書店定点観測:東京⇆アムステルダム
今年の北半球はどうかしており、普段は冷夏のオランダさえも40度に達した、と思いきや八月下旬の現在はすっかり秋模様です。
夏は脳みそが沸騰して読めなかった本にもじっくり取り組みたい季節になってきました。
以前書いたかも知れませんが、私は本そのものや読書という行為よりも、どちらかといえば本を含めた本のある環境が好きなのです。
となるとやっぱり本屋が好きで、見かけると吸い寄せられるように入ってしまう。
それは世界のどこにいても同じなようです。
現在住んでいるオランダでもいくつかお気に入りの本屋さんが見つかりました。
今ではアムステルダムに行く用事があるときは必ず通うようになりました。
今回はオランダに住んで半年が経ち、ほぼ月イチのペースでアムステルダムの本屋さんを定点観測していて、東京との違いに気がついたことをまとめたいと思います。
(ちなみに東京では少なくとも3日に一回のペースで何かしらの本屋に行っていました。毎回買うわけではないけど。)
主に以下の三点になります。
- 見つけるのではなく、見つかる
- おすすめを構える
- 書籍の入れ替わりのペース
1. 見つけるのではなく、見つかる
世界にどのくらいの本が流通しているのかは知りませんが、途方も無い量であることは確かです。
たかが人間の短い一生のうちに全て読み切るはずもなく、どんなに読書量の多い人でも読む冊数は非常に限られてきます。
そんななかで「読みたい本を自分から見つける」というのは図々しい気がしてきました。
経験したことがある方も多いかもしれませんが、自分に合う本は自分を見つけてくれるんですよ。
なんかふと目に入って、理由はわからないけど目が離せない。
本屋さんも同じで、ぼーっと歩いてるときになぜか看板を見つけて入る。
この偶然が非常に大事だと思います。
私たちはインターネットが発達した結果、自分で探せばどんなものでも見つかるという錯覚に陥っているのです。
でも実は全然そんなことはなくて、検索して辿り着ける情報なんてたかが知れている。
偶然だろうが必然だろうが、虚構だったとしても「運命を感じる出会い」というのはこのご時世に必要なことだと思うんです。
そんな貴重な体験を本屋さんは教えてくれます。
今やほとんどFacebookと同義語になったTinderもこの虚構性の上に成り立っていると思います。課金バージョンはどんなのか知らないけど。『でああす』も関連してるかな↓
2. おすすめを構える
とはいえ、どんなに魅力的な本でも初対面で衝動買いすることは少なくなっているような気がします。
私が両都市の本屋さんを通いつめて気がついたのは、各書店のカラーとも言える推薦本の扱い方でした。
人間は単語でもなんでも繰り返し目に入るものを比較的覚えやすい傾向にあります。
それは本とて同じで、本当に本屋として特定の本を売りたかったら、何かしら目に入る仕掛けを本に纏わせるはずなのです。
アムステルダムの本屋さんは、比較的その傾向が強いように思います。
老舗の居酒屋みたいに表立ってメニューは置かなくても、常連なら絶対頼むものがある。
しかしこれは何度か通いつめなければわかりません。
私が驚いたのは、アムステルダムの大半の書店は半年間そのおすすめがほとんど変化していないことです。
行くと絶対いつもの場所にいて、目に入るようになっている。
流石に3回目くらいになると思わず手に取ってしまう。
違う本屋で同じ本を同じようにおすすめしていたら、さらに気になりますよね。
数カ月に渡る積ん読後、やっと読み始めたオルダス・ハクスリーのメスカリン体験記。言語中心の世界を否定しつつ、視覚を言語化できる点においてこの人の右に出る者はいないだろう。↓
3. 書籍の入れ替わりのペース
東京は本の入れ替わりが激しかった。
3日に1回行っていても、毎回どこか変化している。
私はそのペースに慣れていたので、こちらに来てからもツイッターやインスタグラムで本屋さんや出版社をフォローして、ほぼ毎週くまなくチェックしていました。
アカウントも相当マメで、ほぼ毎日新刊情報を発信している。
でもこれは1.で書いたことと真逆で、やっぱりこちらから踏み込みすぎるといけない。
