キヨカのブログ

半永久的夏期休暇自由研究

秋に参加したWebinarのメモ Hagia Sophia/Mieko Kawakami/Anti-racism

2020年は"remote"という単語に辞書上の定義以外の意味やconnotationが付加されていった一年であったように思う。

そろそろ今年も終わりを迎えつつあるが、暦上の区切りが果たしてこの途方もなさからどれほど私たちの気をそらしてくれるのかはさておき、私は最近になってやっと、少なくともremoteに関しては良い面も少しずつ見出せるようになってきた。

 

そのひとつに世界中のonline conferenceへの参加の敷居が下がったことが挙げられる。

 

思えば学部時代も今年大学院を卒業したライデンでも、ほとんど毎週のように大学で開かれる何かしらの講演会に参加していた。

(こう書くと積極的で真面目な学徒だった思われてしまいそうだが全くそんなことはありません)

早稲田にいたころは門を囲む美しい毛筆の立て看板を横目に登校しながら、目に入ってきて面白そうなものには気軽に覗きに行っていた。

とにかくキャンパスが大きくビルの数も多いのと方向音痴も相まって主催場所にたどり着けないこともあったが、そのときはそのときで別の面白そうなものに出会う。

大学というものはそういうふうにできている。*1

 

ライデンでも私がいた考古学学科でももちろん、Humanities(人文学科)主催のイベントもとても学際的で興味深いものが盛り沢山だった。*2

こういった情報は構内のポスターで得ることもできるが、ほとんどがFacebookでも告知されており、友達が興味を持っていると通知が来て気づくことも多かった。

そして多くの人にとっての一番の目当てはconferenceそのものではなくその後のフリードリンクだったりする。

いくら私自身が酒好きとはいえ学部備え付けのHeinekenのビアサーバーには驚いたし構内が酒臭くなるのはいかがなものかと思ったが、一度酔った勢いで非常に高名な文化人類学者のPhilippe Descola先生(ものすごく簡単に言うとNature⇄Cultureの研究をされている方)に話しかけることができたので、もう思い残すことはありません。

 

 

 

以上はconferenceが特定の物理的な場所で開催されていた、文字通りtake "place"していた頃のお話。

講演会や学会というとただlecturerが壇上に立って耳を傾ける聴衆がいて、という漠然としたイメージを持っていたが、こうして思い起こしてみると耳や目以上の身体的情報や感覚を知らず知らずのうちに駆使し刺激を受けていた場であったことがわかる。

私はもう見知っているはずのキャンパスで迷子になることもないし、構内でビール瓶につまづくこともないのか...と思うと少し寂しい。 

 

一方で、remote化はacademiaを停滞させるばかりではない。

 

思った以上に世界単位でのオンラインへの移行は早く、時差の壁さえ乗り越えればパソコンひとつでどこのイベントにも参加できるようになった、というのは一学会ファンとして素直に喜ばしい。

 

私は秋から晴れて学生ではなくなってしまったが、それでもやはり興味・関心事として学術的な情報は流れてくるし、意識せずとも関わりは保たれていくように思う。

 

...というわけで前置きが長くなってしまったが、以下ここ三ヶ月でremoteで参加したなかでも特に楽しんだwebinar(この造語はあまり好きではない)を選び、講義録的なものを残してみたい。

というのも内容がとにかく豊富でまだ消化が完全に終わっておらず、とりあえず取り込んだ情報のメモを読み返して書き写してみつつ、現時点でもどういったものに発芽してゆくかを見てみたいと思ったからだ。

以下は目次で一応時系列なだけでそれ以上の意味は今のところ特にない。

 

 

 "Hagia Sophia: Perspectives from Cultural Heritage" Cornell University, September 19, 2020

アヤソフィア(ハギア・ソフィア)博物館が今年の夏にモスクに"戻った"、というニュースがトルコ国内だけでなく世界中のheritage関係者を揺さぶったことは記憶に新しい。

