ノス滾(たぎ)ルジー、あるいは80年代時代設定クライムドラマ(ACS/AHS/WWK)
まぁ、まず私はバリバリの平成生まれのピチピチの20代ということなので、生まれてもいなかった80年代を懐かしむというのはちゃんちゃらおかしい話なのですが、今風の言葉を使うとしたらエモくないっすか?80年代。
エモいという単語は敢えて使ってはみましたが、本当はあんまり好きではなくて、なんだろう、またあの「新しい単語が生まれることによって従来の多様な表現が集約される」言語の生き物としての自然淘汰的性質以前に、字と意味と音がちぐはぐな気がします。
「エモい」という字面と発音が、エモくないんですよ。
そう考えると「エロい」ってすごいな、カタカナでもひらがなでもえろいし、音もエッッッッロ!!!!
同じ外来語の『接頭辞(emo/ero)+い』で構成も同じはずで、なんなら一字違いでしかないのにこの違いはなんなんだろう。
そういうこというと令和キッズに年寄り扱いされそうなので、エモいの悪口はここまで!
正直に告白しますと書いている今は11月22日で、世間ではいい夫婦の日だのno nuts Novemberだのイベント盛りだくさんで、ハロウィンとクリスマスの間にも休ませてもらえない11月、しかも後半なんですね!
(書いてしまったので短めに日英の11月のイベントの捉え方の違いに触れておきますと、日本語では11月を11の並びから「いい〇〇」として記念日化しますが、英語ではNovemberからNoを連想し、月全体で「何かをしない」方向に持っていってます。Novemberって呼び名的には日本語に匹敵するのは霜月だよな、とかまた考え始めちゃう)
まぁでもはてなブログのいいところは公開日を過去に設定できる...だから10月31日公開ということにして月一更新という体裁は保たれる...やったァ〜〜〜〜!
自己満足とはいえ何かを形式的にでも継続するというのは、こういう#時空歪みハックが必要となってきますね。(ハッシュタグであなたのハックもシェアしよう!)
話を戻して、80年代はやっぱりエモくないかな。
大義のエモいという意味において、エモくないんですね。(因数分解しま〜す!)
80年代って「良い過去」ランキング1位だと思うのですが(下位は知らん)、傍観者が「フ〜ン、そんなこともあったな、良かったな〜」って思うじゃないんです。個人的には。
おそらくその感情が現代っ子の言うエモさで、主体/客体の構成でいったら"傍観者"といって、受動的にしておきながら過去を過去たらしめているのは他でもない彼らなんだよな。
英語でいうと"clystalize the past"という感じでしょうか、いや、よくわかんない、今思いついたわ、うん、でも結晶化/固形化することで過去を現在から切り離すみたいなニュアンスが伝われば^^
一方、私が80年代に抱く思いはもっと参加型というか、80年代に巻き込まれていくイメージ。
80年代が巻き込んでいく。
80年代が主体なんです。
で、この巻き込まれているうちに体の内側から湧き上がってくる何かがあるっていうか...
80年代に接すると滾る、血湧き肉躍るというのが私の80年代に対するスタンスです。
だからタイトルにあるように「エモい」とは別に「ノス滾(たぎ)ルジー」にしちゃった。
絶対広まんね〜wwwwww
まあいいとして、この考えの元になったのはおそらく80年代のに青春時代を過ごした両親をはじめとする周りの大人たちの影響が多い、しかも幼少期からの、というのはあるんでしょうが、記事を書きたいと思わせてくれたのは最近見たドラマたちなんです〜
まずはVERSACE (American Crime Series 2)という、Netflixで見つけたドラマ。
これはね〜〜〜、以降紹介する他のドラマにも共通するのですが、色使いがすごい。
タイトルにある通りベルサーチ、言わずと知れた大御所ブランド(私の最初の出会いは嶽本野ばら先生の『下妻物語』です笑)のデザイナー、まあベルサーチ、そのまんまかよ、が殺されたんです。
その殺人に至るまでの経緯を主に犯人視点で描いています。
けどそんなことどうだっていいッ!
俺が欲しいのは、カルフォニアの太陽の下に燦然と輝くプール付きの大豪邸が、奇しくもそのオーナの血によって染められる、ギリシア悲劇的情景なんだよッ!
ちなみにベルサーチはイタリア発。
うん。
劇中に出てくる時代考証を重ねに重ねあげた衣装やドレスそのものも最アンド高なんですが、それらの血の色との相性の良さったらない。
全体的には鈍く光るメタリックカラーがまとめ上げているのですが、陽気でゲイな(本来の"明るい"とセクシュアリティのダブルミーニングで)パステルがあったり、派手派手なパーティのネオンがあったりと、こんなに色々なで異なった性質の色たちが調和するものなんだろうか....
ヴェス・アンダーソンを始めとした画面全体の色にこだわりが強い監督というのは多くいますが、このドラマのすごいところはあくまで当時の時代や状況に即しているところ。
カラーランとかいって一時期ゆとり世代が走りながら色を撒き散らしたりしてましたが、そんなもんじゃねぇから、こっちはリアル・色のトマト祭りだから。
しかもそれでいてカオスじゃない。
目に入れても痛くない!(イナバの「百人乗っても大丈夫」的な)
と私の中の色ヲタ興奮冷めやらぬ中、構成も素晴らしいので触れておくと、犯人は連続殺人鬼であり、大本命のベルサーチを殺す前に恋人だったり、パトロンのおじさまだったりと、殺し歩いているわけで、でもそれが時系列で描かれおらず、むしろ最後に起こったベルサーチの殺人から逆算していく。
だから正直ストーリーを追いにくいところはあります。
でもその構成もことごとく犯人目線で考えた結果なのかな、というか、「まずゴールありき」というか....
