キヨカのブログ

半永久的夏期休暇自由研究

RATatuilleあるいはラタトゥイヤー(ねずみ年ですね)

海外一人暮らしも二年目に突入し、全然そんなつもりはなかったんですけど、やるしかない。
生きていくには食べることが必要不可欠で、その食べるといってもただの栄養吸収じゃイヤで、だからといって学生じゃ毎日外食に行くというわけにもいかない。
 
 
じゃあどうするのというと、自炊ですね。
自ずから炊かねばなるまい。
 
元から料理は苦ではないし、作れる方だとは思っていたけど、その"作れる"にも日本国内の恵まれた条件あってこそだったのだなと気付くことも多々あります。
 
加熱方法一つとっても実家だったらコンロ×4、グリル、オーブン兼電子レンジとトースターとあったわけで、同じ材料でも味が全く変わってきます。
 
こちらはだいたいは共有キッチンで、お味噌汁を作ったままコンロの上に置いておく、なんてことができない。
 
 
あと一番難しいのが量。
 
自分の身長以上の冷蔵庫付きの部屋に学生が住めるなんて稀で、買いだめもできないし、冷凍ご飯だけで冷凍庫はギチギチです。
 
大鍋があって、いっぺんに調理できて1週間食べ続けるのが可能だとしても私には飽きっぽいので難しい。
 
もちろん手に入る食材も違うから、日本でできた料理がこちらでできるとは限らない。
 
日本で激安のもやしや豆腐みたいなお助け食材もこちらでは高価で、お肉もしゃぶしゃぶ用の豚バラスライスなんてスーパーで売ってないし...!
 
 
という環境にいると自然と自分だけのために作るレシピに関してはレパートリーが決まってきます。
 
 
そのなかでもダントツなのがラタトゥイユ
 
いまいちどこで切るのかわからない単語ですが(ラ・タトゥイユなのかラタ・トゥイユなのか)、のちにご紹介するように私が作るのはもう本家がみたらひっくり返るくらい何段活用かした挙句に色以外あまり原型を留めておらず、もはやそう呼ぶべきかわからない域にいるので、大丈夫です。切り方がわからなくても。ここでは。
 
一時期ズッキーニに激ハマりしていたことを除けば、特別トマト味が好きなわけでもないのに、ましてや生粋の米派のジャパニーズでフランスのニース出身でもないのに笑、安心するのですよね。
母がよく作り置きしていたことのもあるのかもしれないけど、冷蔵庫にこの色合いを見ると安心する。
なにせサラダであり、煮物であり、スープであり、ソースですからね。
 
レシピと呼べるようなものでもないのですが、例えば今日作ったのは...
 
・一欠片
にんにく
生姜
 
・各0.5~1個
ズッキーニ(黄)
なす(日本でいう米ナスサイズ)
玉ねぎ(大)
パプリカ(黄)
 
豚バラ 一枚(5mmくらいの厚さ・ベーコンの長さ)
豚ひき肉でもいいです、なんでもいいです
ベーコン・ソーセージなど加工肉でも
 
オリーブオイル
トマト缶
ローリエ(あれば)
醤油
だし
 
で、深めのフライパンで作りました。
 
もう多分わかる人が見たら材料を見ただけでわかるくらいなので書くのも憚られますが
 
にんにくと生姜の切ったのを入れて香り付ける
豚バラとか調理用ハサミで切って一口大かそれ以下で入れる
豚から油が出るので様子を見つつオリーブオイルを足す
野菜は輪切りとか乱切り、パプリカとかめんどくさいのでもはや手でちぎる、大胆に切った方がめんどくさくないだけじゃなく見た目もいい。
玉ねぎ→ズッキーニ→なす→パプリカの順、なすは火が通りにくいので先に少しレンチン
全体に火を通す(ズッキーニとパプリカは少し歯ごたえが欲しければそこまでやらない)
トマト缶を丸ごと入れる
この時点で味見、トマト缶の塩気が強いので「だから『基本の塩胡椒入れなくていいの?』ってさっき突っ込まなくてよかったのか」と自分でちゃんと確認、もちろん足りないと感じたら入れればいい
小さじのコンソメでもう一回味見
今回少し和風にしたかったので私は醤油と液体かつお出汁をそれぞれ一回しいれました
ローリエ?とかわかんないので多分ここら辺で入れる
 
で完成!
 