何よりも読みたい本の題名をメモするだけでも一人の人間の脳のキャパシティを超えてしまって、読むことが追いつかない。
アムステルダムの本屋さんは、まずおすすめをどっしりと構え「ウチに来たならまずこれ読んでみな」と言ってくる。
出版のペースに惑わされずに、まあ落ち着きなよと。
古典もなかなか良いよ、表紙も素敵なバージョンが出たし、といったように。
これは一見「本を売る行為」から離れているようで、結局一番読者および消費者に寄り添っているので、結果的に売れ行きにも繋がるのではないかと思います。
日本語でも英語でも読んだ、言わずと知れた世界的名著。インスタグラム(rupi kaurさん(@rupikaur_) • Instagram写真と動画)でフォローすると詩が無料で読める。ポジティブバージョンの新刊も良かった↓
結論
何事もスローペースが良いなんて言うつもりはありませんし、現実的ではありません。
(いまだにオランダの事務手続きの遅さに辟易しています。日本のアマゾン過剰再配達も今となってはどうかと思うけど。)
一方で、東京のペースで本屋に通い、東京のペースで本を読んでいた私としては、本に限っては急いで探して読むものでもないし、量を競うべきものでもない。
でもそれが東京にいると起こってしまっていた。
本も結局情報の一部なので、効率よく取り込みたい気持ちがあった。
こちらに来てから本屋の構え方の違いを見て、無理をしなくなった。
読む言語が主に英語になって日本語より読むペースが遅くなったとも捉えられますが、なんとなく生活全般に言えることのような気がします。
日本の大学からのアンケートでも何を読んだかではなく、一月の読書”量”を聞かれることが多々あったんですけど、あれってどうなんでしょうね。
一回自分が読みたいタイプの本をいくつか読み始めて見つけたら、感覚さえ研ぎ澄ませていれば、あとはなぜか芋づる式にあちらから出てくるものだと思います。
キーワードでもジャンルでも、なんでも。
もちろんお気に入りの本屋さんを見つけて、そこに全信頼を置くも良し。
だからこちらから無理に探すこともない。
「読書量をこなしたくてもどうこなせばいいのかわからない」と思うのも贅沢な悩みで、且つ読書にハマり始めたときの醍醐味でもあると言えますけれども、乱読も結局限界があるので無理して全く興味のない本を読む必要もない。
ダニエル・ペナックも『読者の権利10カ条』に「読まない権利」を真っ先に挙げていますしね。
出版不況だからか競争社会だからか、本読みを自称していると「月に何冊読むの?」という質問はよく聞きますが、それよりも「好きな本屋さんは?」「おすすめの一冊は?」といった言葉がより投げ交う世の中になってほしいなと思います。
子どもに「本を読む」と言う能動的行為の強制というよりは、受動的な行為を仕掛けることで読書に引き込む仕組みを紹介した画期的名著。すでに本好きの大人でも新しい発見があるはず。↓
そろそろどの本屋の話をしているのか気になってきたと思いますので、紹介したいと思います!(順不同)
東京
良い本屋さんのある街は、良い街!
・青山ブックセンター本店
行きつめた六本木店の閉店には胸が痛みました。平成最後の恥。
・本屋 B&B
隠れ家にもほどがある。改装した新店の奥行きが嬉しい。
・かもめブックス
最高な坂の上に最高な本屋さん!行くと3周はする。
・代官山 T-SITE
ゆっくり座って読める本屋の存在をここで知った。実は渋谷から歩ける。
狭いわけでもないのに、階段と階数が多い本屋が多い。
・The American Book Center
青山ブックセンターの生き写しかと思った。大好き!
・Waterstones Amsterdam
イギリス初、ABCの異母兄弟(個人の意見です)。二階?の詩集コーナーがおすすめ。
・Athenaeum Boekhandel
上の二つと非常に隣接している。いくつもの階段で完全に迷宮と化している。
・TASCHEN
美術出版社の大御所らしく、美術館エリアに近接している。豪華な見た目の割に値段が安いので、店ごと買いたくなる。
今回は様々な点を考慮して各都市四つずつに絞りましたが、まだまだおすすめがありますし、教えたくない本屋もあります。図書館も素敵なのがいっぱい。
それはまた別の機会に!