この動きはいくら老獪なエルドアン首相を以ってしても一朝一夕に成し遂げられるものであるはずがなく、21世紀初頭から動きはあったようだ、イスラム教のみならずキリスト教側の方からも。*3

2013年に一旅行者として、2015年に一留学生として何度もアヤソフィアを訪れた私はそんな水面下の動きなど露知らず、古今東西の旅人に踏まれすべすべになった大理石の床を踏みしめ、さまざまな言語を話す観光客の声をやさしく包み込む半球状の天井を見上げながら、記憶のなかの世界史の教科書にある歴史的建築物の写真の内部に自分がいることがただただ信じられずにいた。

豊かな文化遺産を誇るトルコにおいてさえ、これほど歴史のが肌で感じられる建物はそうそうない。

 

私はアヤソフィアのモスク化をUNESCOの声明、しかもトルコ側によって既に全てが決定された後で”deeply regrets*4している状態を通して知った。(公的な日本語だと「非常に遺憾」、平たく言うと「激おこ」ですね)

UNESCOという組織やheritageという概念がそもそも西洋由来であり、彼らに非西洋地域の遺産を管理・統括する権限はあるのか?という議論はこれまで幾度となく交わされ、私は自分自身の文化的背景も含めて常に非西洋側の考え語る立場を取っていたが、この件に関してはUNESCOの文言に同意せざるを得なかった。

未だうまく言い表せることができないが、博物館であったあの場所によそ者として訪れながらもなぜかsense of belonging(それも国や宗教単位ではなく人類単位の)にひとたび浸かってしまった身としては、建物の宗教性よりも自身の過去の感動の居場所をつい優先して考えたくなった、というのが本音だ。

そんななか舞い込んできた"Hagia Sophia: Perspectives from Cultural Heritage"の開催決定(しかも事件のたったの二ヶ月後というacademic conferenceとしては非常に早い対応)の通知には驚くとともに非常に安心した。

入室したZoom画面に写ったspeaker陣を見てさらに驚いたのはトルコ人の、しかも女性の教授の割合の高さ。

これは日本同様、学界をはじめとした男女不平等が深刻なトルコにおいて非常に注目に値すべきことであるように思う。

 

Conferenceのテーマ自体も最終的な結論も「モスク化は正しいのか、正しくないのか」ではなく、この事件をきっかけにアヤソフィアを見つめ直す、特に多様性やinclusivenessの観点から、というものだった。

文化的・宗教的な面のみならず長期的に見据えた時間軸に関しても同様で、アヤソフィアは今までも変化し続けてきたしこれからも変化し続ける、2020年のモスク化もその変化の一部にすぎない、というのが総意であった。

それも「もう起こってしまったことだから」という諦めより、この機会を活用し新たな知見を得よう、というポジティブな感情に重点が置かれているものだった。

 

切り口もさまざまで長丁場でオンラインながら飽きることなく聞き入っていたが、特に記憶に残っているのはProf. Bissera Pentcheva (Stanford University)によるByzantine時代のアヤソフィアキリスト教徒による建物内の歌声(chant)と建築構造の関連を指摘したもの。*5

 

Heritageの分野において(in)tangiblity, (in)visiblityや(im)materialityの議論は今に始まったことではない。

目に見えて形あるものが全て」なのか?

答えはもちろんノーである。

例えば民族音楽や口承文学などはいわゆる文字資料や建築物と比較して取り扱いにくいかもしれないが(これも非常に唯物論的なザ・西洋の見方の副作用)、だからといって保護されない理由にはならない。

 

Pentchevaの研究はハードな歴史的建築物として既に名を馳せていたアヤソフィアの見えにくいソフトな部分に切り込み、当時のキリスト教と教会としての建築になくてはならない活動としての聖歌とその建築内での響き(エコー)に着目した。