よほどのことがなければ、とりあえずカラフルな見た目は誰だって合格ライン取れるはず。
作りたてであったかいまま食べてもいいし(私は今日ご飯にかけて食べました)、少し冷まして味を染みさせて冷菜・前菜としても出せます。
夏はかぼちゃとか入れてもきれいだし、根菜系は基本的になんでもいけます。
 
冷蔵保存で4-5日?は持つので、パスタにかけてもいいし、パンに乗せてピザトースト風にもできるし、鍋に入れっぱなしで火通さないととなったらカレールー入れてもいいし、水足してスープにもできます(一人分だけでも)。
トマト味ということもあってチーズと基本的に相性がいいので、合わせるチーズを変えるだけでも印象が変わるはず。
 
あと生のトマトが嫌いでもトマト味が嫌いっていう人があまりいないのと、ベジタリアンヴィーガンの友達がいたらお肉とか抜きでも作れます(ていうか本来そうらしい)。
 
 
とかひとしきり書いてみたあとで『レミーの美味しいレストラン』の原題がRatatuille(ラタトゥイユ)だったな、と思い久しぶりに観たら出てきたラタトゥイユがとんでもなくおしゃれだったので、レミー(主人公のネズミ)に完敗しました。
 
以下は映画を久しぶりに見て思ったことをちらほら。
 
まず食べるという行為について。
 
単に食べるのではなく"味わう"行為ができる稀有なネズミとして(普通のネズミは残飯が主食で、食べ物が見つかればいいレベル)レミーが登場するわけで、そこで鑑賞者の笑いを誘っているのですが、これ、笑っている場合じゃないなと思ったのが同じ人間間でもこれくらい食べ物に対する姿勢が違うことがある。
 
食べる行為は生死に関わっている且つ最終的には個人単位の選択だと思っているので、人の主義嗜好に口を出したくないのですが、私はどちらかというとレミー寄りで、自分が食べて美味しいと感じるものはある程度自分で作れるようになりたいし、いろんな味を試してみたい派ですが世の中どうもそういう人ばかりではないのだな、と思うことが家どころか国、もはや大陸か、を出てみると多々あります。
 
辛口批評家にいざラタトゥイユを出すのだ!となったときにpeasant(農民)のレシピじゃないか!と揶揄されているシーンがある。
でも日本でもよくありますよね、玄米が白米より栄養があると見直されたり、まじ農民なめんなよってわけ。
見た目がファンシーなだけで、意外と材料は素朴、っていう料理もたくさんある。
 
 
あとは英語での言葉遊び。
 
ラタトゥイユ」と聞いたときにRATatouille(rat=ネズミ)みたいだねとリングイネが笑う、ってそんな名前のオメーはくるくるパーマのパスタじゃねぇか、コック帽の中のレミーに髪引っ張られすぎて円形脱毛症になるんじゃねーの?代わりにパスタでも被るの?ねえ?
という感じなんですけど、このなんともいえない無知からくる偏見というか、もしかしたらこんな勘違いから映画のプロットが浮かんだのかな?というのも面白い。
 
あとネズミに関する表現で"rat out"(告げ口する)が出てきて、本当に文字通りというか、「ネズミがいるのを衛生局にバラす」っていうシーンで使われてました。
ディズニーこういうのほんと上手ですよね。
 
アクセントでいうとフランス訛りの英語も聞き取りにくくて絶妙なテイストを加えているのだけど、フランスが舞台で本来登場人物は全員フランス語なはずなのに英語で訛ってるって微妙におかしいなと。
フランスでフランス語で公開するときはどうしていたんだろう?
 
 
とここまできたら私のネズミ体験記も話さなくちゃ。
 
ヨーロッパはゴキブリじゃなくてネズミというのは本当で、どっちの方が嫌ですかと訊かれたらどちらも等しく嫌です。
 
いない方がいいに越したことはないし、それぞれ違う脳の不快指数を司る部位を刺激していて、本当に宇宙ってうまくできてるなと思うくらい。
 
 
今ここで比較することはしませんが、私の経験を二つばかり。
 
先日帰省後キッチンの下段を開けたら乾燥わかめと中華だし粉末の袋に穴が開けられ、中身がマリアージュしてスポンジボブ・ワカメパンツ爆誕しておりました。
粉末の、それこそ一抹の水分を吸い上げたワカメが増えてました。
増えるワカメちゃん....
 
またあるときはうっかり開けっ放しにしていたオリーブオイルのボトルがネズミの入水自殺ならぬ入油自殺場と化しており本当にびっくりしました。
結構大きいのに、ペットボトルの蓋の半分ほどの直径にどうやって入ったのかわからないほど。
 
 
あとは余談オブ余談なのですがラタトゥイユについて書いていて「家族的相似」という言葉を思い出したので書いておこうかな。
 
元は哲学者のウィトゲンシュタインによる分類学的な用語であると記憶しているけど、その応用性は幅広く、文化人類学認知科学でもよく用いられています。
今何も見ない状態で、私の言葉で説明しようとするならば(論文を書くときはやめましょう)、以下のようになります。
 