長編が読めない
人間はラクなものに流れる方向にある。
上半期の授業を終えた最近の私が非常にいい例であるが、高い生活費・学費を払ってもらっているにも関わらず、こんな生活を送っているとは口が裂けても言えないほどだ。
さて、私は長編が読めない。
映像でも連続ドラマやテレビシリーズにはまった試しがない。
小さい頃テレビを見る時間が制限されていたことが影響しているかもしれない。
月曜日、ブラックジャックのあとのコナンは見せてもらえなかった。
いや、それかもともと飽きっぽいからだ。
だいぶ前の話になるが、プリズン・ブレイクもプリズンがブレイクする前に見るのをやめた。
ハリー・ポッター、ロード・オブ・ザ・リング、スターウォーズなどなど、断片的には見たり読んだりし、素晴らしいとは感じたものの、一から全部見る気にはとてもなれなかった。
ちなみにゲーム・オブ・スローンズは元彼に「見ないと人生の半分は損してる」と脅されたが、付き合いはじめたときには3シリーズ目などだいぶ進んでおり、当時そんなに一気に見る時間もなければ、よく考えてみれば彼と過ごしていた時間の方が人生において損をしている、と思うに至ったためもちろん見ていない。
強いて「追いかけている」と言えるのは漫画のワンピースくらいだろうか。
でもこれはもはや意地というか執念というか、この作品に魅了されてしまった人の定めだと思う。
ちなみに最近、躍起になってナルトを全巻(72巻)読んでみたのだが、ワンピースとの作品の作り込み方の違いに圧倒させられた。
この二つはほぼ同時に連載が始まったものだが、二つがお互いを生かし続けたのも畑が違いすぎたからだろう。
画のスタイルからストーリー設定まで、何もかも違う。
前者ではあくまでナルトとサスケという二項対立が決してブレない(「もうサスケは諦めたら?」と後半は思うほどだ)一方、後者は内容と仲間と敵と伏線が増殖し続けている。
ワンピースの収集のつかなさに不安を覚えはじめているのは私だけではないはずだ...
作者の頭の構造に私がついていけていないということももちろんあるとは思うが。
それはさておき、振り返ってみると私が今まで紹介している本の中にも長編はほとんどない。
短編集やオムニバスがほとんどであり、学術書でも各章毎に切り口が全く異なっていてこの私でさえも飽きさせないものが多い。
その原点は星新一にある、と今ふと思った。
ちょうど私が小学生の頃に、和田誠が装丁を手がけた非常に親しみやすいショート・ショートセレクションが刊行されたのだ。
本のサイズもフォントも明らかに子ども向けで、学校の図書館にも地元の図書館にも児童書コーナーに置いてあった。
しかし内容は全く子ども向けではない。
私は私の人格の欠点を周りのせいにするのを特技としているが、あんなものを読ませたらすごくめんどくさい奴になるに決まっている。
まず、たいていの内容がSFというのがさらにあざとい。
星新一なんて名前もSFすぎる。
SFを嫌いな子どもがいるだろうか。
また、彼の作品はSF作品に期待されるべきである「異世界に連れて行ってくれる」効果を持つだけではない。
子どものときは異世界に連れて行かれたままだと思い込んでいたかもしれない。
短時間ですぐ酔えるショットのお酒みたいだ、とあの頃とは違い、お酒を知るような年齢になってしまった私は例えるが、少なくともショットのお酒はすぐ酔えて、ずっと酔える。
しかし彼のショート・ショートはそうはいかない(ショットとショート、似ていますね)。
つい読み終わったあとに後ろを振り返って現実を確認したくなる、そんな恐ろしさがある。
そしてパステルカラーとソフトタッチの表紙にそぐわず、意外とアダルトな描写があっても教科書よりも綺麗な字体でゆったりとした字間の中に書かれていると、これはありなのかな、とも思ってしまう何かがあった。
その点ではお酒を飲んでいるのに気がつかない、ロングアイランドアイスティー的な要素にある。
単にお酒の話がしたくなっただけ!
