芸術の秋だよ!①〜完全自己満足応援鑑賞〜
暇なときにInstagram、Pinterest、Tumblrなどで、とくにアートを閲覧するのが好きです。
Vimeoのアニメとかも楽しい。
(もしおすすめのサービスやアカウントがあったら教えてください)
今のご時世はお金がなくて引きこもってても、画面をスクロールして保存するなりスクショするだけで自分の好きなコレクションができる。
良い時代ですね。
しかし便利すぎるサービスはいつの間にか膨大なアーティストを抱え始め、収集がつかなくなって来てまいりました。
私のアカウントも同じ!
整理するの苦手なんですけど、多分そろそろやらないと手遅れになるので実験的にこのブログで試みることにします。
ただまとめてもつまらないのと、思い入れの強い作品を紹介する方法として、応援鑑賞という手法を取りました。
映画の応援上映の絵画バージョンです。
これは三日前に思いついた割には我ながら素晴らしいコンセプトだと思っています。
映画館、展覧会、美術館、劇場って、少なくとも日本では大抵の場合「喋ってはいけない場」になってるじゃないですか。
中でももっとも曖昧なポジションにある映画館に関しては、心なしか海外の方が面白いときは笑うとか、どんでん返しの場面で「マジかよ(息を呑む)」みたいなリアクションがよく聞こえる気がします。
応援上映ではないけどより自然に感情が出せる。
そっちの方が個人的には楽しめるし、自分自身が感情を無意識に表に出しやすいので気を使わないで済むというか。
「他のお客様のご迷惑になる」という口実を使って注意しなくても、ある程度のマナーはみんなわきまえつつ楽しむみたいな。
これは多少、美術館にもあっていいんじゃないかと思う。
音付きのインスターレーションとか子ども向けの展示じゃなくても、一つの絵を目の前にして一緒に行く人と喋りながら見るというのはなかなか面白いものがあります。
映画と異なり文字やセリフを含まない絵画こそ、敢えて小さく横にある解説を読まず自分なりの解釈を展開する余地があるんではないでしょうか。
ちょうど一年くらい前、満を期して『怖い絵』展に美術好きの親戚のおばさんと行ったときの話。
上野で有名な展覧会ということもあって、激混みだった。
中野京子先生の著作は中学のときから大体網羅して3回くらい読み返してるのと伊達に学部で歴史専攻だったわけじゃないので、ほとんどの絵の主題と解説が私の頭に入っていました。
だから私より背が低くて、混雑したなかで人を掻き分けるのに苦戦していたおばさんに全部解説してました。
そしたら密集したなかで近くにいた人に舌打ちされ、黙れみたいなことを言われた。
狭い、狭いよ!狭いのは会場じゃなくてあんたの心だよ!!!!
こちとら雑談してるわけでもなし、あなたの手元にある数百円払って使ってるオーディオガイドなしで親戚孝行しようとしているというのに!
文系苦学生の数少ない使い道を阻まないでくれ〜
あと美術館が嫌いな人の視点に立ってみても、「アートそのものが嫌い・興味がない」というよりも「異様に冷房を効かせている」や、「人混みが嫌い」「緊張感がある雰囲気なので疲れる」など、満員電車の話ですか?というような、アートと関係ない意見も目立ちます。
これももったいない。
何度ブログで取り上げようと思ったことか!未だ畏れ多い。絵画の解釈の正しさなんてのはなく、楽しんだもんがち。しかもよりスリリングな形で...!この人の解説と観点ならアート以外でも何でも楽しく読めそう。日本人の苦手な聖書トピックから、大人気の血みどろヨーロッパ王家、ギリシア神話、古典ものなど幅広く網羅。
↓
・・・という経験などがあったあとで、オランダに来てコレクションの素晴らしさに対し空いている美術館に驚き、喋っても写真を撮っても床に座っても怒られないことに感動しました。
真珠の耳飾りの少女も超近くで見れるし、ゴッホのジャポニズム展も3周したし、バベルの塔なんか日本から帰って来たのを出迎えました。
トルコの博物館も庭に石柱は横倒しされてるわ、猫は自由自在に出入りするわで無法地帯だった。
全体的にゆったりしてるから小声で話す程度なら誰も咎めないし、子どもが走り回ってても全然余裕。
より作品と人間がインタラクティブであるなぁと思いました。
それは飾られるのみで、自ら言葉を発する術を持たない作品にとっても良いことなんじゃないかと思います。
そしてワタクシの永遠の憧れでもある、アンドレ・ブルトン的なことをやってみたかった。
「私の好きな作品群はシュルレアリスムとします!(バーン!)」→本になる流れとか、最高じゃないですか。
自分の好きなもの群を系統付けて新しい名前をつけるって意外と大変そうだけど...
