長編が読めない
人間はラクなものに流れる方向にある。
上半期の授業を終えた最近の私が非常にいい例であるが、高い生活費・学費を払ってもらっているにも関わらず、こんな生活を送っているとは口が裂けても言えないほどだ。
さて、私は長編が読めない。
映像でも連続ドラマやテレビシリーズにはまった試しがない。
小さい頃テレビを見る時間が制限されていたことが影響しているかもしれない。
月曜日、ブラックジャックのあとのコナンは見せてもらえなかった。
いや、それかもともと飽きっぽいからだ。
だいぶ前の話になるが、プリズン・ブレイクもプリズンがブレイクする前に見るのをやめた。
ハリー・ポッター、ロード・オブ・ザ・リング、スターウォーズなどなど、断片的には見たり読んだりし、素晴らしいとは感じたものの、一から全部見る気にはとてもなれなかった。
ちなみにゲーム・オブ・スローンズは元彼に「見ないと人生の半分は損してる」と脅されたが、付き合いはじめたときには3シリーズ目などだいぶ進んでおり、当時そんなに一気に見る時間もなければ、よく考えてみれば彼と過ごしていた時間の方が人生において損をしている、と思うに至ったためもちろん見ていない。
強いて「追いかけている」と言えるのは漫画のワンピースくらいだろうか。
でもこれはもはや意地というか執念というか、この作品に魅了されてしまった人の定めだと思う。
ちなみに最近、躍起になってナルトを全巻(72巻)読んでみたのだが、ワンピースとの作品の作り込み方の違いに圧倒させられた。
この二つはほぼ同時に連載が始まったものだが、二つがお互いを生かし続けたのも畑が違いすぎたからだろう。
画のスタイルからストーリー設定まで、何もかも違う。
前者ではあくまでナルトとサスケという二項対立が決してブレない(「もうサスケは諦めたら?」と後半は思うほどだ)一方、後者は内容と仲間と敵と伏線が増殖し続けている。
ワンピースの収集のつかなさに不安を覚えはじめているのは私だけではないはずだ...
作者の頭の構造に私がついていけていないということももちろんあるとは思うが。
それはさておき、振り返ってみると私が今まで紹介している本の中にも長編はほとんどない。
短編集やオムニバスがほとんどであり、学術書でも各章毎に切り口が全く異なっていてこの私でさえも飽きさせないものが多い。
その原点は星新一にある、と今ふと思った。
ちょうど私が小学生の頃に、和田誠が装丁を手がけた非常に親しみやすいショート・ショートセレクションが刊行されたのだ。
本のサイズもフォントも明らかに子ども向けで、学校の図書館にも地元の図書館にも児童書コーナーに置いてあった。
しかし内容は全く子ども向けではない。
私は私の人格の欠点を周りのせいにするのを特技としているが、あんなものを読ませたらすごくめんどくさい奴になるに決まっている。
まず、たいていの内容がSFというのがさらにあざとい。
星新一なんて名前もSFすぎる。
SFを嫌いな子どもがいるだろうか。
また、彼の作品はSF作品に期待されるべきである「異世界に連れて行ってくれる」効果を持つだけではない。
子どものときは異世界に連れて行かれたままだと思い込んでいたかもしれない。
短時間ですぐ酔えるショットのお酒みたいだ、とあの頃とは違い、お酒を知るような年齢になってしまった私は例えるが、少なくともショットのお酒はすぐ酔えて、ずっと酔える。
しかし彼のショート・ショートはそうはいかない(ショットとショート、似ていますね)。
つい読み終わったあとに後ろを振り返って現実を確認したくなる、そんな恐ろしさがある。
そしてパステルカラーとソフトタッチの表紙にそぐわず、意外とアダルトな描写があっても教科書よりも綺麗な字体でゆったりとした字間の中に書かれていると、これはありなのかな、とも思ってしまう何かがあった。
その点ではお酒を飲んでいるのに気がつかない、ロングアイランドアイスティー的な要素にある。
単にお酒の話がしたくなっただけ!