あとは俳優ですが、私の一押しはベルサーチの妹であり現在もご活躍中のドナテラ役のペネロペ・クルス先輩ですかね...(『それでも恋するバルセロナ』最高だよね〜)
英語のイタリア訛りのアクセント(ペネロペご本人はスペイン出身)から、どギツいアイライン、そして最愛の兄/デザイナーとしての大先輩を亡くした妹としての役柄まで、彼女がやっぱり、生き証人なんですよね。
でもそんな一番の被害者としての彼女を物語の中心とさせない、「崇拝するデザイナーを殺す」ことを最高の崇拝の形とする猟奇殺人鬼が圧倒的です。
このドラマが今この現代に作られたことの大きな意味として、やはりセクシュアルマイノリティーの方々のため、というのが一番大きいかもしれません。
トレンドという意味合いではなく、やっとだね、という意味で。
作中の加害者・被害者たち両者がゲイであり、何よりもベルサーチというブランドや本人そのものが彼らにとってのエンパワーメントであり、当時のマジョリティからの偏見が事件捜査を遅らせた、といったようなことも見えてきます。
もちろんそれは本当に現代社会にとっても当時に大事なんですが、私個人としては、まとまったお休みが取れて、もしおうちに大きなハイビジョンのスクリーンがあったら、バスローブと赤ワイン片手に色の洪水に溺れてほしいな...と。
そういう風に見てほしいドラマです。
まずは字幕とかも外して、ストーリー展開も感覚だけで追いかけるものとして、バスローブから出てる皮膚や感覚器官の全てで画面の色から発せられるエネルギーを感じてほしい。
没入感ともまた違うんだよな、絶対自分の身には起こり得ないことなんだけど、なんか目から入った極彩色が、その色にしか刺激されない脳細胞を刺激するんですね。
そういった意味で鑑賞体験の内在化が早い、もう考えないうちに体に浸透するわけです。
私は決してドラッグの話をしているわけではないです。
サントラも最高で、私なぜか今年の夏にバイトでよそのお家の草むしりしてたんですけど、聴きながらだとベルサーチ邸の召使いっぽくて無駄に捗りました。
メデューサのモザイクが散りばめられているプールとかはなかったけど。
あ、親しみやすい比較対象としては蜷川実花の作品を3Dプリンターで印刷したものを触っている手が映像を見ている感じです、スマホの小さい画面で見てるのに...!?ヘルタースケルター!!!
個人的にはオルダス・ハクスリーとかにも見せて感想聞きたい。
私は隣で「今、あの質感"感じ"ました!?」とか耳元で叫ぶ。
次は、友達から教えてもらって見始めたWhy Women Killですね、これもイイ!
これは大まかにいうと60年代・80年代・現代に渡って同じ屋敷で起こった別々の殺人事件、しかもタイトルの通り女性が殺す側、についてのドラマです。
リヒテンシュタインぽい絵柄で、早速殺しまくってるオープニングもいい。
先述のベルサーチと同じで、犯人はもうタイトルと最初の数エピソードでわかっているわけです。
女性の主人公、妻役の人たちがどう考えても男、しかも夫を殺すんだな、と。
ある程度予測がつく。
笑っちゃうくらいこの夫勢がどうしようもないので、(ここ漢字「去勢」ではないです)まあ殺されて当然だよね、となるわけですが、でもその経緯や方法は千差万別で、もちろん時代背景も影響していて...
構成としてはそれぞれの時代を同じエピソード内で入り混じりつつ描いていくわけなのですが、なにせ同じ家で起こっていることなので、風景が被るとことかがあって、そこを合えて被せるようにしていて、場面の切り替えなどがいいです、とてもいい。
でもやっぱりこのブログでは滾り80年代のお話をしているので、ルーシー・リュー先輩が妻役を演じる80年代のパートが全体を通して私はお気に入り!
チャーリーズ・エンジェル、キル・ビルと、若い頃もやんちゃさで名を馳せていたバリバリのザ・元祖Badass Bitchな先輩ですが、現在もお年を感じさせないほど。
若ければいいという意味ではもちろんなく、かといって年齢に合った役を演じているからいいというわけでもなく、オーラですね、オーラ。
見た目やファッションもバリバリ現役なのですが、私は特に話し方に惹かれました。
小さい頃に見ていた映画の中では、もちろん日本語吹き替えであったりして彼女の声というのを意識してなかったのですが、アートコレクターで上流階級の、といってもやはり80年代ですから、それでもなんつうかな、とりあえずプライドの高い女性、たまんね〜!
早口で、切り返しも早くて、たまに裏返るのがグッド....
そういう99ツンツンな人がたまに1、ツンになるときがね...(ツン対デレではなくツンツン対ツン)
ただでさえ少ない読者がほぼ皆無のブログで、そしておそらく日本でも放映しない海外ドラマについて日本語で書いているということは、実際にこのドラマを見る人がこの記事に巡り会う確率は、チャン・ツィー、ファン・ビンビン、コン・リーが実は人間の皮を被った美しすぎる地球外生命体でない可能性(=限りなくゼロ)とほぼ等しいので、ネタバレしますと、彼女の旦那さんはゲイで浮気していたと。
当時のセクシュアルマイノリティ蔑視の酷さを差し引いても、バレた時の夫の開き直り方とか最悪なんですけど彼女はそれでも、今までとは違う形でパートナーとして向き合うことを選びます。
それで当てつけとして親友の息子(年の差20歳以上)とかと関係を持ったり、それでその親友に殺されかけたり、はちゃめちゃなんですけど、それでも夫婦二人がお互いにぶつかり、向き合うという事実は揺るぎないんですよね。
その関係の模索の描き方としては、グザヴィエ・ドランの『わたしはロランス』とかとも似てるかな〜あれも色使い最高なんだよなぁ〜〜〜
でもさっき言った通り、プライドが高いって大事だなと。
譲らないところを「譲らない」と言い合えることって、譲らない自分を相手に明け渡すという意味では譲っているんだよなァ...
