キヨカのブログ

半永久的夏期休暇自由研究

セルフオリエンタル化のすヽめ(拝啓、サイード先生)

最近悲しくなるニュースをよく目にする。

できるだけそういったニュースを取り入れまい、面白い話やくだらない話しか取り入れまい、としている私の耳にでさえも届くのだから相当なのだろう。

一方で、盛んに議論が交わされていてほしい、とも思う。

と書くと事柄をまるっきり他人事として捉えているように聞こえてしまうが、私一人では限界があるので有識者の意見のリツイートやいいね、といったささやかなことでしか参加できない部分があるのも確かだ。

それでも「炎上」で言い表されるような激しいやりとりの応酬を、それこそ対岸の火事を見つめているような気持ちでただ佇んでいるわけでもない。

 

いずれにせよここでは特定の出来事やニュースに関して逐一コメントをするつもりもないし、私はそういった立場の人間ではないと思っている。

立場云々もさておき、ツイッターフェイスブックのように脊髄反射的なメディアではなく、せっかくブログという形を取っているのだから、一次情報を目にしたあと何周かして考えたことを書きたい。

すぐ自分の気持ちを言い表せるようが言い表せまいが、一度自分の中に取り込み咀嚼したあとの意見ならばそれなりの価値があると思っているからだ。

吐き出すのには勇気がいるし、時期も見計らわなければならない。(と思ってボツになっている記事がいくつもありますtbh

 

と、ここまで来てなんだかとても回りくどくて抽象的で申し訳ないのだが、従来の記事を読んでくださっている人であればなんとなく察していただけるように、私は「全ての人に読んでもらって理解・納得される」文章というのを書こうと思っても書ける人間ではない。

極論で言うと「そんな人/文章はいません」となりそうだが、私はその両者からも割と遠いところに位置付けられている方なのではないかと思う。

その特殊性(specificity)(「特別」ともまた違う)が普遍性(universality)と交わる部分もあるし、自分のなかでそれらの琴線が触れ合う距離感やタイミングを見つつ、社会との折り合いをつけていきたいと思っております。

ていうか全員がそうなればいいと思う。

specificity=universalityになったら、すごく楽なのに...

と、今回はなんとなくそんな文章です。

 

タイトルで察した方も多いかもしれないが、ここでは関連してエドワード・サイードオリエンタリズム』を参考に、最近のこの風潮と、私自身での日本国内外での体験について書き連ねたい。

イードのこの著作に関しては学部の時の卒業論文で取り上げたということもあって、一字一句記憶しているとはいかないまでも、図らずもその読書体験は「卒論を提出して大学を卒業するために読む」以上の意味合いを持つことになった。

 

笑ってしまうのだが、私は私がだんだんといわゆる"日本人"に見られなくなってきた、そしてそういった事象を自分なりに整理できるようになった、という体験がここ数年間の間に起こっている。

自ら選んでいるわけでもなく、それが良いか悪いかもわからない。

現在住んでいる国がオランダなのだが、オランダ人に見られるようになってきたかというと、そういうわけでは全くもってない。

 

私は周りの人に「日本人」として分類されなくなってきたか、実際分類できないほどのややこしい(?)存在になってきたといえるのかもしれない。

例えば、初めて会った日本から来た人に日本語で話しかけても「どこから来たんですか?どうしてそんなに日本語が上手なんですか?」と聞かれたりした。

立ち振る舞いや考え方は「ヨーロッパらしく」なってきているかもしれない。

「ヨーロッパらしさ」というのもなんだよ、と思うが。

日本のあらゆる平均に照らし合わせて考えると、体躯からいって身長は高い方、ガリガリではなく、あと日焼けもよくするのでハワイの人ですか、と聞かれたこともあった。

ハワイ、行ったことないです!