ショート・ショートの他にも、私の射程距離圏内であった小・中学校や図書館はなかなか選書のセンスがよかったと思う。
よりみちパン!セ シリーズ(再スタート、心から嬉しく思います)や、はじめての文学シリーズなど、なかなか粒ぞろいであった。
今でもいつか揃えたいと思っているのはロアルド・ダールのシリーズだ。
「魔女がいっぱい」の映画がリメイクされるらしいが、未だにそんなことが起こるなんて彼の作品ならではだろう。
ロバート・ゼメキス監督はあの作品の魔女たちの皮膚感や、ポップな言葉の中の残酷さを映像で表現しきれるのだろうか。
それ以上に有名で、映像化にも比較的成功したといえるのはチャーリーとチョコレート工場の秘密であろうが、もっと短くてスパイスが効いたものが山ほどある。
小学生たるもの、ダール作品からスラング、いやちょっと背伸びした言葉遊びを学ばずして小学校は卒業できまい。
そして忘れてはいけないのが挿絵画家の存在で、先ほども星新一と和田誠を挙げたが、ティム・バートン(監督)とジョニー・デップ(ミューズ)以上に、ロアルド・ダールにはクエンティン・ブレイクが欠かせないのだ。
これを両方やってのけてしまえるのは、さくらももこと東海林さだお(丸かじりシリーズ)くらいである。
この二人がなぜ私の好みなのか、もうお分りいただけると思うが、二人の共通点は刊行しているシリーズは長いが、作品間の連続性はない。
もちろん一貫したテーマはあるが、さくらももこはエッセイのみならず漫画でさえエッセイ的だ。
ああ、久しぶりに読みたくなってきた...
このように子ども向け(?)の本というのはいつも侮れないもので、タチが悪いのが大人になってある程度お金を持つようになってから大人買いをしたくなる仕組みになっているのである。
漫画なんて、全巻セットでも古本ならば安いものである。
私はもし子どもができたら、ハタチかそこらで狂ったように大人買いをしないために漫画くらいは買ってやろうと思う。
小・中学生の頃お金がなかった私は、しかし古本屋でブラック・ジャックの秋田書店の単行本版は全巻揃えると決めた。
ちょっと汚いものならすぐに百円になるからだ。
手塚治虫は"たくさんの"作品を産んだと言われているが、"細く長く"ではなく"広く浅く"であった。
いや、”広く深く”だ。
それが彼を漫画の神様たらしめた所以であるように思う。
シリーズものでも10巻を超えることはほとんどなく、超えることがあってもブラック・ジャックのようにオムニバス形式となっている。
彼自身のアンテナや知識が網羅している範囲がそのまま作品群に投影されており、様々な入口が用意されている。
そこには性別も年齢も関係ない。
同じ作品を読み返してみるもよし、黒手塚に挑戦してみるもよし。
と、このように飽きっぽいにも関わらず私が本好きを自称できているのは、運よく粒ぞろいの作品に出会えたからだ。
その傾向は今でも変わらない。
留学先でせっかくなので英語漬けの日々...と思ってもやっぱり長編には手が伸びず(ペーパーバックの軽さと厚さのギャップが無理)、今では詩集に手を出す始末である。
サンドラシネオローズの本は詩とはちょっと違うけど、復刊で話題になったマンゴー通り、ときどきさよならを英語で読んでみた。
口語だけど、いやだからこそ、力強い文体だ。
あとカート・ヴォネガットの未発表作品集とボルヘス奇譚集が読みたい!
また、このブログを書く主な理由の一つとして、ツイッターのタイムラインに流れてきた#54字の文学(または#54字の物語)がある。
#54字の物語 pic.twitter.com/m2l1EKm124
— 3万人と不璽王 (@kurapond) July 3, 2018
このプロジェクトはすごくて、私なんかは挑戦してみようとも思わないくらい難しい。
140字で精一杯なのに、54字って...
日本語はインターネット上の言語の多くのパーセンテージを占めていると同時に、英語よりもはるかに少ない文字数で情報を伝達できると聞いたことがある。
とはいえ54字よリも、はるかに少ない文字数で表現する、短歌とか俳句に関しては想像を絶する。
このミニマリズムの傾向は、少なくとも私の周囲では無視できないものとなってきている。
今住んでいるオランダもデ・ステイル、ミッフィー(本名はナインチェ)をはじめとした洗練されたデザインが溢れている(一方で細密画家のような「バベル」のブリューゲルとかヒエロニムス・ボスとかが一昔前に存在していたのがオランダの面白いところ)。
最近会った、私よりも日本らしいお弁当を毎日持参するイタリアの友達にMUJIのアルミ製シャープペンシルを誇らしげに見せられたばかりだ。
何よりも、あの無意味な長編記事が強みのオモコロが文字そばシリーズを導入した背景にはインターネット界のツイッター以上のミニマリズム化の波が押し寄せているのではないのかと疑うほどである。
しかし、人生でいろんなミニマリズムに出会ってきて思うのは、ただミニマルに収まっているだけではダメである、ということだ。
"大は小を兼ねる"ならぬ、”小が大を兼ねる”ものでなくてはならない。
ここで最初の一文に戻るが、長編が読めない私はラクをしている訳ではない、という結論に至る。
少なくとも読書においては!
....というあくまで自己肯定のための文章を書きたかった。
とかいって、なんだかんだ一年くらい続いてるブログ!
このブログが更新できる程度の余裕がある人生をこれからも送っていきたいものだ。
それでは、また!