でも多分いわゆるアートの〇〇派なんてだいたい後付け的だし、後世のオタクたちによって名付けられたものでしょ。
澁澤龍彦も大絶賛のキュレーション力。確かこの本で『聖アントニウスの誘惑』(多分表紙?)というキリスト教版百鬼夜行・魑魅魍魎な賑やかでドストライクな主題を知った。ウンベルト・エーコも芸術集大成的なことをしたけど、守備範囲の広いブルトンの方が個人的には好み。こういう本は青山ブックセンターが強い。
↓
あと最近遠方の友達と電話してて気が付いた。
好きなものや人を褒めるのめっちゃ楽しい。
「頑張って」とかじゃない、そのまま十分頑張ってるから!あなたは!!!
Facebookのいいね(ハートその他もあるけど)で終わっちゃもったいない。
電話で話すように具体的に褒めちぎりたい。
スクロールしてボタンを押すだけなら、回転寿司で流れてくる皿を「美味しそ〜」と思うのと同じ。
自分で選択し、手を伸ばし、皿を取り、実際に咀嚼しなければ。
そこで初めて、単なる情報の集合体だと思っていたものが意味を持ってくるのではないかな。
これは情報過多・飽和社会でいちいち実行するのは不可能に近く、だからこそ「いいね」が開発されたと思うんですけど、ほんとにこれは記事にしろ何にしろに対し、自分の思いを数値化できているのだろうか。
というか、単なる数値化で終わっていいのかというね。
好きなものくらい、自分の言葉で表現したい。
直感的に好きというのも超大事な感情だけど、それもいっぱしの説明になりますからね。
...というわけで今回は私の好きなアート作品を、ブログ上ではありますが激励したいと思います。
応援上映ならぬ応援鑑賞?熟語の前半と後半の相性の悪さハンパないけど。
長ったらしい解説はなく、単に好きなものの好きな部分を褒めるという完全に自己満足な仕上がり。
絵画という表現の自由に鑑賞者の表現の自由を重ねた、タブルチーズバーガーです。
(これからこういうわけのわからない比喩がたくさん出て来ます)
作品間の流れは意識したけど、順不同!!!
文字だけなのに私のうるささを知っている人はすごくうるさく感じるかも。
スタート!
現在の私の好みを大まかに言うと「色をたくさん使ってるのに統一感がある」作品が好きです。
この嗜好に気が付いたのは、やはりオランダの誇るピエト・モンドリアン先輩のおかげかも。
いわゆる完全体の赤黄青黒白になるちょい前の作品が好き。
印象派の影響を受けつつ、自分の味を出そうとしている...
\\\\取り込まれたい////
形もかわいすぎ....
ほんのりくぼみが赤くて、赤血球みたい。
絶対に何か受け止めてくれる形ではある。
ツモリチサトの可愛さの破壊力の高い色合いもここら辺から来ているのではないか。
かわいいのに毒がある、きれいなものには棘がある!
アメルスフォールトのモンドリアン美術館は小さいながらも粒ぞろいでしたよ。
モンドリアンがカラフル→モノトーン・三原色に行ったなら、その逆はオディロン・ルドンかな。
\\\\空は青だけじゃない////
初期の人面花とか人面蜘蛛とかもティム・バートンぽくて好きだけど、この時期の開放感のある作風には敵わない。
タイトルにアポロンて入ってるのに、馬のテンション高すぎて全然頭に入ってこないし。
一番好きなのはキュクロプスの絵だけど、エピソードが悲しいから載せない(詳細は前述『怖い絵』参照)
下の部分が黒いのは奈落の底かもしれないけど、イカロスじゃないので落ちても死なないっしょ。
色はビビッドになるけど、動物の生き生きした感じはフランツ・マルクが最高だと思っています。
\\\\ていうか動物どこ////
このレベルになると、動物を生命の輝きレベルで見ることができるんでしょうか。
共感覚的な...?
