行為の棚ぼた化(撞着語法)
あけましておめでとうございます!
2019年。
どうも響きが好きではないのですが、始まってしまいましたね。
この時期になるともう抱負を書かなくてはいけないか、年末に振り返りつつ新年に間に合うように発表するそうじゃないですか。
私も毎度遅れながらも割と考えるのですが、でも毎年うまいことが言えない、みなさんと同じ人間です!
今年もよろしくお願いします。
今回は書き留めたい言葉があるので書こうと思いました。
これが結果として抱負や目標になるならそれもいいかな。
というのも昨年後半にかけて精神的ダメージの百鬼夜行が押し寄せ続けていたんですね。
百鬼、しかも毎晩連続で来ちゃうともうどうしようもない。
玄関を閉め鍵を掛け通り過ぎるのを待つしかないんですけど、でもたまに外に出なきゃいけなくて、それでもう絶対エンカウントしちゃう。
これについては現在進行形なので、また全貌が解明してから書こうかなと思います。
今はそれらを妖怪の行進に例えられる程度には回復し戦えるようになってきた、ということだけはお伝えしておきます。
なんで私が選ばれちゃったんだろう〜
年女だから?
月イチ更新を目指していたブログが停滞してしまったのも恐らく妖怪のせいですね。
妖怪、便利!
いや〜定期的に書き続けると言うのは本当に体力の要ることで、すでに他で消耗していると無理なんですよね。
村上春樹が書くためにマラソンしているのがわかりかけて来ました。
それに好きなものや楽しいことを書く場なのに、暗い方向に持って行きたくなかった。
ギャグマンガ家の人たちって、きっと単に面白いだけでなく辛いことでも昇華するスキルがないとやっていけないんじゃないか。
そんななか、先日久しぶりに会った高校の頃からの友人の言葉を紹介・分析したいと思います。
彼女と出会ったのが高校一年生で15〜16歳ですから、それはそれは大昔ですね。
クラスが一緒だったのですが、正直なぜ仲良くなったのかあまり覚えていません。
誕生日だけはとても近くて、高校生ながらに「同じ星座でもこんなに違うんだ...」と星座占いを信じすぎているにしても大きな違いに愕然とした記憶があります。
彼女は優等生の中でもトップクラスで、私は特別にうるさい猿とかだと思ってもらえれば大丈夫です。
これは決して卑下などではなく、当時のクラスメイトにアンケートをとれば全く同じ答えが返ってくるはず。
私はほとんど覚えていないのですが、本格的に仲良くなったのは、彼女曰く「下北沢のエスニック料理屋」だそうです。
私が彼女をこのお店に連れて行ったことで、このときまだ新ジャンルであった東南アジアやインドカレーに足を踏み入れるきっかけとなってしまったらしいのです。
これは責任重大で、というのも彼女はその後大学も東南アジア関連、仕事も一流企業のグルメ系所属という、味覚のエリート街道まっしぐらでここまで来ているからです。
そうなると流石に自分のことでも猿というのは気が引けてきたので、オランウータンにします。
...このように、毎回忘れて、毎回私が訊く「なんで私たち仲良くなったんだっけ?」という質問に彼女が答えるというお馴染みのやり取りを今回会ったときもしていました。
大学入学後はだいたい一年に一回ほど顔を合わせるのですが、
やはり最近は高校時代には想像だにしなかった話が出てくるもので
その都度増す話の重みや深みに「私も大人になったな〜」と振り返る指標となっていました。
今回は私が主に愚痴を聞いてもらう流れになりました。
そうして牛すじカレーを啜りながら身の上話をしたあと、お店を出て次のカフェに向かって歩いていたときに、彼女は言いました。
「きよかも辛いこととか悲しいこととかあるかもしれないけどさ」
ここで私が予測した言葉は、
「お互い頑張ろう」とか、
「きっと今年はいいことあるよ」でした。
恥ずかしながら。
しかし彼女がその次に発した言葉は、
「きよかは私の一部だから」。
私はその一言に非常に感動し筆を取ることになったわけですが、なぜ私はそんなに感動したのでしょうか、というのを以下分析したいわけなんです。
まあそうなんでも分析せずに親友の言葉だと思って素直に受け止めなさいよ、と思う方もいらっしゃるでしょう。
しかしこれが分析結果、私がもっとも必要としていたにも関わらず気がつかなかったことであったと判明したので、書き留めておく必要がでてきました。
感動したことに感覚的に共感できる方もいるかもしれません。
そうした方は答え合わせのような感覚で読んでいただければと思います。
正解なんてないんですけど、もしこれを読んでいる方がいつか誰かに言われたときに湧き上がる感情を理解する手助けになるかもしれないしね。
数週間考えていたのですが、キーワードは「アンパンマン」と「棚からぼたもち」かなと思います。
(これはまた私の大好きな贈与論に突入してしまうんですけど、混みいった話と先祖のネックレスのために何キロも航海する先人たちの話については私よりも何千倍も専門家で大御所である後述の参考文献を読んでいただくとして)
アンパンマンと棚ぼたの共通点は、誰かに利益を与えていますよね。
でも与え方が決定的に違う。
私は彼女の言葉でこれに気が付いたのです。
そもそも、「棚から落ちるぼたもちに意思はあるのか」という哲学的ツッコミが出て来そうですが、それ!そこ大事!