アヤソフィアは(今となっては)最初のモスク化のときに教会時の偶像が破壊され今でもその状態を見ることができる、という文脈でキリスト教の存在が知られてはいるが、やはりretrospectiveなキリスト教イスラム教の上書き的視点しか持ち得ていなかったことは多くの人が認めるところであろう。(先ほど私が使用してしまった歴史の"層”という表現が良い例である。考古学専攻なもので...地上から地下に掘るもので...と言い逃れできなくはないが、堆積を表記させる表現はdiachronic的・unilineral的な視点に陥りがちである。)

あの美しいドームはアザーンを響き渡らせるだけのものではなく、ギリシア語の聖なる歌が反響するための場でもあったのだ。

 

また、これはちょっとanecdote的だが改めてPentchevaの論文を見直していて邂逅したことをメモしておきたい。

アヤソフィアの面しているボスフォラス海峡とダーダルネス海峡の間の海はマルマラ海として知られているが、その語源とアヤソフィアの建築材料である大理石の関連についてこう説明がなされている。

Form dissolution is also expressed in the aesthetics of coruscating water or marmar- (marmar- is the Sanskrit root identifying the murmur and quiver of the sea) that then enters into the Greek for “marble” or marmaron. In turn, setting the revetments and pavements in wavelike book-matched patterns makes this marmaron conjure the image of moving water. (強調筆者) *6

数千年にわたりアヤソフィアを支えてきた光の波打つ大理石と、これまた数千年にわたってトルコをその揺籃期から見つめてきたマルマラ海の荒波はあるべくして共にあり続けることであろう。マルマロン!(思わず叫んでしまった、かわいい)

 

ああ、他にも書いておかなくてはならないことがある。

 

トルコといえば猫*7、というイメージを持つ人も多いだろうが、アヤソフィアのみにおいても例外ではない。

"Ayasofia Cat"と呼ばれているGli(グリ)が今月多くの人に惜しまれながらこの世を去った。*8

16歳という猫にしては高齢であること、九月末から病院で治療を受けていたことを考えると、せめて苦しまずに最期を迎えたことを願うばかりだ。

イスラム教では御法度であるはずの偶像化されたグリのファンアートがいかに人々に愛されていたかを物語っている。

 

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 "A Virtual Conversation Kawakami Mieko’s Breasts and Eggs: Gender and Translation 川上未映子『夏物語』—ジェンダーと翻訳" 国際基督教大学(ICU), October 8, 2020

川上未映子の『夏物語』(2019)に関してはいつか記事を丸々使ってじっくり取り上げたいと思いしばらく経つが、今のところこの流れがちょうど良いのでここらで書き表してみることにする。

 

このブログは一応書評のようなものを書き連ねつつ、それに沿って伝えたいことや私自身について何かしらが浮かび上がってくるのを楽しむ場であるのだが、『夏物語』に関しては書こうにも書けなかった、というのも切り口が多すぎるのと、かの上野千鶴子の書評を先に読んでしまったからだ(ネタバレも含む、が知ったとしてもそのネタバレに行き着くまでの小説は十分に読む価値がある)。

www.bookbang.jp

 

生まれることに自己決定はない。だが産むことには自己決定がある。この目も眩むような非対称を、どうやって埋めればよいのか? 母になる女たちは、この暗渠をどうやって越したのか? どうすれば、そんな無謀で勝手な選択ができるのか? 

 

私が書籍を購入したのは昨年末で今年の初夏に一気に読み終えてしまった。

読み進めたい欲と読み終わりたくない欲が常に拮抗していた読書体験であった。

 

『夏物語』は英語のみならず欧州の主言語でも翻訳が行われ世界中で大反響を巻き起こし、TIMEのThe 10 Best Fiction of 2020New York Times100 Notable Book of 2020にも選ばれている。

パンデミックさえなければ川上先生はサイン会などで世界中を飛び回っていたはずだそうだが、幸か不幸か多くのイベントがオンラインで行われることになり、その一つにオランダにいる私も日曜の午前三時に参加できたというわけである。