描写にしたって、オノマトペ以外で説明できなくない?
目のやり場にも困るな〜縦横無尽で、どこから始めればいいのか。
私はまだまだ馬のお尻(?)くらいしか見えません。
まだ原型をとどめている動物のシリーズもあって、なかでもネコ科が可愛くっておすすめ。
ここらへんから幾何学模様が多くなってきます。
そしたらパウル・クレーだ。
\\\\いつか夜の仄かな闇から現れ出て////
テンションが上がりすぎてタイトルを叫んでしまいました。
この作品は神保町の古本屋街で運命的な出会いをしたんです。
原始的であり神秘的、複雑な色使いの中での統一感、といった言葉では表しきれない。
初めて色鉛筆を買ってもらった子どもの遊び心の結果にも見える。
四角を組み合わせて色を塗るだけで、こんなに表現の幅があるものなのか。
このパッチワーク的な作品と関連してバウハウス・テキスタイルという可愛くて悶えるシリーズもあるよ!
興味のある方は調べてみてね。
クレーの相方はヴァシリー・カンディンスキーかな?
\\\\万華鏡と顕微鏡のマリアージュ////
まっさらな空を見上げるときに、誰しもプランクトンみたいなのが見えるじゃないですか。
それがなんなのかはよくわからないけど、多分カンディンスキーが空を見上げたときに彼の目にはこう映ったんではないかと思う。
太陽でチカチカしてるのも相まって、微生物っぽいのがカラフルに見えたのかも。
そんな目の不純物をゴミと捉えずアートに消化する目の付け所がさすが...!
他の作品はその音楽性のせいか結構圧倒されてしまうものが多いんだけど、これは親しみやすかったのでポストカードを購入しました。
ミカヅキモとかミジンコとか懐かしい。
サイズ大きめにマーク・ロスコ!一番のお気に入りかも。
\\\\邪道にして王道////
まず何よりも、エネルギーがすごい。
これだけ有無を言わせない自信の満ち方を見せつけられると、たじろいでしまう。
でも絶対そこからもらえるエネルギーはマイナスじゃない。
方向的に丸く包み込むというより、前から受け止めて後ろから押されるので、多分同じ絵を自分を挟んで両側に置いたら体内の磁場が狂う。
大好きで大好きで何度も見ているけど、いつか実物を見て日光浴ならぬ絵画浴がしたい〜
このアーティストはイカす美術教授に教わりました。
うーん、さすがにロスコ相手はちょっと疲れてきた。
波動パネぇって!
箸休めにはならないけど、気分転換にはなるかな、ロイ・リヒテンシュタイン。
\\\\貫きたいからこそはみ出す////
ただのアメコミ完コピおじさんかと思ってたらそんなもんじゃなかった。
これも偶然出会った作品。
見えるね、一度完全体を崩してみたくなる衝動がね!
でもそれは明確なゴールあってこそ。
タイトルのimperfectも納得で、否定形の接頭辞も元からある単語に付け足すもの(im)で、必ずしも不完全→完全ではなく、完全→不完全という流れもありなんじゃないか。
相互補完ですね。
やばい。ここまで抽象的な絵を相手にしてると文体が占い師みたいになってくる。
Moco Museumの展示、最高でした。
次はポール・スミスよりおしゃれだと私の中で話題沸騰中のブリジット・ライリー。
\\\\水面か森林か夕焼けかどこにいるの〜////
美しい自然を目の前にして、一体化する錯覚は誰しも経験があって、きっとこれはその視覚化したのかな。
クレーもそうだけど、こういう絵ってどこから書き始めて、何色から塗るんだろう。
斜めな四角形がゆったりした流れを作ってるけど、この色使いで落ち着き方は反則でしょ〜
エル・グレコくらいグイグイ三原色押されると引いちゃうんだけど、この人やデ・ステイル作品の引き際の良さというかなんというか。
今気がついたけど、両側に置いている色が暗めなので真ん中が浮かび上がるように明るく見えるぞ!
