おどろくことに、わたしはまだイタリアに行ったことがない。
考古学をやっているとローマだ
ポンペイだブルータスお前もか、オレもだよ、というかんじでまわりの人はだいたい行ったことがあるし、考古学なんぞやっていなくても食べものや気候だけでも十二分に魅力的な土地であることは確かだ。
でもやはりパリ・シンド
ロームというものがあるように、ヨーロッパのメジャーな都市というのは憧れがつよい反面、旅行代理店やインスタグラムでさんざん脚色されているせいか行ってがっかりという感想も聞かなくはない。
いずれにせよいろいろ落ち着いたら絶対に行くのだろうけど、いざ行くとなると徹底的に計画を練って念入りに要所要所を攻めまくる者としては、きっちり、時間とお金はもちろん、全方向に万全を期した状態で臨みたい、と思ってなかなか行けていなかったところに
パンデミックときた。
『コルシア書店のなかまたち』という書名を数年前で見かけたとき、わたしの頭のなかの本棚では勝手に「本屋さんが勧める本屋さんについての本」というコーナーに配置されていた。
知った当時はヨーロッパに住んでおらず住むことになるとも思わず、一時期非常に人気を博しわたしもしっかり通読した『世界の夢の本屋さん』
*1などの写真集に出てくる書店たちのように、フォトジェニックな地中海の本屋さんについての陽気な本なんでしょう、とたかを括っていた。
恥ずかしながら書名もうろ覚えで、コルシ"カ"だと思っていたくらいだ。
いわゆる"ヨーロッパ"が近現代の書店=カルチャーの発信地になりえた(またはそのイメージを構築できた)のも、教会をはじめとした建築物の寿命が長くゲルマン語・
ラテン語源での書籍の流通が世界の圧倒的多数を占めている現在を含めたほんの数世紀のことにすぎず、紙としての書籍の歴史は他の主要な発明と同様、広義の意味でのアジア発なわけで...などと今となっては複雑な心境なのだが、『コルシア書店の仲間たち』はそういった疑問が浮かぶこともないような、とことん人について書かれた本であった。
まず、舞台が
コルシカ島でもなく笑、みんな大好きローマでもなく、ミラノ。
聞いたことはもちろんあるけど、"ファッションウィーク"と"
サイゼリア"(ミラノ風ドリア)という二つしかなく且つ両極端(?)なイメージのせいで
脳内のメトロノームの針が振り切れてしまいそうになる。
でもそんななけなしのイタリア知識をひっぱりだすまでもなく、ほんの数ページで著者である
須賀敦子の世界観にのめりこめるのは、他でもないよそ者として、しかししっかりその土地に住み着いた等身大の言葉たちのおかげであろう。
ヨーロッパにおける"ガイジン"としての須賀の経験値の足元には及ばずとも、共感する人は多いはずだ。
11年にわたるミラノ暮らしで、私にとっていちばんよかったのは、この「私など存在したいみたいに」という中に、ずっとほうりこまれていたことかもしれない。なかなか書生気分のぬけない私にとって、それは、無視された、失礼だ、という感想にはつながらなくて、あ、これはおもしろいぞ、いったい彼らはなにを話しているのだろう、と、いつも音無しの構えでみなの話に耳をかたむける側にまわった。当然、それは私が彼らの会話の深みについて行けなかったからでもあるが、私を客扱いにして、日本人用の話をする人たちのなかにいなかったことは、私のために幸いだった。*2
異国に住んでいて困ることの一つに「ほっといてくれ」と「無視するな」のバランスやタイミングがことごとく合わないなと思うことが多々あるが、根底にある理由は同じで、たんに外国人だから、ということが多い。
極端な例を挙げると"外国人だから"不必要に注目を浴びることもある一方で、"外国人だから"その土地の人々が当然のように享受しているものが回ってこなかったりする。
外国人として、外国人のまま住むうえで本来的に正当な扱いを受けられる場所、というのは突き詰めると世界のどこにもないんじゃないか。
悪気のない「特別扱い」も、される側にとっては明らかな害はなくともやはり通常とは言えず、もどかしさがつきまとう。
このコルシア書店でのほっとかれている心地よさを須賀が感じることができたのも、さまざまな居心地の悪い「特別扱い」を受け、当時のイタリアの人々が持つ日本に対して持つ
ステレオタイプをさんざん目の当たりにしてこそ、である。
彼女がよく接していた貴族的身分の人々や詩人など、いわば品も教養もあるはずの層の悪気こそないにすれ偏見に満ちた発言を受け「日本などという(のは)彼らの文化の伝統と何の関係もない国(だから)」
*3と、その場の会話に参加していながら頭のなかで地球儀を回してしまうのはさみしくも、決してめずらしいことではない。
立場が逆転することだってある。