恐らく現代科学の範疇では答えはノーです。
諺のなかでぼたもちは主語として扱われていない。
表現上ではあたかもぼたもちが自ら棚から落ち、人々の口に入っているようですが、解釈としてはあくまでぼたもちを幸運にも手に入れた人間側に焦点が当てられています。
ていうか棚からぼたもちが落ちるって何ごと?
それこそ妖怪のような、超自然的な存在を用いないと説明できなくない?
諺作成者にぜひ聞きたい。
調べていると
「棚からぼたもちが落ちるのを口を開けて待っていた」説と
「口を開けていたらぼたもちが落ちてきた」説が出てくるのですが、
前者はもしそうだったとしても、その一見究極の怠け者に見えて実際全然そうではない矛盾した行動が現在の私の理解の範疇を超えているので、以下後者を支持したいです。
アンパンマンはどうか。
アンパンマンは「困っている人を助けたい」という明確な意思のもと、自分の身を削る英雄です。
ではもらう側から考えたら?
ぼたもちを”労せずして”手に入れた人と違うのは、こちらも明確な意思のもと助けを呼び、助けをもらった。
とてもわかりやすい関係です。
でも、結局どちらも与えている。
お腹が満たされるという点では同じ。
しかもあんこつき!やった!
あ〜難しい意思の話になってしまいました。
これも専門外なので、幾度となく紹介している『中動態』を読んでいただければ。
友達の言葉に戻ります。
ここで私が言いたいのは、おそらく私は彼女にとってぼたもちだったということです。
恩着せがましい言い方をすれば私は彼女に何かを与え、それが彼女の一部になった、というのが通常の解釈なはず。
二者間の関係は矢印で表されるはず。
アンパンマンと彼が助けた人々、という関係と言ってもいい。
でも、私たちの場合それが成り立っていないんです。
なぜなら私は彼女に与えていないからです。
というよりも、私は与えているという意識がなかった、という方が正しい。
だから私は感動したのです。
自らの意思のもとで行う与える行為でしか、人に与えられないと思っていた。
そしてそれには時間を置いて返礼が伴う、と。
贈与論そのものです。
→こう来て
←こう来る。
なんとなく、自分で良かれと思ってやっていることではなくても、なんらかの形で自分の行為が人に利益をもたらすことがあるかもしれない、というのはわかってはいました。
「ありがとう」と直接言ってもらわなくても、私から利益を受けている人がいるかもしれないと前向きになれるというか。
でも言葉にはしづらいというか、言ってはいけないというかそんな気持ちがありました。
でも彼女の一言ですっきりした。
これはおそらく「私にとって彼女は何か」という関係にも当てはまります。
どちらも無意識で始まって、いつしかそれがお互いの自分の一部になっていた。
reciprocal!