最後に、この方をもちましてを一度総まとめとさせていただきたい。
\\\\全自動博物館おじさん////
まさかのインスタグラムからこんにちは。
正直一番好きな作品群はこれじゃないんだけど、その中でも全体の代表な気がした。
(架空沈没船を引き上げたベネツィアのシリーズが一番好き)
この狂気じみるほど整然とした色を並びといったら。
作品"群"というのも、彼の作品が多岐に渡るなかで必ずグループ化できるから。
そしてグループ間をつなぐキーワードが「コレクション」だと思う。
当たり前かもしれないけど、グループ内とグループ同士の作品群を全体像として見たとき、矛盾なく創作するというのはとても難しい。
何よりも作品量がとてつもないし。。。
コレクターと作家が一つの人間に存在することって有り得るんですねぇ。
<まとめ>
ダミアン・ハーストのコレクション/制作の仕方と、紹介してきた絵たちの「色々な色を使用するのに違和感がない」というのは似たようなものじゃないか。
これも人間の欲深さというか、自然にある色(もの)に名前をつけることで支配し、敢えて並べたり混ぜたりもしてみたい。
そうやって出来上がった作品は一目では違和感を感じるものの、おそらく誰しもが心の奥底では持っている欲望を具現化したものなので、見ているとなんとなく落ち着くのかな。
征服欲が満たされるというか。
それが色を研究し尽くした一流のアーティストによるものなら尚更なのかも。
そもそも「何かを描く・表象する」というのも、始まりは対象物に対して完全に一方的な行為だと思っている。
古代ギリシアの彫刻家のなかで「一から彫る(=作る)のではなく、もとから石のなかにある像を彫り出すのだ」みたいなこと言ってる人もいたけど。
難しい!難しいよ〜!
でも一方的に作り上げて出来上がった作品が、これまた一方的に発信するよりは鑑賞者と何らかの形で話せたほうが楽しいんじゃないかな。
すでにこの世にいない作者にとってはファンとの唯一のコミュニケーションツールであるし。
考古学もモノに対する再解釈が可能であり続けるから面白いのであって。
以上は厳選した作品で、もちろん今回だけで紹介しきれなかった作品がまだまだあるのと、次は絵画だけなく建築・写真・イラストなども入れられればと思います。
日本の現代のイラストレーターはたくさん好きな人がいるんだけど、もう少し古いと全然知らないな〜
私の知る限り日本芸術で紹介したなかで上の作品群に似てるの、田中一光くらいか。
浮世絵にインスパイアされてる西洋美術は大好物だけども。
以下は次回の参考文献です。
タッシェンさまさま〜!
もちろん表紙はロスコ。
あと理論を深めたいので、余力があればゲーテの色彩論でも読むかな。
ゲーテほど全て事象に対するオタクもいないかも。
人生が足りたのか不安。
他分野の専門同士で話しててこの人に行き着くことが多い。
そうそう、きっかけは忘れたし何が何だかわからないけど気になってるシュタイナー
日本のアートブック出版社の中でイチオシのパイ・インターナショナルも新刊で良い本出してるんだこれがまた。
デザイナーのためじゃなくて、鑑賞者にもヒントになることが多そう。
前にも紹介したかもしれないけど、色を研究することは認知科学と文化人類学、言語学など幅広いです。
これは2017年の激おすすめ本。
それでは、また!