もう衣装とかはすごいですよ、肩パッドの形とかアイシャドウの色とか「なぜ?」っていうくらいなぜ??????なんですが、絶妙にまとめ上げられてます...
やはり異なる三つの時代を、ドラマで鑑賞者に一発伝えるためには言葉じゃなくて画面全体の色使いやファッションが効果的なんですよね。
あ、ここで時代が切り替わったな、と。
切り替わってはいるけど、1エピソードやドラマ全体としては1つのものとして成り立たせなきゃいけないので、そこの匙加減もイイな〜〜!
タイトルからして「やっぱ女って怖えな〜www」と外野がうるさそうですが、敢えてそういう突っ込みやすさを提供してやってんだよ、といったさらに高次の、本当の”怖さ”があることが物語全体にちりばめられておりますのでね、玉がある人は玉ヒュンならぬ魂ヒュンも楽しんでほしいですね。
最後はAmrican Horror Stories 1984 (AHS 1984と訳されることが多いね)ですね、これはですね、もう推しから入ったドラマなんですけど、その推しというのは外でもない、
コーディ・ファーン様で〜〜〜〜す!!!!(カタカナ表記、歯が浮いちゃったので以下Cody様て言わせてください)
AHSはシリーズもので、こちらは9個目ということで、でも他のシリーズは特に見たことありませんでした。
一回Netflixで見たの、フリークショーみたいなシーズンで、いくら画面上に血がほしい時でもなんかソリが合わなかったので1エピソードでやめたかな..
え〜、この #私の橋本環奈、もといCody様、すぐ死ぬんですよ、#推しすぐ死にがち
というか先ほど紹介したベルサーチにも出ていたんですよね、結構重要な役で(犯人の元恋人役、もちろん殺される)、でもそのときはもう本当に被害者でしかなくて、影を薄めに設定している役柄だったのですが、こっちでは死ぬといっても死に方もすごいし、なんなら生き返りますから。
ありがてぇ!
あ、引き続きネタバレすみません。(もうあんまり申し訳なく思ってない)
推し最優先で順番が逆になりましたが、全体のお話としては、夏のキャンプ場で起こった大量殺人事件の真相解明プラス被害者の真犯人への仕返しってところか。
なんか、モノホンの悪魔とかも出てきちゃうし、死者は生き返るしでゾンビフェス状態です、やった〜!
キャンプ場だから屋内外で色々豊富なので殺し方も色々あって、でもむしろ全部非現実的すぎて見ていて「イテテテテテテテッ」とはならないですね。
スティーブン・キングが原作とかだったらもっと作品全体の雰囲気が見ていて悲しくて辛いのかもしれないですけど、何しろゾンビフェスですから、YouTubeとかで「死んでみた」とかやりそうなの、みんな死なないから。
マイケル・ジャクソンのスリラーか、そういうことです。
推しはやはり私の中で一番なので、個人的には主役なんですけど、それはさておき最後まで主役がはっきりしないのがこのドラマの特徴です。
でも女優さん方が全体的にいい味を出していますね。
個人的には主役候補が三人いて、三者三様、生死かけて豪快に戦ってます。
でもな〜〜〜〜もうちょっとBadass感ほしいな〜〜〜全体的に。
役柄とかじゃないのよ、殺人とかの行為でもないのよ、圧倒的なオーラがほしい。
滾りポイントとしては、あんまりよく覚えていないけど「80年代は永遠よ」みたいなセリフ。
死してなお(ゾンビ化してなお)、2019年にいる私たちにも「いかに80年代がすげかったか」としての誇りを画面越しに伝えてくるんですね。
ほんとに、ハイレグの下にスパッツ履いてエアロビし続けるんですか、その答えがイエスなんですよね。
まあでもまた先ほどのcrystalizeに戻ると、ゾンビ化ということの意味を考えると、自分たちを特定の時代と場所にcrystalizeしたわけですから、それってすごいことだ。
「あの頃に戻りたい」と「あの頃のままでいたい」って全然違うことじゃないですか?
前者は再スタート的な意味も含みますが、「あの頃に戻って時を止める(≒そこで死ぬ)」にも終わりがあるけど、終わりないんだよ!?それでいいの!?
まあ個人的には何があろうと #推しは永遠なり だけど...
とまぁ、今回は比較的短めだったけど書きたいこと書けてよかったな〜
他にも下書きが三つくらいあるし、言語化したいこと盛りだくさんですけど、どれもタコとか色の記事みたいに大論文化しそうで、精神と身体にバグがきているここ最近の私の手には負えませんでした....
今書いていても消化器官と視界がバグっているので、敢えてケーキを食べて呼び水ならぬ呼びゲロを目論んでるレベル。
カフェで三時間で描き切ったそ"お"〜〜〜〜
ブログ、続けたいから続ける、続けるために続けるというのももちろん一つの大切な目的ではあるし、そこから生まれる何かもあると思うんですが、私の場合は書きたいことありきというのは譲れなかったので...