家族を家族たらしめるものはなんだろうか。
そもそも現代の家族そのものが極めて近代的な産物であることはさておく。
核家族のみに絞ってみても、父と母は法律的に結ばれており、その子どもは生物学的に母親似であったり父親似であったりする。
兄弟は母から生まれ、同じ遺伝子を受け継ぐ。
父と母は共に働き子どもを育てる。
一見至極普通のことのように聞こえるが、分類学的に考えてみると非常にモザイク的であることがわかる。
部分的な要素が最終的に家族を作り上げているだけで、家族は「家族である」こと以外に家族とされているメンバー全てが共有する共通項がないのである。
つまり家族を厳密に定義しようとすると同語反復的になってしまう。
それでもお互いが家族であるという認識がある。
先ほど核家族をあたかも自然に例として述べたが、母子家庭や親戚まで広げた家族、または血の繋がりを持たない家族に関しても同様のことが言える。
 
『想像の共同体』というナショナリズムに関する名著があるが、曖昧な民族内で不思議と連帯意識が生まれるのであれば、それが家族という比較的小さい単位に置き換えても同様のことが起こりうると考えてもいいのかもしれない。
 
話を戻すと、ラタトゥイユは「家族的相似」的に捉えられるといい。
先ほどの適当すぎるレシピから分かる通り、どこで切り取ってもラタトゥイユだし、書いていないものを足してもラタトゥイユなのだ。
流石に"どこで切っても"といってしまうと「玉ねぎのトマトソース炒め」とかまで切り刻まれてしまうとアレなんだが、pre-ラタトゥイユとして捉えればギリギリいける、いや、いけないか、あくまで「ない材料がなくてもそこまで焦らないでくださいね」という範囲内の意味だ。
こんなわけのわからない記事を映えある2020年の1月に読んでいる人のなかで、そんなところに揚げ足を取ってくる人はいないだろうが、一応ね、一応。
 
こういうレシピは楽だ。
都合がいいから名前はそのまま使い続けられるだろうが、原型にこだわる必要はない。
ラタトゥイユ”風”みたいになってしまってもいい。
 
 
一人で自分のために作る分には、そこまでこだわらなくていいんじゃない?
この「こだわる」にも語弊があって、必ずしも時間をかけたり選び抜いた材料を使用することだけがこだわりでなくてもいいだろう。
時間をかけず、あるものを使うことが一種のこだわりと呼べるときもあると思う。
前にも書いたかもしれないが、improvisationとopportunisticは生きる上で常に携えておきたい考え方の一つだ。
とかいっておきながら私はどうしようもないところでどうしようもなく完璧主義なのだが、そのどうしようもなさを見直すために、定期的にラタトゥイユを作ることにする。
 
 
 
 
 
関連記事や本など

dailyportalz.jp

↑こういう記事があるからインターネットはやめられない。

omocoro.jp

↑古き良きテキストサイトっぽい記事...

 

f:id:heavyd:20200123053423p:plain

http://www.littlemore.co.jp/store/products/detail.php?product_id=977

↑按田さんにとってのチチャロンが、きっと私にとってのラタトゥイユ

 

f:id:heavyd:20200123054117p:plain

https://www.shinchosha.co.jp/book/507031/

 ↑え、新訳でたの?分厚くない?と思ったら新訳なんだけど、私が読んだことがあるのは『味覚の生理学』だけ?だったのかな?わからない。数年前になんとなく大学の図書館で手にとって読んだ感想はプラトンの『饗宴』までではないにせよ、タイトルからの話の逸れ方がすごいな、だった。食事に関する話って、単に食べ物の話だけじゃないんですよね。

 

f:id:heavyd:20200123054712p:plain

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309028309/

↑日本に帰省中、 どの本屋でも割と目についたので待ち合わせ前に「生命式」だけ読みました。装丁から「あ、人が殺されて食べられたな」と瞬時に内容にリンクできるのがいい。私の生命式を行うなら、そうですね、できるだけ美味しく食べてもらいたいのでまず普段からの食事に気をつけます。同じ死を見据えた生き方でも、焼かれるだけのお葬式とは違くなりそう。

 

f:id:heavyd:20200123055542p:plain

http://www.osaka-up.or.jp/books/ISBN978-4-87259-470-6.html

 ↑これずっと読みたくて、タイトルだけ頭に残っていたんだけど見かけたので買ってきました。文庫本でめくっているだけの段階ですがどうしようもなく面白い。穴を持って生まれてしまったばかりに俎上に上げられたドーナツが気の毒。

 

本の画像サイズの変更の仕方がわからないので、紹介する本がだんだん大きくなっているように見えますが、たまたま選んだ順番に大きいだけで私のせいではないです。

読み込みに時間がかかったらごめんなさいっ