日本に帰国後自らがもてなす側になり、「東京の道路の覚えにくさや、物価の高さ、日本語の難しさなど、あたりさわりのない<外国人用の>会話」
*4をせざるを得ない場面も多々あったことだろう。
ガイジン同士のコミュニケーションにおいて、
母語ではない言語を交わし始めるまえに、話す内容が限られてしまっていることはすくなくない。
これにかんして日本人は、良くも悪くも一流であろう。
そこを受け手として「おもてなし」ととらえるか「排他的」ととらえるかは意見がわかれるところだ。
須賀は日本の「ゆきとどいた」もてなしを、「どこか
形式主義的」と、イタリアの友人たちから受けたものと対比する。
*5
ガイジンとして、ガイジンたちと接しながら須賀はひたすらミラノをはじめとする西欧を見つめ、自己を見つめつづけた。
普段は音のやわらかさで定評がある日本語だからこそ、カタカナ表記でさえこのガイジン、という言葉のとげとげしさには目を見張るものがある。
内と外の地理的境界線がはっきりしすぎている国ならではの表現かもしれないが、さまざまなバックグラウンドを持つ人々を十把一絡げにするだけでなく、自らが外に出ない限りなりえない人の立場になってみる、という想像力を一気にかき消してしまう可能性をはらんだ非常に危険な言葉でもある。
なによりも悲しいのは、自らも外国にいるときにその言葉で土地の人と自分の距離感を決めてしまうことだ。
イタリアのなかの日本人、という意味では大多数の周囲から見た自己はガイジンである一方で、自己を中心として周りに接する場合、彼らもガイジンとして定義されてしまう。
この言葉ひとつで簡単に分断されてしまう二重の周縁化構造には、しかしあまりにも単純明快な二単語(外+人)では表しきれない残酷さがある。
だが、その外部者としてだからこそできること、というのがあるのも間違いない。
「
日本人とヨーロッパ文化の出会いの究極の形」
*6と、日本
近代文学全集の編者、且つ須賀とも個人的交流があった
池澤夏樹は彼女について語っている。
須賀がヨーロッパに長期滞在するのはじつはフランスのパリが最初であり、そのころから彼女は言葉だけでなく体もつかい、滞在先の土地と自己の距離をはかっていた。
このころ、私はパリの街をよく歩いた。自分にとってまるで異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、
じわじわとからだの中に浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手にあちこちと歩いた。
*7
わたしは天下の
Google Mapを以てしてもなぜか示し合わせたように道に迷う人間なので、
GPSなしに紙の地図を見て歩き回るというのが非常に不向きであることを重々承知したうえで、見知らぬ土地では目的地を決めずに歩き回るのが好きだ。
興味深いことに、自分の足でも乗り物でも(安全に)楽しめる都市、というのはじつは世界にそんなに多くない、ということを知ったのは東京を出たあとだった。
二本の足で歩き回る、 というのは身体的に地理的感覚を拡大するもっとも基本的な方法の一つであるいっぽう、徒歩○○分などといった単位に換算し、規定してしまうことでもある。
この都心の小さな本屋と、やがて結婚して住むことになったムジェッロ街6番の家を軸にして、私のミラノは、
狭く、やや長く、臆病に広がっていった。パイの一切れみたいなこの小さな空間を、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、自分のミラノはそれだけしかなかったような気もするし、つきあっていた友人たちの家までが、だいたい、この区画にかぎられていたようにも思える。たまに、このパイの部分から外に出ると、空気までが薄いように感じられて、そそくさと、帰ってきたような。経済的に余裕がなかったせいなのだろうか。好奇心が足りなかったのだろうか。いずれにせよ、私のミラノには、まず書店があって、それから街があった。
*8
よくガイドブックなどで厳密な地理適距離とは無縁に名所などがイラストで配置され、おすすめのルートが旅程を組むうえでの参考として紹介されているものがある。
個人的には難解なふつうの地図よりこちらの方が好みだが、須賀の知覚にはそういった意味での限定された視線とはまた異なるものがある。
文章を目で追っていると、自虐的に自分の行動範囲の狭さを述懐しつつも、その小さなパイの中身はさぞかし豊かだったことがうかがえる。
「まず書店があった」なんて、聖書の書き出しじゃあるまいし大げさな、と思ってしまうが、これほど彼女と書店の関係を言いあらわせる表現もないだろう。