うまく中間地点が見つかって、よかったね!!!!
病に臥せっているとドラマ見ることくらいしかできないので、でもそのドラマ選びが難しい。
個人的にはちょうどいいのが、今の時代を描いているわけでもなく、私に全く関係なく、それでいて全く興味が湧かないわけでもなく...でもbinge watchingではなく作品としてきちんと見たいものがいい、となると、ノス滾るしかなかったのかな...?
まあでも推しが出てる限りぶっちゃけストーリーとかあんま関係ないよね!!!!
今までの記事では画像とかリンクを入れまくるの好きだったんですけど、カフカが『変身』で毒虫を描くのを許さなかったように、文章だけで見た目を伝えてみたかったので、文中には入れませんでした、っていう三秒前に思いついたかっこいい言い訳は嘘で、画像がないと読み込みやすくてスクロールしやすいのと(この期に及んで一応読者は欲しい)、めんどくさかったから!
でも紹介したドラマたち、素晴らしい作品なので私のレビューというか分析は別としてみてほしいので、以下リンクとか画像貼っておきますね。
・American Crime Story Season 2: The Assassination of Gianni Versace Trailer(予告)
(サムネバージョンでなぜか貼れないのでリンクのみでご愛嬌...)
・『下妻物語・完 ヤンキーちゃんとロリータちゃんと殺人事件』嶽本野ばら
・Why Women Kill(予告)
・ルーシー・リュー様 Simone役ビジュアルwww.instagram.com
・"Kill Bill"よりユマ・サーマンとのオフショット(最高かよ)
・AHS 1984 (予告)
・Cody Fern様 史上最強ビジュアル(公式インスタグラムより)
・ハイレグwork out 参考動画 "I have a bad case of diarrhea"
読んでいただきありがとうございます、またね〜
下校時刻のヴィレヴァンゾンビ
はじめに
小学校
インターネットで出会うことがない時代、誰かの影響なしには本さえも見つからないので、当時読んでいた作品には誰々とのエピソードが多い。
電子書籍も好きですけど、あの漫画を貸して読みあったり、誰かの部屋に置いてある感じは神なんだよなぁ〜
『マンイーター』高橋葉介
最初っから飛ばすなぁ〜
マンをイートしていますよ、表紙が。
でもこれはっきり覚えていて、二回店頭で読んで、二回目に友達連れてきて立ち読み禁止用のビニールをこっそり剥がして見せたことまで覚えてる。
内容の印象が強烈すぎて、本をジャケ買いする私が表紙に関連する情報(作者名・作品名も含む)を一切覚えておらず、最近になって思い出して、インターネットで探すのに苦労しました。
流石に小学生でこれを家に置いておくわけにもいかないというのが子ども心でも理解できたので買うに買えず、一回目の立ち読み(ビニールカバーがなぜか最初はかけられてなかった)で二時間ほどで内容を丸暗記しました。
いや、でももし自分が親だったら、これが家に置いてあるより丸暗記している方が怖いな...
誤解を招かぬよう言及しておきますと、同時並行で『ちゃお』『なかよし』も追いかけていたし、ナルトもワンピースもリアルタイムで見ていましたし、友達も一応いました。
『ハトの嫁さん』ハグキ
これは兄の影響です。
家のトイレに置いてありました。
Happy Tree Friendsみたいな、理不尽でファンシーなグロにハマらない中学生がいないはずもなく、私もそのうちの一人でした。
エドワード・ゴーリーの絵本とか、自殺うさぎとか、ねこぢるとか、そういうことなんでしょうね。
子どもに読ませたい本ではなく、読むなって言われてるのに、いや言われるから子どもが読む本。
ブックデザインとしては表紙が透かし巣材でなんかシャレオツなのもムカつく笑
『蟲師』漆原友紀
これも兄の影響で「キヨカはこういうの好きそうだから」って貸してくれた思い出。
もののけ姫とかナウシカを濃縮還元したらこういうことになる気がするし、そう簡単にすべきではないというかね。
怖いからね。
今は文化人類学的視点で読むのかな...作品のobserverではなく、participantになれるのは子どもの強みですね。
読んでいてあまり食欲は湧かないですけど、山系なので一応言及しておくと、私はヌルヌルしてるじゅん菜と山菜とかも大好きで、「わっかんね〜!うま!」と言いながらよく食べます。
『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』西義之
通称ムヒョロジですね!
これはヴィレヴァンで見つけたわけではなく、脳内店舗の方ですね。
\\\在庫入荷しました〜///
公民館のジャンプ本誌で読んでいた記憶があります。
記憶の中にある紙が白黒じゃなくてジャンプの色紙カラーなのと、あの紙の独特の匂いがセットになっているので。
魔法で封じる系でいえば結界師やブリーチよりも私は断然ムヒョロジなんだよな〜
絵のタッチがあくまで漫画っぽいというのと(デフォルメ等)、敵の各オバケのキャラ立ちが群を抜いていた。
めちゃくちゃ記憶に残っているのが最初普通だった女の子が巨大オバケ化して泣きながら成仏する回みたいな...
今アニメ二期とかやっているみたいで、でも漫画の連載は10年前に終わっていて、なんだかわけがわからない!