(ここでは詳しく書かないがこのイベントが高校の恩師に招待された日本学術会議関連のwebinar(朝6時開催)と同日になり、途中まで踏ん張っていたものの最終的に見事に気を失った。)

 

『夏物語』の前身となり芥川賞を受賞したことで知られる『乳と卵』(2010) には、日本語の書籍に飢えていてライデン大学のデータベースで手当たり次第日本文学や著者名を検索していたときに出会った。

その直後、日本への一時帰国をした際にその続きとして位置付けられる『夏物語』のずっしりした単行本へと時差なく移行することができた。

 

さまざまな切り口が可能である『夏物語』であるが、ここでは講演のテーマになぞらえて「ジェンダーと翻訳」の観点から見てみたい。

 

ジェンダー」と「翻訳」、と切り離した状態ではないことに留意されたい。

 

というのも、この日本人女性である川上未映子の作品は、アメリカ人男性二人、Sam BettとDavid Boydによって英語に訳されたからであり、世界中で人種差別と性差別が取り沙汰さているなか、反応したのは私だけではないはずだ。

例えば前年、ジャンルは異なれど女性問題(改めてこの問題の振れ幅に気づかされる)を取り扱い、日本でも社会現象を巻き起こし近年映画化もされた韓国フェミニズム文学の金字塔、『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ、2019)はアジア系アメリカ女性であるJamie Changによって英訳されている。*9

キム・ジヨンはしかも日本語への翻訳が先で、英語訳は翌年の今年に入ってからである。

『夏物語』も同様に韓国語や中国語訳が先んじてもおかしくはないのではないか。

妊娠・出産に関しては全世界の女性共通の出来事かもしれないが、あの雰囲気はやはり非常に日本独特で、共有されうるとしてせいぜい隣国が限界であろう。

 

...というのが私が講演会前に抱いていた疑問であったが、川上先生は二人の翻訳者に絶大な信頼を置き、翻訳する上で「性別が保証しうるものはない」と語った。

つまり、日本の女性について書かれた文学だからと言って、同じ立場の人が翻訳するのが最善なのか、というとそういうわけでもない、というのが川上の見解であった。

キム・ジヨン』が共感を通じアジア人女性間のみで(敢えて言うならば)排他的に広がっていったのに対し、『夏物語』の波及の仕方は、正反対の立場の人の目にも理解されずとも触れられることが目的だったのかもしれない。

 

そもそも「わかってもらう」ための内容でもないのだ。

執筆開始時に既に翻訳の話が出ていたかどうかは不明だが、「、」で繋がった何行にも弥もどかしい長文が多く母語話者でも読みづらい口語中心の日本語で(しかも大阪弁というさらに特殊な言語で)、しかも人工授精という扱いにくいテーマが突きつけられ、それを英語に訳してみたところでやはり伝わりにくい部分は多くあり、それでもと非日本文化圏の読者を圧倒せしめた上にありがちな日本特殊論で片づけられなかった、そこが『夏物語』の世界規模での功績なのかもしれない。

 

特殊性を突き詰めたところに普遍性が生まれた、と言ってもいい。

 

『夏物語』はひとたび翻訳さえされれば文化の違いや性差など飛び越え、刺さるところにはきちんと刺さる文学作品だったのだろう。

そう言った意味では確かに著者自身が述べたように翻訳者のバックグラウンドを(技術さえ備えていれば)選ばない作品であった、とも言える。

どうしても日本語が母語で英語がある程度読める者としては、素晴らしい翻訳者の技術を以ってしても「伝えきれていない」部分に目がいってしまいそうになるが、現在ヨーロッパに住んでいるからこそ実際に肌で感じられる『夏物語』のこちらでの受け取られ方には、原文一辺倒の私が見えないものへの可能性を広げてくれるように感じた。

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近所の本屋さんにて。9月撮影

 

と、ここで終わらないのが一級装丁国際審判(今勝手に自分で命名しました)、というわけで、日本語版から英語版の表紙の”翻訳”の上で個人的に引っかかるところはある。

 