ショート・ショートの他にも、私の射程距離圏内であった小・中学校や図書館はなかなか選書のセンスがよかったと思う。
よりみちパン!セ シリーズ(再スタート、心から嬉しく思います)や、はじめての文学シリーズなど、なかなか粒ぞろいであった。
今でもいつか揃えたいと思っているのはロアルド・ダールのシリーズだ。
「魔女がいっぱい」の映画がリメイクされるらしいが、未だにそんなことが起こるなんて彼の作品ならではだろう。
ロバート・ゼメキス監督はあの作品の魔女たちの皮膚感や、ポップな言葉の中の残酷さを映像で表現しきれるのだろうか。
それ以上に有名で、映像化にも比較的成功したといえるのはチャーリーとチョコレート工場の秘密であろうが、もっと短くてスパイスが効いたものが山ほどある。
小学生たるもの、ダール作品からスラング、いやちょっと背伸びした言葉遊びを学ばずして小学校は卒業できまい。
そして忘れてはいけないのが挿絵画家の存在で、先ほども星新一と和田誠を挙げたが、ティム・バートン(監督)とジョニー・デップ(ミューズ)以上に、ロアルド・ダールにはクエンティン・ブレイクが欠かせないのだ。
これを両方やってのけてしまえるのは、さくらももこと東海林さだお(丸かじりシリーズ)くらいである。
この二人がなぜ私の好みなのか、もうお分りいただけると思うが、二人の共通点は刊行しているシリーズは長いが、作品間の連続性はない。
もちろん一貫したテーマはあるが、さくらももこはエッセイのみならず漫画でさえエッセイ的だ。
ああ、久しぶりに読みたくなってきた...
このように子ども向け(?)の本というのはいつも侮れないもので、タチが悪いのが大人になってある程度お金を持つようになってから大人買いをしたくなる仕組みになっているのである。
漫画なんて、全巻セットでも古本ならば安いものである。
私はもし子どもができたら、ハタチかそこらで狂ったように大人買いをしないために漫画くらいは買ってやろうと思う。
小・中学生の頃お金がなかった私は、しかし古本屋でブラック・ジャックの秋田書店の単行本版は全巻揃えると決めた。
ちょっと汚いものならすぐに百円になるからだ。
手塚治虫は"たくさんの"作品を産んだと言われているが、"細く長く"ではなく"広く浅く"であった。
いや、”広く深く”だ。
それが彼を漫画の神様たらしめた所以であるように思う。
シリーズものでも10巻を超えることはほとんどなく、超えることがあってもブラック・ジャックのようにオムニバス形式となっている。
彼自身のアンテナや知識が網羅している範囲がそのまま作品群に投影されており、様々な入口が用意されている。
そこには性別も年齢も関係ない。
同じ作品を読み返してみるもよし、黒手塚に挑戦してみるもよし。
と、このように飽きっぽいにも関わらず私が本好きを自称できているのは、運よく粒ぞろいの作品に出会えたからだ。
その傾向は今でも変わらない。
留学先でせっかくなので英語漬けの日々...と思ってもやっぱり長編には手が伸びず(ペーパーバックの軽さと厚さのギャップが無理)、今では詩集に手を出す始末である。
サンドラシネオローズの本は詩とはちょっと違うけど、復刊で話題になったマンゴー通り、ときどきさよならを英語で読んでみた。
口語だけど、いやだからこそ、力強い文体だ。
あとカート・ヴォネガットの未発表作品集とボルヘス奇譚集が読みたい!
また、このブログを書く主な理由の一つとして、ツイッターのタイムラインに流れてきた#54字の文学(または#54字の物語)がある。
#54字の物語 pic.twitter.com/m2l1EKm124
— 3万人と不璽王 (@kurapond) July 3, 2018
このプロジェクトはすごくて、私なんかは挑戦してみようとも思わないくらい難しい。
140字で精一杯なのに、54字って...
日本語はインターネット上の言語の多くのパーセンテージを占めていると同時に、英語よりもはるかに少ない文字数で情報を伝達できると聞いたことがある。
とはいえ54字よリも、はるかに少ない文字数で表現する、短歌とか俳句に関しては想像を絶する。
このミニマリズムの傾向は、少なくとも私の周囲では無視できないものとなってきている。
今住んでいるオランダもデ・ステイル、ミッフィー(本名はナインチェ)をはじめとした洗練されたデザインが溢れている(一方で細密画家のような「バベル」のブリューゲルとかヒエロニムス・ボスとかが一昔前に存在していたのがオランダの面白いところ)。
最近会った、私よりも日本らしいお弁当を毎日持参するイタリアの友達にMUJIのアルミ製シャープペンシルを誇らしげに見せられたばかりだ。
何よりも、あの無意味な長編記事が強みのオモコロが文字そばシリーズを導入した背景にはインターネット界のツイッター以上のミニマリズム化の波が押し寄せているのではないのかと疑うほどである。
しかし、人生でいろんなミニマリズムに出会ってきて思うのは、ただミニマルに収まっているだけではダメである、ということだ。
"大は小を兼ねる"ならぬ、”小が大を兼ねる”ものでなくてはならない。
ここで最初の一文に戻るが、長編が読めない私はラクをしている訳ではない、という結論に至る。
少なくとも読書においては!