書店定点観測:東京⇆アムステルダム
今年の北半球はどうかしており、普段は冷夏のオランダさえも40度に達した、と思いきや八月下旬の現在はすっかり秋模様です。
夏は脳みそが沸騰して読めなかった本にもじっくり取り組みたい季節になってきました。
以前書いたかも知れませんが、私は本そのものや読書という行為よりも、どちらかといえば本を含めた本のある環境が好きなのです。
となるとやっぱり本屋が好きで、見かけると吸い寄せられるように入ってしまう。
それは世界のどこにいても同じなようです。
現在住んでいるオランダでもいくつかお気に入りの本屋さんが見つかりました。
今ではアムステルダムに行く用事があるときは必ず通うようになりました。
今回はオランダに住んで半年が経ち、ほぼ月イチのペースでアムステルダムの本屋さんを定点観測していて、東京との違いに気がついたことをまとめたいと思います。
(ちなみに東京では少なくとも3日に一回のペースで何かしらの本屋に行っていました。毎回買うわけではないけど。)
主に以下の三点になります。
- 見つけるのではなく、見つかる
- おすすめを構える
- 書籍の入れ替わりのペース
1. 見つけるのではなく、見つかる
世界にどのくらいの本が流通しているのかは知りませんが、途方も無い量であることは確かです。
たかが人間の短い一生のうちに全て読み切るはずもなく、どんなに読書量の多い人でも読む冊数は非常に限られてきます。
そんななかで「読みたい本を自分から見つける」というのは図々しい気がしてきました。
経験したことがある方も多いかもしれませんが、自分に合う本は自分を見つけてくれるんですよ。
なんかふと目に入って、理由はわからないけど目が離せない。
本屋さんも同じで、ぼーっと歩いてるときになぜか看板を見つけて入る。
この偶然が非常に大事だと思います。
私たちはインターネットが発達した結果、自分で探せばどんなものでも見つかるという錯覚に陥っているのです。
でも実は全然そんなことはなくて、検索して辿り着ける情報なんてたかが知れている。
偶然だろうが必然だろうが、虚構だったとしても「運命を感じる出会い」というのはこのご時世に必要なことだと思うんです。
そんな貴重な体験を本屋さんは教えてくれます。
今やほとんどFacebookと同義語になったTinderもこの虚構性の上に成り立っていると思います。課金バージョンはどんなのか知らないけど。『でああす』も関連してるかな↓
2. おすすめを構える
とはいえ、どんなに魅力的な本でも初対面で衝動買いすることは少なくなっているような気がします。
私が両都市の本屋さんを通いつめて気がついたのは、各書店のカラーとも言える推薦本の扱い方でした。
人間は単語でもなんでも繰り返し目に入るものを比較的覚えやすい傾向にあります。
それは本とて同じで、本当に本屋として特定の本を売りたかったら、何かしら目に入る仕掛けを本に纏わせるはずなのです。
アムステルダムの本屋さんは、比較的その傾向が強いように思います。
老舗の居酒屋みたいに表立ってメニューは置かなくても、常連なら絶対頼むものがある。
しかしこれは何度か通いつめなければわかりません。
私が驚いたのは、アムステルダムの大半の書店は半年間そのおすすめがほとんど変化していないことです。
行くと絶対いつもの場所にいて、目に入るようになっている。
流石に3回目くらいになると思わず手に取ってしまう。
違う本屋で同じ本を同じようにおすすめしていたら、さらに気になりますよね。
数カ月に渡る積ん読後、やっと読み始めたオルダス・ハクスリーのメスカリン体験記。言語中心の世界を否定しつつ、視覚を言語化できる点においてこの人の右に出る者はいないだろう。↓
3. 書籍の入れ替わりのペース
東京は本の入れ替わりが激しかった。
3日に1回行っていても、毎回どこか変化している。
私はそのペースに慣れていたので、こちらに来てからもツイッターやインスタグラムで本屋さんや出版社をフォローして、ほぼ毎週くまなくチェックしていました。
アカウントも相当マメで、ほぼ毎日新刊情報を発信している。
でもこれは1.で書いたことと真逆で、やっぱりこちらから踏み込みすぎるといけない。
何よりも読みたい本の題名をメモするだけでも一人の人間の脳のキャパシティを超えてしまって、読むことが追いつかない。
アムステルダムの本屋さんは、まずおすすめをどっしりと構え「ウチに来たならまずこれ読んでみな」と言ってくる。
出版のペースに惑わされずに、まあ落ち着きなよと。
古典もなかなか良いよ、表紙も素敵なバージョンが出たし、といったように。
これは一見「本を売る行為」から離れているようで、結局一番読者および消費者に寄り添っているので、結果的に売れ行きにも繋がるのではないかと思います。
日本語でも英語でも読んだ、言わずと知れた世界的名著。インスタグラム(rupi kaurさん(@rupikaur_) • Instagram写真と動画)でフォローすると詩が無料で読める。ポジティブバージョンの新刊も良かった↓
結論
何事もスローペースが良いなんて言うつもりはありませんし、現実的ではありません。
(いまだにオランダの事務手続きの遅さに辟易しています。日本のアマゾン過剰再配達も今となってはどうかと思うけど。)