 

あとは英語だろうか。

私の英語は日本のアクセントが少ない方で、自分なりにもかなり努力はしているので日常生活・学校生活共に差し支えない。

しかしながら自分の内部から英語に自信を持てた経験が現在進行形であまりないので、お褒めの言葉()をいただいたときは「英語だけじゃなくて、一般的に発音を真似るのが上手いだけです」ということにしている。

その背後にある動機というのは、「British accentに憧れているから」などではなく(そんなアクセントできないし)、英語話者同士ならば日本語英語よりもわかってもらいやすいでしょう、という程度だ。

いや、クソ真面目な完璧主義者なので中学校英語の音読のCD通りの発音しか自分で発することを許さなかった説の方が正しいかもしれない。こわ...

 

そもそも自己紹介で「日本から来ました!!!!!!!!」とわざわざ自分から言う機会も減ってきた。

そのあとの日本に関する質問や感想に答えるのが億劫になってきたというのもある。

何よりも疲れるのが、そういった質問や感想を避けるために自分から予防線を張ってしまうクセがついたことだった。

「英語がうまい」も「背が高い」も、「日本人にしては」という接頭辞なしには成り立たないから、先に自分で付け足してしまうが、その度に「他の人と違うし、違うと思われたい」タイプだなと思われるのもなんだかな、と感じていた。

大方そういうことなのかもしれないが、またそれを他の人に「私はあなたのことわかっていますよ」的に指摘されるのもnone of your business感が半端ない。

違うに決まってるだろッ(みすゞ)

でもその違くなってしまったにしても経緯が色々あるわけで、そこから始めるとなると私にもわからないし、あなたも聞かないでしょう、という。

 

昨年、日本に一時帰国したときも違和感がとてつもなく、終始「久しぶりに帰ってきた」以上のおかしな高揚感に包まれていたことも思い出す。

友達曰く「写真を撮る目線が観光客」だったそうで、そうなるのものなのかもしれない。

視点が新鮮になったからでも鈍ったからでもなく、自分の内側に起因するものではなく周りの全てが「あなたの居場所はここじゃない感」を醸し出していた。

 


そういった周りと自分との折り合いも兼ねて、私は敢えて今自らを描写するならば、「海外在住日本人」でも「日本人留学生」でもなく、「オリエンタル女性」ということにしている。

どこに行っても多分これは変わらない。

常時移行・移動期間ともいえるかもしれない。

一時的に帰りたい場所はいくつかあるんですけどね、落ち着くところはなさそうなんです今のところ。


オリエンタルという単語に関しては、サイードの著作の中で取り上げられている西洋対東洋(オクシデント対オリエント)というのははあくまでケーススタディである。

あくまでポストコロニアル的背景において、前者が後者を一方的に想像し創造した、というだけであって、逆もまた然り(e.g. 先ほどの「ヨーロッパらしさ」など)。

でもより大きな問題点としては、後者がどう描かれようと、当事者たちの意見が反映されなかったこと。

自らを描写する術を持たず、あったとしても考慮されなかったということだ。

 

あれっ!でも待ってください。

私は、私の意思によって自らを「オリエント女性」と描写することに決めました!

だからOrient-と言ってもダブルミーニングなんです、「オリエンタリズムさせないオリエンタル女性」ということなんです。

もちろんこれは周りの人々の言動と環境に伴う自身の変化、と言えば「オリエンタリズムされた」結果なのかもしれないけれど、もうここらへんで自分から言うことにした。

先にやっちゃえばこっちのもんだ、とか言うわけでもなく、性質上こうなることを止められなかったようにも思う。

自然な流れでここに行き着きました。

なのでここいらで自分で言ってみる、そしてそこで内外に起こる変化をまた見てみる。

「異質さ」という意味では、どんな単位のコミュニティでさえ、日本にいたときでさえ、結果論ではあるにせよなんとなく感じていたことなので、もうそういうことなんでしょう。


でも私が言いたいのは、結局、誰にも自分一人で決められることじゃないし、書類一枚でわかるもんでもないし、ましてや他の人にとやかく言われることなんかじゃ絶対ないんですよね、自分がどこに属するかなんて。

私はあるコミュニティにひとたび踏み入れることができればすぐに次の場所を無意識に探しているし、それらなくなったときの予防線を張っているし、落ち着いていることが落ち着かないタイプです。