....というあくまで自己肯定のための文章を書きたかった。
とかいって、なんだかんだ一年くらい続いてるブログ!
このブログが更新できる程度の余裕がある人生をこれからも送っていきたいものだ。
それでは、また!
土曜日のシミット
あなたは世界を変えたことがありますか?
私はあります。
最近、「同じものでも見方を変えると違う風に見える」という考え方を耳にするが、そういうのではなくて、本当に私はある。
今私が住むオランダの街には水曜と土曜に市場が開かれる。
野菜や果物、チーズなどが多いが、雑貨なども乱入しているので出店の基準は未だ謎である。
到着したばかりの頃はほとんど毎週末行っていた。
だいたい毎回同じ店が構えているが、売りものは変わるし掘り出し物もあるからだ。
1ヶ月か2ヶ月経った頃、私はこの市場で奇跡の再会を果たす。
そう、私はシミットに再会したのだ。
トルコの国民的パンである。
ドーナツのような形をしているが、れっきとしたパンである。
なんならドーナツがシミットを真似したのではないか?
パンといってもおそらく油などがふんだんに使われているのでヘルシーには程遠い。
ヘルシーで美味しいものなんてないからいいのだ。
まずシミットが人を惹きつけるのは、その形だろう。
あらゆる点で似たものとしてプレッツェルがあるが、シミットはそんなひねりさえも効かせていない。
丸だよ、だからどうした、まずは口に入れてみな!と強気である。
ちなみに値段は道端で売っていても一リラ(2015年当時は約五十円)くらい。
オプションでチョコかチーズをつけられるが、まずはそのまま食べてみてほしい。
どう食べるか、というのも問題である。
ドーナツよりは大きいので、両手で持ってがぶりといくと大きな穴の中に顔を突っ込む形になり、勢い余ると目や鼻にぶつかる可能性がある。
そしてごまがまぶしてあるので、口の周りに付きやすい。
歩きながら食べているときは要注意だ。
カモメもあなたのシミットを狙っていることがある。
第二の方法というよりも主流はちぎりながら食べる、というもの。
この良い点は先述したトッピングをつけやすいことにある。
あと言うまでもなく見た目が上品だ。
シミットのトッピングはかけるものではなく、給食などで配られるようなプラスチックの小さな市販のソースであり、ディップするものだ。
これを毎回ちぎるたびにソースが毎ちぎりことに平等につけられるよう非常に気をもむ。
サイズにも問題がある。
一個だと少し物足りないが、二個目は直後に食べたくない。
二人で分けるには絶対足りない。
友達とかには絶対あげたくない。
自分で買ってください!と怒りたくなる。
ちぎる大きさで私のケチ具合が相手にわかってしまうのも嫌だ。
そうなったらやはりかぶりついて分ける隙を与えない、と言うのも一つの手だ。
こんな絶妙さにやられ、私はシミットの虜になった。
朝ごはんからおやつまで万能である。
しかしながら日本で手に入るはずもなく、帰国後は他のトルコ食品ロスを含め非常に苦しい思いをした。
そして私はなぜかオランダにいる。
日本よりは近く、移民も含めてトルコ人口は多い。
トルコ語もよく聞こえる。
それでも、ケバブならまだしも、シミットに会えるなんて思わなかった。
私はあの懐かしい円を見て、やはりトルコとの縁を再認識してしまったのだ。
迷わず大人買いした。
三つ!
もちろん値段は少し高いが気にしない。
購入した場所は常連のモロッコ系のおそうざい屋さんで、よく見たらバクラバなんかもあった。
私はその1週間をとても幸せな気持ちで過ごした。
2日に一回、ちぎって食べた。
かぶりつくなんてことはもったいなくてできなかった。
そしてまた週末。
9時から始まるので売り切れる前にと急いでいった。
でも、ない!