一方で、東京のペースで本屋に通い、東京のペースで本を読んでいた私としては、本に限っては急いで探して読むものでもないし、量を競うべきものでもない。
でもそれが東京にいると起こってしまっていた。
本も結局情報の一部なので、効率よく取り込みたい気持ちがあった。
こちらに来てから本屋の構え方の違いを見て、無理をしなくなった。
読む言語が主に英語になって日本語より読むペースが遅くなったとも捉えられますが、なんとなく生活全般に言えることのような気がします。
日本の大学からのアンケートでも何を読んだかではなく、一月の読書”量”を聞かれることが多々あったんですけど、あれってどうなんでしょうね。
一回自分が読みたいタイプの本をいくつか読み始めて見つけたら、感覚さえ研ぎ澄ませていれば、あとはなぜか芋づる式にあちらから出てくるものだと思います。
キーワードでもジャンルでも、なんでも。
もちろんお気に入りの本屋さんを見つけて、そこに全信頼を置くも良し。
だからこちらから無理に探すこともない。
「読書量をこなしたくてもどうこなせばいいのかわからない」と思うのも贅沢な悩みで、且つ読書にハマり始めたときの醍醐味でもあると言えますけれども、乱読も結局限界があるので無理して全く興味のない本を読む必要もない。
ダニエル・ペナックも『読者の権利10カ条』に「読まない権利」を真っ先に挙げていますしね。
出版不況だからか競争社会だからか、本読みを自称していると「月に何冊読むの?」という質問はよく聞きますが、それよりも「好きな本屋さんは?」「おすすめの一冊は?」といった言葉がより投げ交う世の中になってほしいなと思います。
子どもに「本を読む」と言う能動的行為の強制というよりは、受動的な行為を仕掛けることで読書に引き込む仕組みを紹介した画期的名著。すでに本好きの大人でも新しい発見があるはず。↓
そろそろどの本屋の話をしているのか気になってきたと思いますので、紹介したいと思います!(順不同)
東京
良い本屋さんのある街は、良い街!
・青山ブックセンター本店
行きつめた六本木店の閉店には胸が痛みました。平成最後の恥。
・本屋 B&B
隠れ家にもほどがある。改装した新店の奥行きが嬉しい。
・かもめブックス
最高な坂の上に最高な本屋さん!行くと3周はする。
・代官山 T-SITE
ゆっくり座って読める本屋の存在をここで知った。実は渋谷から歩ける。
狭いわけでもないのに、階段と階数が多い本屋が多い。
・The American Book Center
青山ブックセンターの生き写しかと思った。大好き!
・Waterstones Amsterdam
イギリス初、ABCの異母兄弟(個人の意見です)。二階?の詩集コーナーがおすすめ。
・Athenaeum Boekhandel
上の二つと非常に隣接している。いくつもの階段で完全に迷宮と化している。
・TASCHEN
美術出版社の大御所らしく、美術館エリアに近接している。豪華な見た目の割に値段が安いので、店ごと買いたくなる。
今回は様々な点を考慮して各都市四つずつに絞りましたが、まだまだおすすめがありますし、教えたくない本屋もあります。図書館も素敵なのがいっぱい。
それはまた別の機会に!
長編が読めない
人間はラクなものに流れる方向にある。
上半期の授業を終えた最近の私が非常にいい例であるが、高い生活費・学費を払ってもらっているにも関わらず、こんな生活を送っているとは口が裂けても言えないほどだ。
さて、私は長編が読めない。
映像でも連続ドラマやテレビシリーズにはまった試しがない。
小さい頃テレビを見る時間が制限されていたことが影響しているかもしれない。
月曜日、ブラックジャックのあとのコナンは見せてもらえなかった。
いや、それかもともと飽きっぽいからだ。
だいぶ前の話になるが、プリズン・ブレイクもプリズンがブレイクする前に見るのをやめた。
ハリー・ポッター、ロード・オブ・ザ・リング、スターウォーズなどなど、断片的には見たり読んだりし、素晴らしいとは感じたものの、一から全部見る気にはとてもなれなかった。
ちなみにゲーム・オブ・スローンズは元彼に「見ないと人生の半分は損してる」と脅されたが、付き合いはじめたときには3シリーズ目などだいぶ進んでおり、当時そんなに一気に見る時間もなければ、よく考えてみれば彼と過ごしていた時間の方が人生において損をしている、と思うに至ったためもちろん見ていない。
強いて「追いかけている」と言えるのは漫画のワンピースくらいだろうか。
でもこれはもはや意地というか執念というか、この作品に魅了されてしまった人の定めだと思う。
ちなみに最近、躍起になってナルトを全巻(72巻)読んでみたのだが、ワンピースとの作品の作り込み方の違いに圧倒させられた。
この二つはほぼ同時に連載が始まったものだが、二つがお互いを生かし続けたのも畑が違いすぎたからだろう。
画のスタイルからストーリー設定まで、何もかも違う。
前者ではあくまでナルトとサスケという二項対立が決してブレない(「もうサスケは諦めたら?」と後半は思うほどだ)一方、後者は内容と仲間と敵と伏線が増殖し続けている。
ワンピースの収集のつかなさに不安を覚えはじめているのは私だけではないはずだ...