まず日本語版の『乳と卵』。

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https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167791018

タイトルを見てから背景に目をやると女体が想起されるが、いわゆる"曲線美"が描かれているわけではない。

明らかな「乳」でもなく、でもなんだかデフォルメされた女性の概念みたいなものが抽象的でありながら生々しく画面全体を覆う。

不安感を募らせつつ、ミニマリスティックに強く美しく仕上がっている。

 

『夏物語』の装丁も抽象的だ。

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https://books.bunshun.jp/sp/natsumonogatari

今改めて見てポニーテールの女性が両手で髪を結っている後ろ姿か!とハッとしたが、他の解釈の仕方もあるかもしれない。

髪の長さ以外の女性の身体的特徴は後ろ姿ゆえなのか巧妙に排除されている。

背中と腕はたくましく、胸の膨らみや腰の細さは強調されてない。

そして黄色という表紙全体を覆う色が差すものはなんだろう?

”夏”の眩い日光だろうか、それとも赤ん坊が生まれたときに眼光を貫く外界の光だろうか。

 

サイズも存在感も異なりながら、両書で統一されたフォントも素晴らしい。

 

一方、英語版(二種類ある)はこちら。(著者の公式インスタグラムより)

www.instagram.com

 

加工で見えにくいかもしれないが、両方ピンク色で、片方はザ・日本人すぎる(おそらくカツラを使って体現している)「おかっぱの女の子」のイメージが。

作品内に果たして、おかっぱどころかこれほど登場人物の髪型に関してあからさまな表現はあっただろか...?

著者自身の、あのsignature黒髪lookと関連があるのだろうか?

 

これには日本語版の洗練されたデザインを知っていればこそ、少し唸ってしまった。

でもこの素晴らしい物語を一人でも多くの読者にとりあえず届かせるためだ、と思えばヨーロッパの片隅に住んでいる一日本人の意見など誰も気に留めずにいてくれて構わない。

 

『夏物語』の翻訳が "Summer Story"ではなく "Breasts and Eggs"と、前作の『乳と卵』に寄せ比較的目につきやすくしたことも興味深いが、翻訳が”Tits and Ovaries"みたいなものではなくて、(なるはずがないと信頼は置いていたにせよ)書店でこっそり胸を撫で下ろした在外日本人は私だけではないはずだ。

 

"Curating and Collecting Antiracism?" RCMC (Research Center for Material Culture), Nov 19, 2020 

そして最後のテーマがこれか、上の二つは11月下旬に書いており末に公開予定だったのが、直後にいろいろなことが舞い込んでしまい今に至る。

今は受講時の約一ヶ月後なのでただでさえ記憶が危ない上に、メモも判読不可能だ(下)、どうしたら良いものか。

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期待はしていなかったが読みにくい

私は授業中に寝ながら書いたとはいえ自分のものとは思えない文字を解読するのも楽しめる方で、やらなきゃいけないときはやらなきゃいけないのだけど、今はやりたくない。

しかも書こうにも、これはいろんなspeaker間であっちこっちに議論が飛び交うような、どちらかというとライブ感を楽しみ、直後に感想がうまく言えなくても何か自分の一部になったな、というタイプのconferenceだったので尚更きちんと言葉にしにくいのだ。(ちょうど一週間くらい経つとスラッと言語化できたりするのだがタイミングを逃した)

 

それでも美術館・博物館における反レイシズム、というホットかつ自分にも関係と関心のあるトピックであるがゆえにどうしても書き残したい...ということでちらほら書いてみる。

 

10人弱のspeakerに共通したメッセージはmuseum(幅広く美術館と博物館両方を指す)の持つ権力(anthority/power)に関するものだ、という印象を受けた。

Anti-racismに限らず、museumが社会をより良くする上でできること・やるべきことはたくさんあり、そもそもの成り立ちからして一般市民への教育的側面が非常に強いことは確かだ。