中学校
物心がついて背伸びがしたい動機が垣間見えますね。
『MW(ムウ)』手塚治虫
『ライアー・ゲーム』甲斐谷忍
『バガボンド』井上雄彦
これも兄の影響。
床屋はスラムダンクで鰻屋はゴルゴ13と本棚の相場が決まっていて、どっちも毎回一巻から読んでいて永久に進まないんですよね、
お店行った時しか読めないし、そう頻繁に行くところでもないので毎回内容忘れてるっていうか。
小学生にとって「完結している漫画の巻数」ってこち亀ほどではなくても天文学的数字に見えるもので、ズラリと並んでいるだけで「ちゃんと読まなきゃ」となってしまうし、でもそんなことは色々制約があって不可能。
バガボンドは割とリアルタイムで追いかけられて嬉しかった。
修学旅行の京都で寺社仏閣を素通りして抹茶アイス食べながら武蔵と小次郎ゆかりの場所で騒いでいました。
『砂時計』芦原妃名子
これ、けっこう少女漫画界の異端児だと思っているの、私だけじゃないはず〜!
引っかかるところが今でもたくさんある。
私が今もしヴィレヴァンの店員だったら、敢えてジビエ系漫画として『ゴールデンカムイ』の隣に置いちゃって、お客さんが戸惑う様子を楽しむかな...
そういうことがヴィレヴァンだとできるのかな。
こちらは舞台は現代の島根ですけど、狩りや食事もしっかり描かれているし。
それよりもこの漫画を異端児たらしめるのは、今言葉で表現するのならば、「描かない方が物語進行としてはスムーズに行くシーン」を台詞なしで見開きで描くことで解釈の幅を広げるというか、心理描写の足し引きが絶妙だったところかな....
ミレイの「オフィーリア」みたいな、嘘なのかほんとなのかわかりにくいシーンとかがあった気がする。
高校
学校帰りの立ち読みコースですね。
この頃から短編が好きだったのがわかるというか、それも立ち読みの時間的都合などの環境的要因もあったのかなって色々考えを巡らせてしまいます。
『ケーキを買いに』河内遥
大学
大人買いとかし始める頃ですね、相変わらず購入先はブックオフですけども。
『ウツボラ』中村明日美子
出会いとしては高校の時点にあったけど、高田馬場のブックオフで立ち読みしてから買ったので大学に入るかな。元BL作家のガッツリBL真っ盛りではなく、一般大衆向けに書いてくださっている作品が好きです。
最近大掃除してもう一回読み返したけどわからない部分が多すぎて、買った当時「わからないからわかったことになっていた」のか、「わかることが多くなってきてわからない部分が増えた」のか、魅力は尽きません。
『ぼくの小規模な生活』福光しげゆき
これは圧倒的にヴィレヴァンにて。一時期お店でフェアみたいなのもやっていて、ショッピングバッグに例の妻のイラストが載っていたり。
やたら細かいコマ割りと「.....」の多い文体、本人から直接聞かされたら主人公(作者)がよく言う「ハァ...」以外の感想が出てこない、日常を突き詰めた内容は漫画でしか描けない部分があるのかなと。書いてて思ったけど、フィクションでもノンフィクションでも日常系全然好きじゃないので、この作品を日常系とカテゴライズするかは別として、日常系は全然好きじゃないです。大事なことなので二回言いました。
シーシャを吸いながら読むなどしました。
ただの大学生じゃ〜ん笑
『ディザインズ』五十嵐大介
『リトル・フォレスト』はやたらヴィレヴァンで目に入っていて、絵が漫画なのに水彩画すぎて全然読む気になれなかった中高を経てからの、ケモナー垂涎の作品、ありがとうございます!!!!!
これの前哨戦にあたる『ウムヴェルト』(環世界)という作品と概念も好きで、以前も紹介したかも〜。ケモナーポイントとしては、アンとベイブ(上の表紙の画像右)が猫耳とかではなく、体がヒョウで頭がヒトという、人面ヒョウという感じで描かれているのが猫耳トレンドになびいてなくて、あくまで機能性重視で好き...。
アメコミの超能力系戦隊モノのなかではX-MEN派が好きになりそう。
一般人と能力者の距離が近めというかね。
『テケテケ・ランデブー』ジョージ朝倉
『平凡ポンチ』『ハートを打ちのめせ』『溺れるナイフ』の主人公たちと中高で一緒に成長し、大学がテーマでもこのジョージ朝倉節って通用するんだ、という。
『夫婦サファリ』は結婚!?みたいなね。
全部それぞれ好きだけど、個人的な代表作としては、たよ子嬢とセンセイは堂々一位なんだよな〜〜〜これも少し異なるケモナーというか(肉食系女子も守備範囲です)、人間関係ガラパゴス諸島で、都会の弱肉強食の概念からぶっ放されているキャラたちにびっくらこかされます。
『イノサン』坂本眞一
マ、マリー様抱いて〜!
「絵とストーリー展開が上手な漫画」と「歴史系漫画」の両ジャンルの遥か高みを突き抜けてしまったので審査基準を作り直さないと、とお偉方が躍起になっているのが目に見えますか...私には見えます...
Rouge編では特に現代世界へ繋がるところが多く、最高に好きなのはアントワネットがママ友会やツイッターをやっているところ。
本当の時代考証ってこういうことだよなと。
司馬遼太郎!!!!
5時に夢中!の中瀬親方のエンタメ道場で紹介されていたのがきっかけ!