作者の頭の構造に私がついていけていないということももちろんあるとは思うが。
それはさておき、振り返ってみると私が今まで紹介している本の中にも長編はほとんどない。
短編集やオムニバスがほとんどであり、学術書でも各章毎に切り口が全く異なっていてこの私でさえも飽きさせないものが多い。
その原点は星新一にある、と今ふと思った。
ちょうど私が小学生の頃に、和田誠が装丁を手がけた非常に親しみやすいショート・ショートセレクションが刊行されたのだ。
本のサイズもフォントも明らかに子ども向けで、学校の図書館にも地元の図書館にも児童書コーナーに置いてあった。
しかし内容は全く子ども向けではない。
私は私の人格の欠点を周りのせいにするのを特技としているが、あんなものを読ませたらすごくめんどくさい奴になるに決まっている。
まず、たいていの内容がSFというのがさらにあざとい。
星新一なんて名前もSFすぎる。
SFを嫌いな子どもがいるだろうか。
また、彼の作品はSF作品に期待されるべきである「異世界に連れて行ってくれる」効果を持つだけではない。
子どものときは異世界に連れて行かれたままだと思い込んでいたかもしれない。
短時間ですぐ酔えるショットのお酒みたいだ、とあの頃とは違い、お酒を知るような年齢になってしまった私は例えるが、少なくともショットのお酒はすぐ酔えて、ずっと酔える。
しかし彼のショート・ショートはそうはいかない(ショットとショート、似ていますね)。
つい読み終わったあとに後ろを振り返って現実を確認したくなる、そんな恐ろしさがある。
そしてパステルカラーとソフトタッチの表紙にそぐわず、意外とアダルトな描写があっても教科書よりも綺麗な字体でゆったりとした字間の中に書かれていると、これはありなのかな、とも思ってしまう何かがあった。
その点ではお酒を飲んでいるのに気がつかない、ロングアイランドアイスティー的な要素にある。
単にお酒の話がしたくなっただけ!
ショート・ショートの他にも、私の射程距離圏内であった小・中学校や図書館はなかなか選書のセンスがよかったと思う。
よりみちパン!セ シリーズ(再スタート、心から嬉しく思います)や、はじめての文学シリーズなど、なかなか粒ぞろいであった。
今でもいつか揃えたいと思っているのはロアルド・ダールのシリーズだ。
「魔女がいっぱい」の映画がリメイクされるらしいが、未だにそんなことが起こるなんて彼の作品ならではだろう。
ロバート・ゼメキス監督はあの作品の魔女たちの皮膚感や、ポップな言葉の中の残酷さを映像で表現しきれるのだろうか。
それ以上に有名で、映像化にも比較的成功したといえるのはチャーリーとチョコレート工場の秘密であろうが、もっと短くてスパイスが効いたものが山ほどある。
小学生たるもの、ダール作品からスラング、いやちょっと背伸びした言葉遊びを学ばずして小学校は卒業できまい。
そして忘れてはいけないのが挿絵画家の存在で、先ほども星新一と和田誠を挙げたが、ティム・バートン(監督)とジョニー・デップ(ミューズ)以上に、ロアルド・ダールにはクエンティン・ブレイクが欠かせないのだ。
これを両方やってのけてしまえるのは、さくらももこと東海林さだお(丸かじりシリーズ)くらいである。
この二人がなぜ私の好みなのか、もうお分りいただけると思うが、二人の共通点は刊行しているシリーズは長いが、作品間の連続性はない。
もちろん一貫したテーマはあるが、さくらももこはエッセイのみならず漫画でさえエッセイ的だ。
ああ、久しぶりに読みたくなってきた...