須賀はこういった人をはじめとした近くのものを見つめる視点がよく評されるが、日本対ヨーロッパ、などといった単位をズームアウトして語ることもできる、いわば顕微鏡だけでなく望遠鏡の名手でもあることも強調されるべきだ。
近年になって国家の概念が大陸とそこに暮らす人々の心をずたずたにひきさいてしまうまでのヨーロッパは、ことばや、川の流れや森の広がりなどによって、今日よりはもっと(政治的ではないという意味で)、自然な分かれ方をした土地だった。どこの国の人間というよりは、どの地方の言葉を話すかのほうが、たいせつだったにちがいない。
*9
歴史の教科書もこれくらい抒情的であってもいいのではないか。
時系列に並べられ簡潔に記される"史実"としてだけでは表せないなにかを須賀はていねいに拾いあげ、日本語で記述する。
今でこそイタリア文学者として知られている彼女だが、そのイタリア行きは運命的であればこそすれ、気まぐれでもあり、本人もそれを認めている節がある。
でも運に命をゆだねられるのも、自らの身体感覚への素直さあってこそである。
夏休みには、イタリアに行ってみよう。そんな考えに私はたどり着いた。自分の中で育ちたがっている芽がいったいなんなのか、それを見きわめるためには、化石のようなアカデミズムにがんじがらめになって先が見えないままでいるよりは、もっと自然にちかい状態に自分を解き放ってみたい。あたらしい展開をとげるためには、強力な
起爆剤が必要なようだった。イタリア語を勉強することによって、なにかが動くかもしれない。
*10
どこかの国に行くのに大それた理由がいることはあまりない。
大いなる野望を持って計画を練りに練ったところで思い通りにいくはずなんてないのだが、それでも移動してみるだけで自分を良い意味での野生の状態に持っていけることがある。
里帰りという移動が人を原点に立ち返らせるのとは似ているようで少しちがう。
踏み入れたことのない土地がもたらす変化というのは予測がつかず、確信をもつ要素なんでないはずなのだが、それでもたまに、ある特定の場所になにかを感じ、信じてみたくなる。
...とかっこよくも表現できるものの、周囲の人々にとってははた迷惑であることが少なくない。(自戒も込めて)
今でこそ"
ノマドワーカー"なんて
カタカナ語が知られているが、彼らのように場所を選ばず働ける、なんて都合の良いものではなく、放浪は
どうにもならない病気、とまではいかずとも性質である。
これに関しては編者の池澤も認めており、「性格の深いところにプログラムされたものであり、
本人にもどうしようもない」もの
*11と捉える。
ヴァガボンドには、ほんとうは一つの処にとまっているはずの人間がふらふら場所を変える、と行った、どこか否定的な語感がある。それにくらべると、
ギリシアに語源のあるノマッドは、もともと牧羊者をさすことばだから、もっと高貴なんだ。ノマッドには、血の騒ぎというか、種族の掟みたいなものの支えがある...
*12
須賀の
ノマド的気質はフランス時代の友人であるベルギー人のシモーネによって指摘され、その後亡き夫であるペッピーノにもそう思わせる何かがあったようだ。
彼女はちかい人たちの「どこかに行っておいでよ」
*13という言葉に背中を押されつつ、脱皮するようにたびたび「
何か重たいセーターを、旅先で脱ぎすてて」
*14いたようだ。
しかしそんな気分転換として旅行があったとしても、不安定な
一留学生として日常的な自問自答をうながす根本的苦悩からはなかなか逃れられるものではない。
なんのために勉強しているのか、あるいは、将来、どんな職業を選ぼうとしているのか、扉を閉めたままで回答をおくらせて、ぐずぐずしているじぶんが、もどかしかった。その扉を開けると、たとえば、じ
ぶんの価値を厳しく決めてしまう<他人の目>のようなものにわらわらと取り囲まれるのではないかと、そのことが怖かった。
*15
海外にいること=他者であり続けることの苦しさとは、その土地の価値概念と自国のそれの板挟みになることだ。
ここでも他者で、でも今ここにいる時点で自分の国にとってもよそ者。
先ほどの二重構造に加え、されにもう一つ、層が加わってしまった。
日常的な<他人の目>と、自国の視点から自己を他者化する目に、須賀も苦しんでいたのではないだろうか。
価値というのは通貨と同様、標準化されているからこそ参照され共有されるものであり、それが複数になると混同することはあれど、それぞれから"いいとこ取り"できることは少ない。
アイデンティティの崩壊だって起こりうるし、物理的な移動よりも精神的・文化的な移行というのは想像以上に時間がかかる。
かく言うわたしは過去5年間、カルチャーショックと
カウンターカルチャーショックのどちらかに常に悩まされている気がする...