『大奥』よしながふみ
将軍の数が多すぎて新巻が出るたびに毎回一巻から読み直すことにしているのですが、 全然毎回楽しい。
全体の流れとしては〇〇代目が誰々で、とかで追えるようになっているのだろうけれども、作品全体を構成するのは単体で十分キャラが強い将軍たちだけでなく、キャラが濃かろうが薄かろうが当時必死に生きた大奥の内外の人たちというか、全員人間だな〜、となる。
人間を人間扱いしている漫画ってそんなにない、特に日常系の対極にあるジャンルでは。
今のところ一番好きなのは江島生島事件のところらへん。
悔しくて泣きました。
あとはやっぱり言葉遣いだったり、絶妙な大奥用語といいますか、そういうのはもうたまらんですね...
スマホ黎明期の御三家(ツイッター→LINEスタンプ)
今やツイッターのみならずあらゆる媒体に登場するこの方達はやはり言及しておかねばなるまい〜。
もはや「漫画家」と「ツイッター発の漫画家」はジャンルを分かつべきだと思っているのですが、どうなんだろ。
ツイッターで知ってLINEスタンプを買ったという、見る専から使う側に移行できるのも、作家とファンとの関係が多様化していていいな〜と思います。
しりもと
— しりもと (@SHIRIMOTO) June 8, 2019
人生ってこういうことなんだよな〜
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既読がドンブラコと流れているの、千利休的なセンスを感じます。(?)
ニャロメロン
ニャロメロン先生のこのシリーズは2ちゃんねるでも議論が度々交わされており、漫画界でもその表現技法により革命を起こし続けているともっぱらの噂です。これは一例ですが、後ろを向いているキャラの顔のパーツだけが抜き出されていたり(無表情っちゃ無表情で描かなくてもいいはずなのに)、四コマのタイトルが最初に来るのではなく最後にオチを言語化しているのも独特...今作品を見返して崖から落ちる表現が割と多用されていて、そんなことってある!?と思うけどあるんですね。
なう
描写としての血に飢えているがただ好奇心に任せて人が死ぬのは見たくなくて、だからと言って死に方や生き方についておおっぴらに説教もされたくない、という現在の私のわがままを大幅にクリアしている作品たちです...
『ゴールデンカムイ』野田サトル
キロちゃんとラッコ鍋食べたいッ!
いや〜〜〜〜もうこれはこれは。
七巻のヒグマ退治と八巻の江渡貝くん、十八巻のソフィアの過去が好きかな〜。
こちらは原作を知る前にネットで流れていた同人誌から入って読み始めました、という腐ルートですけれども、ファンの方々の推しへの熱意もなんだか一味違うというか、それで目に入ったのかも。
人がすごく死ぬし殺しあう漫画なんですけれど、登場人物で生きるために生きている人がいないところが好きだな〜!
ザ・日常系の対極ですね。
『ドロヘドロ』 林田球
爬虫類は条件抜きで好きなので、カイマンの皮膚感の時点で最高なんですけど、ニカイドウと鳥太が好きだな、それが....!ドロヘドロ!
画風としては線は多いけれど無駄な線なんて一本もなくて、エッチングっぽいかすり線な感じもグッド...ファッションも独特で、スニーカーが堂々とナイキだったり、作業着とプロテクターの絶妙なバランス加減もすごく好き。
コスプレしたくなる気持ちがわかりかけます。
ティム・バートンの『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のナイトメア版ですね。
『Cocoon』今日マチ子
小説家でいうと桐野夏生とか桜庭一樹な感じで、前者だと『リアルワールド』、後者だと『じごくゆきっ』とかを読んでいる者です(自己紹介)。
もっとも流血沙汰から遠いとされている社会要員の女子高生たちを生々しく描くというか、要するに、JKだタピオカだと持て囃されつつもされている思春期成長期真っ盛りの女子だって生死や個人単位での戦争と常に隣り合わせなんだぜ、なめてもらっちゃ困る...とか言いつつすみません、まだ読んでなくてこれ、でも沖縄のひめゆり隊のことをこちらの先生が描くってことはそういうことだと思っています。
おまけ
時間の都合上と、まだリアルタイムで追いかけているものとして整理がついていないので、以下ここ1~2年以内でインターネット経由で出会った作品たちを紹介するに留めさせていただきます。
トーチweb
『アマゾネス・キス』意志強ナツ子
『太郎は水になりたかった』大橋裕之
『ラ・マン』 高浜寛
『アイスバーン』西村ツチカ
『夢中さ、君に』和山ヤマ
変な女が変な男と出会う話 (1/6) pic.twitter.com/AKAXPsIpk3— ワヤマ (@wymaaa) August 10, 2019
『泥の女通信』にくまんこ
『ギャルと恐竜』トミムラコタ
今週発売のヤンマガに #ギャルと恐竜 45話載ってます!恐竜くん、あやとりするの巻! pic.twitter.com/p0eNymRNdO— トミムラコタ (@cota0572) September 21, 2019
『裸一貫!つづ井さん』
『夏がとまらない』藤岡拓太郎
ネルノダイスキ
オモコロ
おわりに
セルフオリエンタル化のすヽめ(拝啓、サイード先生)
最近悲しくなるニュースをよく目にする。
できるだけそういったニュースを取り入れまい、面白い話やくだらない話しか取り入れまい、としている私の耳にでさえも届くのだから相当なのだろう。
一方で、盛んに議論が交わされていてほしい、とも思う。
と書くと事柄をまるっきり他人事として捉えているように聞こえてしまうが、私一人では限界があるので有識者の意見のリツイートやいいね、といったささやかなことでしか参加できない部分があるのも確かだ。
それでも「炎上」で言い表されるような激しいやりとりの応酬を、それこそ対岸の火事を見つめているような気持ちでただ佇んでいるわけでもない。
いずれにせよここでは特定の出来事やニュースに関して逐一コメントをするつもりもないし、私はそういった立場の人間ではないと思っている。
立場云々もさておき、ツイッターやフェイスブックのように脊髄反射的なメディアではなく、せっかくブログという形を取っているのだから、一次情報を目にしたあと何周かして考えたことを書きたい。
すぐ自分の気持ちを言い表せるようが言い表せまいが、一度自分の中に取り込み咀嚼したあとの意見ならばそれなりの価値があると思っているからだ。
吐き出すのには勇気がいるし、時期も見計らわなければならない。(と思ってボツになっている記事がいくつもありますtbh)
と、ここまで来てなんだかとても回りくどくて抽象的で申し訳ないのだが、従来の記事を読んでくださっている人であればなんとなく察していただけるように、私は「全ての人に読んでもらって理解・納得される」文章というのを書こうと思っても書ける人間ではない。
極論で言うと「そんな人/文章はいません」となりそうだが、私はその両者からも割と遠いところに位置付けられている方なのではないかと思う。
その特殊性(specificity)(「特別」ともまた違う)が普遍性(universality)と交わる部分もあるし、自分のなかでそれらの琴線が触れ合う距離感やタイミングを見つつ、社会との折り合いをつけていきたいと思っております。
ていうか全員がそうなればいいと思う。
specificity=universalityになったら、すごく楽なのに...