このように子ども向け(?)の本というのはいつも侮れないもので、タチが悪いのが大人になってある程度お金を持つようになってから大人買いをしたくなる仕組みになっているのである。
漫画なんて、全巻セットでも古本ならば安いものである。
私はもし子どもができたら、ハタチかそこらで狂ったように大人買いをしないために漫画くらいは買ってやろうと思う。
小・中学生の頃お金がなかった私は、しかし古本屋でブラック・ジャックの秋田書店の単行本版は全巻揃えると決めた。
ちょっと汚いものならすぐに百円になるからだ。
手塚治虫は"たくさんの"作品を産んだと言われているが、"細く長く"ではなく"広く浅く"であった。
いや、”広く深く”だ。
それが彼を漫画の神様たらしめた所以であるように思う。
シリーズものでも10巻を超えることはほとんどなく、超えることがあってもブラック・ジャックのようにオムニバス形式となっている。
彼自身のアンテナや知識が網羅している範囲がそのまま作品群に投影されており、様々な入口が用意されている。
そこには性別も年齢も関係ない。
同じ作品を読み返してみるもよし、黒手塚に挑戦してみるもよし。
と、このように飽きっぽいにも関わらず私が本好きを自称できているのは、運よく粒ぞろいの作品に出会えたからだ。
その傾向は今でも変わらない。
留学先でせっかくなので英語漬けの日々...と思ってもやっぱり長編には手が伸びず(ペーパーバックの軽さと厚さのギャップが無理)、今では詩集に手を出す始末である。
サンドラシネオローズの本は詩とはちょっと違うけど、復刊で話題になったマンゴー通り、ときどきさよならを英語で読んでみた。
口語だけど、いやだからこそ、力強い文体だ。
あとカート・ヴォネガットの未発表作品集とボルヘス奇譚集が読みたい!
また、このブログを書く主な理由の一つとして、ツイッターのタイムラインに流れてきた#54字の文学(または#54字の物語)がある。
#54字の物語 pic.twitter.com/m2l1EKm124
— 3万人と不璽王 (@kurapond) July 3, 2018
このプロジェクトはすごくて、私なんかは挑戦してみようとも思わないくらい難しい。
140字で精一杯なのに、54字って...
日本語はインターネット上の言語の多くのパーセンテージを占めていると同時に、英語よりもはるかに少ない文字数で情報を伝達できると聞いたことがある。
とはいえ54字よリも、はるかに少ない文字数で表現する、短歌とか俳句に関しては想像を絶する。
このミニマリズムの傾向は、少なくとも私の周囲では無視できないものとなってきている。
今住んでいるオランダもデ・ステイル、ミッフィー(本名はナインチェ)をはじめとした洗練されたデザインが溢れている(一方で細密画家のような「バベル」のブリューゲルとかヒエロニムス・ボスとかが一昔前に存在していたのがオランダの面白いところ)。
最近会った、私よりも日本らしいお弁当を毎日持参するイタリアの友達にMUJIのアルミ製シャープペンシルを誇らしげに見せられたばかりだ。
何よりも、あの無意味な長編記事が強みのオモコロが文字そばシリーズを導入した背景にはインターネット界のツイッター以上のミニマリズム化の波が押し寄せているのではないのかと疑うほどである。
しかし、人生でいろんなミニマリズムに出会ってきて思うのは、ただミニマルに収まっているだけではダメである、ということだ。
"大は小を兼ねる"ならぬ、”小が大を兼ねる”ものでなくてはならない。
ここで最初の一文に戻るが、長編が読めない私はラクをしている訳ではない、という結論に至る。
少なくとも読書においては!
....というあくまで自己肯定のための文章を書きたかった。
とかいって、なんだかんだ一年くらい続いてるブログ!
このブログが更新できる程度の余裕がある人生をこれからも送っていきたいものだ。
それでは、また!