須賀はそういった内外の圧力を、どう克服したのだろう?
イタリア、さらにはコルシア書店との出会いが彼女の人生を決めた、と言ってしまえば簡単だが、書店そのものが活発であった時期も、そこに須賀が直接関わったのもほんの数年ほどであり、彼女にとっても書店にとっても中心的役割を果たしていた夫の早世を考慮すると、どちらかといえば「書店は、もう彼女にとって英雄たちの戦場ではなくて、
避けるわけにいかないだけの、だれもが人生で背負っている、ふつうの重荷」
*16に早い段階でなってしまっていたはずだ。
物質的には貧しいながらも夢のようなひとときが過ぎ、若かったころの"自分探し"とはまた異なる種類・段階のなにかに悩まされながらも晩年書き連ねたのがこの数々のエッセイなのだろう。
各編に通底する過去へのまなざしを裏付けるものに、夫を含めた登場人物たちのさまざまな死がある。
そこにあるのはときには現実的で、ときには想像上の自己対他者ではなく、抗いようのない生と死という対比である。
『コルシア書店の仲間たち』が完成しつつある手前で、書店の創設者である
ダヴィデの訃報を受け、「本の結末を、著者が書くのではなくて、事実が先取りしてしま」
*17った衝撃が、その後エッセイを書く上での今は亡き仲間たちへの姿勢を決定づけたのかもしれない。
少なくとも「コルシア書店の仲間たち」をはじめとした池澤編集の『
須賀敦子』に収録されている作品にはふしぎと"夫の死"を中心的に取り上げたものはないが、それは死というある時点での出来事よりも、彼との思い出を書き手である自分、そして書店という共同体の一部として取り上げつづけたかったからかもしれない。
しかしながら美しい生前の思い出だけでなく、彼の死後とり残された自分にも向き合う瞬間は往々にして立ち現れる。
夫を亡くして現実を直視できなくなっていた私を、
睡眠薬を飲むよりは、
喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ、と私をきつく戒めたガッティは、もうそこにいなかった。彼のはてしないあかるさに、わたしは打ちのめされた。
*18
精神を病み入院している旧い仲間を目の前にして、彼のなかにある夫の死にさえも向き合わなくてはならなかった。
夫の死後、追い討ちをかけるようにして亡くなった須賀の父親の最期にかんする一編では、打ちのめされていたはずの出来事に「誠実に悲しんだ」先の喪失の受け止め方がやさしくもさっぱりとした形で書き表されている。
*19
冒頭にもどろう。
わたしはまだ、イタリアに行ったことがない。
行ったことがないけれど、単純に行きたくないから行っていないわけではない。
この妙なイタリアへの距離感と片思いは、須賀が
ギリシアに対し抱いていたものと似ていることを発見しなんだか安心した。
ギリシアが怖かったのかもしれない。
アクロポリスの太陽にきらめく神殿を見てしまったら、それまでじぶんが大切にはぐくんできたイタリアが、音を立てて崩れるのではないか。
じぶんなりに構築してきたつもりの文明の流れへの理解を、もういちどゼロから築きなおすことになりはしないか。そんな気持ちが私を
ギリシアから遠ざけていたのは、ほんとうだ。
*20
この須賀のなかのイタリア対
ギリシアは、わたしのなかではトルコ対イタリアに置き換えることができる。
トルコの広大な土地に張り巡らされた重層的な歴史には舌を巻く。
先史時代から
オスマン帝国に至るまであらゆる歴史的事件に最高の立地なのだ、一生かかっても全てを理解し尽くすことは不可能であろう。
でもイタリアはどうだろうか、揺るがされたい気もするし、そうでない気もする。
いずれにせよ、行ってみなければわからないことだ。
<参考文献>