と、今回はなんとなくそんな文章です。
タイトルで察した方も多いかもしれないが、ここでは関連してエドワード・サイード『オリエンタリズム』を参考に、最近のこの風潮と、私自身での日本国内外での体験について書き連ねたい。
サイードのこの著作に関しては学部の時の卒業論文で取り上げたということもあって、一字一句記憶しているとはいかないまでも、図らずもその読書体験は「卒論を提出して大学を卒業するために読む」以上の意味合いを持つことになった。
笑ってしまうのだが、私は私がだんだんといわゆる"日本人"に見られなくなってきた、そしてそういった事象を自分なりに整理できるようになった、という体験がここ数年間の間に起こっている。
自ら選んでいるわけでもなく、それが良いか悪いかもわからない。
現在住んでいる国がオランダなのだが、オランダ人に見られるようになってきたかというと、そういうわけでは全くもってない。
私は周りの人に「日本人」として分類されなくなってきたか、実際分類できないほどのややこしい(?)存在になってきたといえるのかもしれない。
例えば、初めて会った日本から来た人に日本語で話しかけても「どこから来たんですか?どうしてそんなに日本語が上手なんですか?」と聞かれたりした。
立ち振る舞いや考え方は「ヨーロッパらしく」なってきているかもしれない。
「ヨーロッパらしさ」というのもなんだよ、と思うが。
日本のあらゆる平均に照らし合わせて考えると、体躯からいって身長は高い方、ガリガリではなく、あと日焼けもよくするのでハワイの人ですか、と聞かれたこともあった。
ハワイ、行ったことないです!
あとは英語だろうか。
私の英語は日本のアクセントが少ない方で、自分なりにもかなり努力はしているので日常生活・学校生活共に差し支えない。
しかしながら自分の内部から英語に自信を持てた経験が現在進行形であまりないので、お褒めの言葉()をいただいたときは「英語だけじゃなくて、一般的に発音を真似るのが上手いだけです」ということにしている。
その背後にある動機というのは、「British accentに憧れているから」などではなく(そんなアクセントできないし)、英語話者同士ならば日本語英語よりもわかってもらいやすいでしょう、という程度だ。
いや、クソ真面目な完璧主義者なので中学校英語の音読のCD通りの発音しか自分で発することを許さなかった説の方が正しいかもしれない。こわ...
そもそも自己紹介で「日本から来ました!!!!!!!!」とわざわざ自分から言う機会も減ってきた。
そのあとの日本に関する質問や感想に答えるのが億劫になってきたというのもある。
何よりも疲れるのが、そういった質問や感想を避けるために自分から予防線を張ってしまうクセがついたことだった。
「英語がうまい」も「背が高い」も、「日本人にしては」という接頭辞なしには成り立たないから、先に自分で付け足してしまうが、その度に「他の人と違うし、違うと思われたい」タイプだなと思われるのもなんだかな、と感じていた。
大方そういうことなのかもしれないが、またそれを他の人に「私はあなたのことわかっていますよ」的に指摘されるのもnone of your business感が半端ない。
違うに決まってるだろッ(みすゞ)
でもその違くなってしまったにしても経緯が色々あるわけで、そこから始めるとなると私にもわからないし、あなたも聞かないでしょう、という。
昨年、日本に一時帰国したときも違和感がとてつもなく、終始「久しぶりに帰ってきた」以上のおかしな高揚感に包まれていたことも思い出す。
友達曰く「写真を撮る目線が観光客」だったそうで、そうなるのものなのかもしれない。
視点が新鮮になったからでも鈍ったからでもなく、自分の内側に起因するものではなく周りの全てが「あなたの居場所はここじゃない感」を醸し出していた。
そういった周りと自分との折り合いも兼ねて、私は敢えて今自らを描写するならば、「海外在住日本人」でも「日本人留学生」でもなく、「オリエンタル女性」ということにしている。
どこに行っても多分これは変わらない。
常時移行・移動期間ともいえるかもしれない。
一時的に帰りたい場所はいくつかあるんですけどね、落ち着くところはなさそうなんです今のところ。
オリエンタルという単語に関しては、サイードの著作の中で取り上げられている西洋対東洋(オクシデント対オリエント)というのははあくまでケーススタディである。
あくまでポストコロニアル的背景において、前者が後者を一方的に想像し創造した、というだけであって、逆もまた然り(e.g. 先ほどの「ヨーロッパらしさ」など)。
でもより大きな問題点としては、後者がどう描かれようと、当事者たちの意見が反映されなかったこと。
自らを描写する術を持たず、あったとしても考慮されなかったということだ。
あれっ!でも待ってください。
私は、私の意思によって自らを「オリエント女性」と描写することに決めました!