それでもやはり権力構造というのはどこにでも、あらゆるレベルで存在してしまうもので、コレクションの分類法(taxonomy/terminology)から、雇用形態や労働者の特徴まで、anti-racismを大々と掲げているmuseumにおいてさえ未だ見受けられる、というのが現状だ。

いくら「西洋文化圏以外の文物を積極的に展覧会で取り上げます」と謳ったところで、museumにおけるどんな立場の人がそれを言っているのか、展示物は誰によってどうやって分類・表記がされたものなのか、また実際にその企画・運営に携わっているのはどんな人たちなのか、という部分も問われなければならない。

この全てが白人上流階級層によって行われているとしたら、いくら展覧会そのものの内容が良くても(そしてそれを評価・批評する/できるのは誰?)、anti-racismを達成したとは到底言えない。

単にBlack Lives Matterの"流行"に共感を示していると見せかけただけでは根本的な問題解決にはならない。

 

無論、museumに展示されるものだけが"公式"で”正しい”とも限らないし、特定の考えを押し付ける場であってはならない。

いわゆるtop-downの知識の植え付けで「答えを与える」のではなく、来場者が会場で見聞きしたことを元に自発的に考えを育み、行動を促すことが望ましい。

 

現在のmuseumには、anti-racismのみに限っても内部構造の見直し外部への開放、という二重の風通しの良さが求められている。

 

私がここで今思い浮かんだのはdysonのあの羽のない扇風機だ。

あのように、museumも風を起こす主体が良い意味で決まりきっておらず、風を受ける客体も風力を正面から心地よく肌で感じながら思わず手を伸ばして中に入りたくなるような場になってほしいなぁ、と思う。

そして最終的には主体と客体も区別がつかなくなる感じ。

 

最後は完全に持論で思いつきなのですが、記憶力があやふやにしては上出来!!!!

 

あ、あとそうだ、オランダにはアムステルダムロッテルダム、ライデン、ナイメーヘンにそれぞれ違ったテーマで民俗学・文化人類学系のmuseumがあるのだが、このconference内でロッテルダムの"World Museum"、という名前の付け方に着目していた。

これ、内容的にはethnographyと普通だと言ってしまいそうなのだが、それだとどうしても白人が集めた非白人地域に行って集めた物の博物館、というニュアンスになってしまいそうなので日本語にすれば"世界博物館"にした、か途中で変えたとかなんとか。

それでもこの「観察する側>される側」の不等号がひっくり返ることにはなかなかならないのだが、museumの名前ともなるとそのものを表すことにもつながるので、大きな変化のひとつと言ってもいいだろう。

 

また、lecturerのうちの一人がベルリンのSAVVY Comtemporaryというmuseumからだったのだが、その人のトークもここのコンセプトも超カッコ良かったので是非紹介させていただきたい。

An important part of our culture is working extradisciplinarily. With team members from twelve countries and five continents trained as biotechnologists, art historians, cultural theorists, anthropologists, designers and artists, we think interdisciplinary work is not enough, one must be able to liberate one’s self from the tight corset of one’s own discipline. When Glissant talks about not leaving history in the hands of historians alone, he indeed calls for extradisciplinarity. By thinking extradisciplinary, we acknowledge the limits and faults of our discipline and advocate for processes of unlearning to be able to learn something new.(強調・下線筆者)*10

学際性(interdisciplinarity)という言葉が日本語でも訳されている通り、分野を超えた学術的交流という意味で使われていたが、ここではさらにその学問(discipline)の限界を認めその粋を超える(extra)ために、unlearning、非常に訳しづらいがこの文脈では「(旧学問体制の)刷新」とでもしておこう、を掲げている。

 

個人的にはunlearningという単語は心理学の文脈で学んだ。

例えば非常に自分にとって毒ではあるけれども常識としてり込まれてきた考え方、私の場合極端に言えば「日本の女性はおしとやかで勉強がそこまでできなくても30歳までに結婚できた方がいい」的なものを単にdeleteしたり他のものとreplaceするのではなく(できないから辛いのだ)、一度丁寧に脱ぎ捨て(un-の接頭辞)、しい上着がフィットするか試してみよう、というところにある。