私は以前シミットの隣にあった普通に美味しそうなパンたちには目もくれず、近くにいた売り場のおばさんに「シミットはどこですかッ」と興奮気味で聞いた。
彼女はただの売り子さんで、前回買った時にもいたが値段を知らないほどだった。
そんな彼女がシミットの行方を知るはずもない。
そもそもシミットとと言う単語を知らなかったようだった。
なんとか身振り手振りで伝える。
すると「あーあれは先週たまたま売っただけなのよ」。
私はそこで諦める女ではない。
食べ物の恨みは一生の恨み。
これはちょっと違う表現であるし、おばさんとしても怒りを向けられるのは御門違いだ。
なぜ私が唖然とした顔をしているのかさえも分からなかっただろう。
絶対にトルコ人ではない顔で何を言っているんだこいつは。
それでも諦めきれなかった。
この時点でシミットがただのパンでないことがお分かりいただけると思う。
そして次の土曜日。
もちろんシミットの姿はない。
しかし同じおばさんと目が合い、全く同じ質問を繰り返した。
おばさんは今度は私が先週の人物と同じだと気づいたような気づいてないような、「ない」と短く答えた。
次の週。
ない。
「ない」。
ない。
「ない」。
1ヶ月ほど経つうちに、私はこの土曜日の朝の短いやり取りが楽しみになっていた。
いや、それは嘘だ。
美化しすぎた。
なんでもいいのでシミットをはやく持ってきて欲しい。
「日本なら…」と言いたくないが、これだけ客が聞いているのに持ってこないってどういうことなのだ、
と思う一方、
最初の週に「一時的な商品だ」と言われたにもかかわらず毎週、失礼な言い方ではないにせよしつこく訊きつづけるのってもはやクレーマーの域である。
この図々しさ、もとい「お問い合わせ」能力は海外生活で身につけた私の一部である。
「前にも言ったけど…」というのはたとえ何度同じやり取りをしていても有効ではない。
入荷したらお知らせが来るシステムなんてないのだ。
それにその言葉を口にしているうちにこちらが疲れる。
「ああ、私何回言ってるんだろう」と。
だから毎回フレッシュな気持ちで、なにごともなかったかのように粘り強く質問する。
そして、同じことを答えられても理由に深く踏み込まない。
理由をわかった上でやっているので、聞く必要がないというのもあるし、
理由はだいたい「ないものはない」からだ。
そんなやりとりを繰り返して1ヶ月ほどたったある日、シミットは唐突に私の眼の前に現れた。
おばさんは嬉々とした私の顔を見て、あ、と思ったようだったが特に何も言われなかった。
私はにっこり笑ってシミットを三つ買いたいと伝えた。
おばさんは今までの出来事を思い出すそぶりも見せず、普通の接客スマイルでシミットを包んでくれた。
未だに値段は不明瞭であり、他の従業員三人ほどに問い合わせていたことも付け加えておく。
おばさんは悪くない。
目の前に売っているものを売る、それだけだ。
不思議と「勝った!」といったような気持ちは起こらなかった。
ただ、わたしのやっていたことが正しかったことが認められた気がしてなんだか嬉しかった。
私の周りの世界が私が踏み込んでみたことで、ひっそりと変化したことに少し感動した。
それ以降シミットはゴールデンメンバーとして加入し、その形と美味しさからこの小さな町の人々の週末を盛り上げている(はず)。
毎週微妙に味と形が異なっていて、そこもいい。
今やシミットは私にとっての土曜日の儀式となった。
世界を変えてみて、自分の世界も少し変わったことに気がつく。
自分と世界が思ったより地続きであったことにも。
きっとこの程度のことが世界を変えるし、世界を変えるとはこの程度のことなんだと思う。
...なーんて少しクサいことを言ってしまいましたが、軽く本の紹介!
上から
・トルコ料理の本は多くあれど、意外とパンについて言及されることは少ない。盲点をついたもの、
・陳腐なタイトルとは裏腹に各界の研究者がドーナツについてガチトークをする。
・言わずと知れた名著!洋書のアートブック的な厚さとサイズ。トイレに置いておきたい。
トルコのパンと粉ものとスープ: 粉もの文化の地に受け継がれる、素朴で味わい深い料理
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