だから利益という概念なんて掠りもしないんです。
ここに彼女の単語選びのセンスを感じます。
外部からお肉などの塊を咀嚼して消化する一方的な行為ではなく、成形前の柔らかいパンのタネを捏ねているうちにパンと自分の境界がわからなくなった、そんな感じ。
あれすごく気持ち良いですよね。
しかもどちらかに留まってしまっているのではなく、この交換運動は現在進行形で継続中です。
だから、矢印で表すなら🔁ですね。
動きをたくさんつけてGIFにしたいくらい。
それにしても「一部となる」ってものすごいことです。
彼女が一番すごいのは、ただ私から何かを吸収しているだけでなく、それをきちんと消化しているところ。
これは言い換えれば私が彼女にたまたま消化しやすいものを与えていたからかもしれないし、単に彼女の消化器官が優れていたからかもしれない。
長い時間をかけて消化という行為に向き合っていたからかもしれない。
いずれにせよ「一部」という言葉の裏には膨大な過程を感じさせる何かがあります。
ちなみに私は食べ物でも、知識でも、愛情でも取り入れすぎてパンクすることが多々あります。
ここは欲望に忠実というよりは、感受性が豊か、好奇心と食欲が旺盛に言い換えておきましょうかね。
歩く受容体みたいなんだと思います。
パンクするのもブレイクスルーというか、結構重要な成長の機会だと思うんですけど、立て続けに起こるとどうも難しい。
私は多分それが主な理由でここ数ヶ月疲れていた。
吸収の対義語は消化なんですよね。
発散ではない。
だから取り込みすぎるとあくまで内にしばらくこもっている。
そンな感じで疲れてしまったので、私は「もらう」「あげる」という意識のもとに行う行為をできるだけ減らしていこうと思います。
ブログにしたって多分そういう意識で書いていると私も読んでいる人もつまらないだろうし。
意思伝達の手段として、自分の考えを文章を通してわかりやすく伝えるという技術は磨いていきたいけれども。
実はそこがブログ以上の文の単位(本など)の良いところでもあって、書く側もそれなりに推敲を重ねている(はず)なので、消化する側もそれなりに根気が要る。
そういった時間のかかるコミュニケーションは速度を重視していない分、議論が深められるんではないかなと。
「あげる」ことを意識的に行い見返りを求めないほど私は今のところ出来た人間でもなければ余裕もないし、そういったサイクルに疲れてきてしまった。
解消するにはこの「あげる」意識の低下をしていきたいなと。
そしてそれをこの記事のタイトルのように行為の棚ぼた化と名づけたいと思います。
主体を自分ではなく周りに置き換えています。
私という棚からぼた餅が落ちているんだけれども、私は落としていることに気がつかない。
(すごくアホっぽく聞こえますけど、私実際によく落し物をするのでこれが自分にとってもっとも適切な表現ということに落ち着きました)
行為には主語があると考えられがちですが、この場合主語があるようなないような、撞着語法になってしまいました。
私は何かを誰かや何かに与えているかもしれないけど、そういった意識を常に持つ必要はない。
数とかも数えない。
消化できる人はうまく消化してくれるだろうし、食あたりを起こす人もいるかもしれないけれども。
これを無責任といった言葉で片付けるのは簡単ですが、
少なくとも自分ができる範囲の行動が誰かのためになれば良いな、と思って生きていればそんな悪いことは起こらないのではないか。
5秒ルールみたいな感じで、もう一回拾って自分で食べてしまっても良い。
こうやってくどく書いているのも自分自身を説得させようとしている部分が大きいので、普段から自然にバランスが取れている人は当たり前すぎて読んでいてもわからないかもしれません。
自戒を込めて一言で言うと
「好意でやっても返ってこないことの方が大半だし、気にするな、気にするなら無理してやるな」という話ですね。
少なくとも今のところは私はアンパンマンのようには自分の身を削ってまでできないからです。
前からそうではないかと思っていたけど、認めるのに時間がかかりました。
それに意図的な「贈与」と「返礼」だけでは、やっぱり世界はつまらないじゃないですか。
ここは実はボランティアをしている方に聞きたいところです。
あと個人的に非常にお世話になったけどいまだに理解できない、イスラム教などの「喜捨」の精神がある宗教の方や地域の人と話してみても面白いかも〜
ここまで書いて思ったけど、私は何かを誰かに与えていて、その返礼として友達から言葉をかけてもらったとも言えるのかな。
マイナスが、プラスに...逆もまた然り。
わー贈与の輪から抜け出してぇ〜!
〜近況報告〜
・友達と会った日の帰り道にものすごいボルゾイ、オーラで例えるともののけ姫のモロが、しかも三頭が悠悠と散歩していたので、ありがたい言葉を忘れかけるほどだった。
・スペイン人の女友達と二人でクリスマスイブを過ごし、「飲みすぎて苦しいのでブラを取っても良いですか」と訊いたら「当たり前じゃん、家父長制なんか崩壊しとるんじゃ!」(?)と返された。
・現在のハウスメイトの一人が40代のおじさんなのだが、最初に彼の娘が登場、そして次はオネエの同僚(?)が出てきてなかなか本物に会えないかと思いきや、最終的に出てきたのがボブ・マーリーだった。
周りに起こる現象がすぐに消化できない、あるあるですね!
・参考文献
受容体が強すぎる人は読みやすすぎるのに内容のインパクトがすごいので、オーバーフローしないように気をつけてください(私は一年以上引きずっています)
「かいじゅうたちのいるところ」の怪獣と主人公の関係くらい、人を好きになってみたい
「パンヴェニスト」って汎(パン)・ヴェートーヴェンの人みたい(?)
文中の「滔々と」という表現が素敵。ザ・表意文字と言ったところか。これはいつか使ってみたい
・関係ないけど今読んでいる本
「イミテーション・ゲーム」もう一回見たくなった
もう人が物語なんじゃないか。「利己的な遺伝子」ならぬ、人は物語の乗り物
わたしじゃなくて「あたし」なのがポイント。読書用じゃなくて観賞用のタイプの本です
今年もよろしくお願いしま〜す!
チャイ!