だからOrient-と言ってもダブルミーニングなんです、「オリエンタリズムさせないオリエンタル女性」ということなんです。
もちろんこれは周りの人々の言動と環境に伴う自身の変化、と言えば「オリエンタリズムされた」結果なのかもしれないけれど、もうここらへんで自分から言うことにした。
先にやっちゃえばこっちのもんだ、とか言うわけでもなく、性質上こうなることを止められなかったようにも思う。
自然な流れでここに行き着きました。
なのでここいらで自分で言ってみる、そしてそこで内外に起こる変化をまた見てみる。
「異質さ」という意味では、どんな単位のコミュニティでさえ、日本にいたときでさえ、結果論ではあるにせよなんとなく感じていたことなので、もうそういうことなんでしょう。
でも私が言いたいのは、結局、誰にも自分一人で決められることじゃないし、書類一枚でわかるもんでもないし、ましてや他の人にとやかく言われることなんかじゃ絶対ないんですよね、自分がどこに属するかなんて。
私はあるコミュニティにひとたび踏み入れることができればすぐに次の場所を無意識に探しているし、それらなくなったときの予防線を張っているし、落ち着いていることが落ち着かないタイプです。
多分こういう人間はずっとこういう人間なので、これはこれで放っておいてほしいんですけど、ひとところに馴染んでいる人、そしてそういって築き上げた自分の場所を必死に守っている人も放っておくべきなんじゃないかなと思います。
誹謗中傷といった描写だけに留まらず、物騒な行動も目につきます。
私は、そういう人たちこそ自分の立ち位置がわかっていないからこそ、他の人を使っているように思えてならない。
他者のアイデンティティを壊そうとしているようで、心底は全く逆の、自分を中の何かを築きたいという気持ちでいっぱいなんじゃないか。
そうでなければ他の人の主張がすぐ自分の持つ何かの侵害には結びつく、そしてそれを守るために攻撃するという思考に至らないはずです。
こういう時にめちゃくちゃ便利なのが、セルフ・オリエンタル化です。(アジア出身じゃなくても使っておk)
これはもう「私のこと100わかってとも言わないから私にもあなたのこと100理解させようとしないで、ましてやわからないからって勝手に決めつけないでね、決めつけちゃうのも仕方ないけど私には言わないで〜」という、一種の諦めという名の寛容です。
「わかるわけないっしょ(^^)」という。
私も私のことわからないし、周りにどう見えているかもやっぱり言動だけでもわからない。
でもその引っかかる何かの答え合わせ(自分用)のために、目の前にいるパッと見わかりにくい人をわざわざ利用する必要があるのかということ。
自分自身のわからなさを他者に投影しないでね。
わからない恐怖症なのかな、とも思いますが、わからないことってそんな苦しくないですよ。
想像力と優しさで、少なくとも人間関係に関してはなんとかなる。
なんとかしたいならの話ですが....
でも勝手な想像をもとに創造しないでほしい。
結構傷つくしめんどくさいんですよ。
「あなたは○○だから」とか言われるの。
こっちに「アメージングオリエンタル」っていうスーパーマーケットがあるんですけど、もうそれでもいいな....
世界のみんなが当事者さえわからないことを他の人がとやかく言わなくようになるなんて、ミラクルでワンダフルでアメージングでしょ。
これで最初に戻るんですけど、個々のspecificityを万人が理解しているという普遍性(universality)が地球という惑星としてのゴールなんじゃね?
まあでも私は最近宇宙人っぽい模様の服や、四つ目になるフェイスフィルターが個人的ブームなので、もはや地球を後にする日も近いのかもしれません...なんちゃって。
うん、本当は今月他にもネタの候補があり下書きを書き連ねたりしていたのですが、厳正な選択の結果、一時間ほどで思い立ちババッと書けたトピックにすることしました。
公開日8月31日って設定できるけどもう九月始まってるし笑
はてなブログの設定変更チート術です。
でもこのトピックに関しては小さめながらも各記事で触れてきたことのようにも思えるので、一つの記事にできてよかったかも。
って、卒論書いたのがもう二年ほど前になるけど、まだ考えさせてもらってます、サイード先生。(タイトルに合わせて最後だけ無理やり手紙風にしちゃった)
どうでしょう。
『オリエンタリズム』に関しては世界一平凡な名前なのにクラシックではあるけれど決して内容が平凡ではない本を出版することでお馴染みの平凡社様から上下巻文庫で出てますが、時間がない方はこれの要所をうまく引用している自分のトピックに合った論文から逆算して必要箇所をまず読んでみることをお勧めします。
日本語でも英語でもいっぱいあります。
でもサイードはやっぱり文体もかっこいいので、そういうのも愉しみたい、論文の締め切りなどに追われていない、時間的にも精神的にも余裕がある方はじっくり読んでもいいと思う。
オランダも夏の暑さとは打って変わって、掌を返すように寒くなり始めましたが、秋は良いですね。
エモいっていうんですか、秋関連の思い出は全部そういうことにして良いと思います。
それでは、また〜