垣亮介,奥田太郎,北尾崇:デザイン
  • 出版社/メーカー: さいはて社
  • 発売日: 2017/07/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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観察の練習

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