多分こういう人間はずっとこういう人間なので、これはこれで放っておいてほしいんですけど、ひとところに馴染んでいる人、そしてそういって築き上げた自分の場所を必死に守っている人も放っておくべきなんじゃないかなと思います。

誹謗中傷といった描写だけに留まらず、物騒な行動も目につきます。

私は、そういう人たちこそ自分の立ち位置がわかっていないからこそ、他の人を使っているように思えてならない。

他者のアイデンティティを壊そうとしているようで、心底は全く逆の、自分を中の何かを築きたいという気持ちでいっぱいなんじゃないか。

そうでなければ他の人の主張がすぐ自分の持つ何かの侵害には結びつく、そしてそれを守るために攻撃するという思考に至らないはずです。


こういう時にめちゃくちゃ便利なのが、セルフ・オリエンタル化です。(アジア出身じゃなくても使っておk)

これはもう「私のこと100わかってとも言わないから私にもあなたのこと100理解させようとしないで、ましてやわからないからって勝手に決めつけないでね、決めつけちゃうのも仕方ないけど私には言わないで〜」という、一種の諦めという名の寛容です。

「わかるわけないっしょ(^^)」という。

私も私のことわからないし、周りにどう見えているかもやっぱり言動だけでもわからない。

でもその引っかかる何かの答え合わせ(自分用)のために、目の前にいるパッと見わかりにくい人をわざわざ利用する必要があるのかということ。

自分自身のわからなさを他者に投影しないでね。

わからない恐怖症なのかな、とも思いますが、わからないことってそんな苦しくないですよ。

想像力と優しさで、少なくとも人間関係に関してはなんとかなる。

なんとかしたいならの話ですが....

でも勝手な想像をもとに創造しないでほしい。

結構傷つくしめんどくさいんですよ。

「あなたは○○だから」とか言われるの。


こっちに「アメージングオリエンタル」っていうスーパーマーケットがあるんですけど、もうそれでもいいな....

世界のみんなが当事者さえわからないことを他の人がとやかく言わなくようになるなんて、ミラクルでワンダフルでアメージングでしょ。

これで最初に戻るんですけど、個々のspecificityを万人が理解しているという普遍性(universality)が地球という惑星としてのゴールなんじゃね?

 

まあでも私は最近宇宙人っぽい模様の服や、四つ目になるフェイスフィルターが個人的ブームなので、もはや地球を後にする日も近いのかもしれません...なんちゃって。


うん、本当は今月他にもネタの候補があり下書きを書き連ねたりしていたのですが、厳正な選択の結果、一時間ほどで思い立ちババッと書けたトピックにすることしました。

公開日8月31日って設定できるけどもう九月始まってるし笑

はてなブログの設定変更チート術です。

 

でもこのトピックに関しては小さめながらも各記事で触れてきたことのようにも思えるので、一つの記事にできてよかったかも。

って、卒論書いたのがもう二年ほど前になるけど、まだ考えさせてもらってます、サイード先生。(タイトルに合わせて最後だけ無理やり手紙風にしちゃった)

どうでしょう。

 

オリエンタリズム』に関しては世界一平凡な名前なのにクラシックではあるけれど決して内容が平凡ではない本を出版することでお馴染みの平凡社様から上下巻文庫で出てますが、時間がない方はこれの要所をうまく引用している自分のトピックに合った論文から逆算して必要箇所をまず読んでみることをお勧めします。

日本語でも英語でもいっぱいあります。

でもサイードはやっぱり文体もかっこいいので、そういうのも愉しみたい、論文の締め切りなどに追われていない、時間的にも精神的にも余裕がある方はじっくり読んでもいいと思う。

 

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https://www.heibonsha.co.jp/book/b160202.html

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https://www.heibonsha.co.jp/book/b160203.html

オランダも夏の暑さとは打って変わって、掌を返すように寒くなり始めましたが、秋は良いですね。

エモいっていうんですか、秋関連の思い出は全部そういうことにして良いと思います。

それでは、また〜