このunlearningでしっくりくるのは「上書きしちゃえばいいじゃん」ではなく、まず囚われているものから開放しよう、というプロセスに重きを置いているところにある。

上書きはlearningでもできるが、それでは編集履歴に残ってしまう。

特に対立する考えが共存する、というのは社会はおろか一人の人間の中ではキャパオーバーになる。

そりゃ色んなことがCtrl+Sで変わればいいけど、人生そんなに甘くないしな〜

 

....ということでunlearningというのはlearnが入っていて一見アカデミックに聞こえながらも非常に個人的な心理的プロセスのことを指すのだ、と勝手に思っていたが、SAVVY contemporaryの例を見るとmuseumやinstitution単位でも行けそうですね。

 

う〜んベルリンも良いmuseumが乱立していて行ったら帰って来れなくなりそう、でも早く行ってみたいな〜

 

  

最後に、online conferenceの良い部分としてaccessibilityだけでなく参加者の態度のflexibilityなところも挙げておきたい。

全部のspeakerの話を聞く必要はないし、カメラオフでスマホをいじりながらでもご飯を食べながらでも聞き流せる、と言ってしまうときちんと資料を用意してくださっているspeakerに失礼ですが、私なんか頼まれてもいないのに自分で足を運んだ講演会とかでも結構寝てしまう(けど大事なところだけ起きたりする)ので、officialな雰囲気も含めて講演会とは言え、visibilityだけで言ったらむしろ寝ているのが見えないので失礼には当たらないし、私がspeakerだったら聞いてないより聞き流してくれるだけでもマシかな?と思います。

Activeに参加して質問したり議論するにしても、100人の聴衆がいる前で手を挙げるのとZoomの機能の挙手だと全然感覚が違うし、顔見せなくても声出さなくても色々言えるのも公平性や匿名性で言ったらこっちのほうがいいのかな?とも思ってしまう。

 

すべて「かな?」の段階ですし、既に色んな問題があるしこれからも出てくるのでしょうが、ファンとしては結構馴染みつつ有り難っております、世界中のonline conference!ということでここらへんで。 

 

*1:内田樹が『町場の教育論』(2008)で『ハチミツとクローバー』や『もやしもん』を例に、予測がつかないものに出会い取り込まれる場としてのphysicalな大学の必要性について語っている。この恩恵を浴びるように受けた者としては、パンデミック下の現役大学生たちは非常に不運だと思ってしまう...

*2:なかでも記憶に残っているのがこの"Faculty symposium Humanities: The Myth of High and Low Culture"で、いわゆる古典などの王道の"文化"(high)と、近代のポップカルチャー(low)の区分に疑問を呈したもの

*3:Hagia Sophia: turning this Turkish treasure into a mosque is at odds with its Unesco status

*4:UNESCO statement on Hagia Sophia, Istanbul

*5:with Jonathan Abel, “Icons of Sound: Auralizing the Lost Voice of Hagia Sophia,” Speculum 92/S1 (2017)online publication, 

https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdfplus/10.1086/693439

*6:同上, S356

*7:この話題には事欠かないが、二つほど有名なものを。メトロのエスカレーター付近に居座る猫を人々が避けて通る動画と、Kedi(トルコ語で猫)という、イスタンブールの猫と人の関わりを描いた映画

*8:Hagia Sophia mosque's famed feline Gli passes away

*9:私が『夏物語』を日本のフェミニズム文学の一つとして韓国のそれと対比してしまうのは、上に挙げた上野の書評が他でもない、「韓国・フェミニズム・日本」を特集した『文藝』2019年秋季号に掲載されていたからである、というのは無視できない。

『文藝』17年ぶり重版&特集「韓国・フェミニズム・日本」が11月に単行本化 - 書籍ニュース : CINRA.NET

*10:S A V V Y • Concept