キヨカのブログ

半永久的夏期休暇自由研究

「乳(と塩)の流れる地」

牛乳とその仲間たちが好きだ。

 

私がもし旧約聖書の添削者だったら

候補「乳と蜜の流れる地」
私「乳だけで十分では?」

と蜜の部分を削ってしまったかもしれない。

 

今でも一人で一週間に2パックは牛乳を消費するし、食卓では食事のジャンルを問わず飲み物は牛乳一択。

思春期には「風呂上がりの牛乳が冷えていない」というだけで家族に当たり散らしていた。

アルコールを飲むようになってからはビールに変わるかなと思いきや地位をそっくり明け渡すことなく、家でご飯を食べるときは「ビールでいいか」と聞かれても「牛乳ある?」と一応ワンクッション入る。(あることは少ない)

 

ちなみに一番好きなのはホテルの朝食バイキングで飲む牛乳。

あのホテルでしか使わないような細くて小さなグラスに、氷に浮かべられて程よく冷やされたどっしりとした水差しから牛乳を注ぐ、至福のひととき。

牛乳パックも好きだけれど、決して家では、ましてや牛乳になんて絶対に使われない入れ物、水差し。

"水"差しって、言ってるよね?

蓋がついてない容器はこぼれても害が少ない液体に限る、って何度言ったらわかるのッと牛乳の入った水差しを持つ手が喜びと怒りの狭間で震えてしまう。

BGMは「いいえ」歌詞界で永遠に頂点を君臨するかと思われていた「さそり座の女」を超えたと言われることで有名な「何にでも牛乳を注ぐ女」に決まっている。

 

チーズも好きだ。

さっきの聖書に話を戻すと「乳と塩」を代替案として提案していたはずだ。

塩は液体ではないから流れない」という頭の固い人たちによって却下され、泣く泣く蜜が採用されるのだが、三者はのちにゴルゴンゾーラとはちみつという形で相見えることになる。でもそれはまた別の話。

中東ではヨーグルトに塩を入れて飲む文化はあるし今からでも聖書の改定は遅くないかも...

ていうか、気候的に塩分必要じゃない?

甘いもの好きなのは知ってるけど....

 

さておき、チーズは由緒正しい。

乳製品と発酵食品のサラブレッドなのだから、多少臭かろうがカビが生えていようが関係なく崇められる。

でも、やっぱり賞味期限切れのチーズを「元から腐っているから」という理由で大目に見る人とは相容れない部分がある。

 

以下はそんな私と乳製品の断片的な思考の寄せ集めである。

もちろん旧約聖書の専門家でもない私が「牛乳が好きすぎる」という理由で改定案を持ち出すというのはおかしな話であり、そんなことを真っ向から試みるつもりはなく、本来の目的は「みんな私がこの歳でも"牛乳が好き"と言うと笑うけど、給食で牛乳を飲まなくなってからもいかに牛乳由来の乳製品が私たちの生活を支えているか」を改めて振り返ってみてもいいんじゃないかと思うのだ。

 

「ブルーチーズ、タイムマシンでいぶりがっこクリームチーズの存在を知ってからチーズだけで全部再現しようとした」説

というのをブルーチーズを夜中の3時半に舐めながら思いついた。

 

いぶりがっこクリームチーズ広辞苑に載るとしたらどんな説明がつくんだろう?

私が考えます!
"野菜由来の発酵食品と牛乳由来の発酵食品を掛け合わせたらどうなるかと思ったら、どうにかなった。

 

goo.gl

www.iburigakko.co.jp

 

そういえば昔、恋人がキムチ鍋に成城石井のブルーチーズを入れてまずいと友達と大騒ぎしたことを事後的に話してきたことがあるのだが、なんともいえなかった、私はブルーチーズが大好きだったけれど、そのとき、その話を聞いたあとではなんとなく、ブルーチーズを好きと言ってはいけないような気がした。

というのを思い出して昨日、キムチとブルーチーズをクラッカーにのせて食べたけれど、お互いの酸味と少し痺れる刺激、まろやかさが手を繋ぎあっていてとても美味しかった。

でもそのブルーチーズに後からカビが生えてしまって、取る作業をしながら「私にはカビを選り好みする権利なんてあるんだろうか?」と思ってしまった。

 

おつまみ三銃士

プロセスチーズ、ジャッキーカルパス、チーズおかき

チーズおかきのチーズとおかきに分解しようとした者は、オレオの場合と同様、死後地獄に堕ちたあと「食べ合わせを司る神」によって体をタンパク質と水分に分解される刑に処されます。

上の写真はすでにチーズ味が含まれたふわふわ系ですが、私が意味するところは分解しやすいブルボンとかのです。↓

https://www.bourbon.co.jp/product/item?category=35&item=2914 

 

カルボナーラ、生クリームなしで家で作れます!」

だから、なに????????????

"カルボナリ党の反乱" 懐かしい

 

この「生クリーム」やちゃんとした乳製品を然るべき場所で使わないことと、カロリー減や健康のためだけに豆腐・豆乳で乳製品要素を賄うことの理解に苦しむ。

豆乳側にとっても失礼。

アメリカの例のMac&Cheeseに有害物質が入っていることが指摘されたが、「健康のためにそんなもの食ってるわけないだろ」と猛批判。痛々しいほどわかる。

(でも実はMac&Cheeseがマカロニチーズって知ったの、三ヶ月前くらい...マクドナルドのチーズバーガーのすごいやつかと思っていた。)

 

カマンベール、カチョカバロ、ブラッタ

名前がチーズのテクスチャーをうまく表現している気がする。

 

ゴルゴンゾーラにはちみつをかけた人は、ポストイットを発明した人より「当初はコテンパンに怒られた失敗」感がある。→大成功

 

クアトロフォルマッジョ素数ということにして、数学界のルールの全てを無視しても約数なし、ということでお願いします。

四つのチーズが常に腕を組んでいる状態。
クアトロ・フォルマッジョとか、間の点もいらないです。


ヤギとか水牛とか、牛よりくさそうな生き物のチーズはくさくておいしい。

 

Kiriのクリームチーズと牛のマークのベルキューブ、四角い形でアルミホイルに個包装になっているのだけど、構造上いつも四隅に残ってしまってもったいないと小学生の頃から思っている。

あとBoursin(上写真右下)のアルミホイルの使い方とチーズのテクスチャーの相性、どうにかならんのか?
「ヨーグルトの蓋の裏を舐めるのメチャ行儀悪い」どころじゃないぞ。

↓調べたら全部同じ会社の商品だった...

www.bel-japon.com

 

トルコのkaşar peyniriとかいう、そのままでも食べられるし、溶けるチーズなのに溶けても食感が保たれてむしろよくなっちゃうの、なぜ???

融点が二つあるの???あって、いいの?

 

「はい、チーズ」が日本だけではないと知った、ハイ、ペイニール〜

 

サガナキ、スメタナ、カイマック

「留学中この乳製品で体重が増加した!座談会」(旧ソ・オスマン帝国領篇)の常連たち

goo.gl

 

ヴァンパイヤ退治に有効なのは、本当は地中海「ニンニクとキュウリが入った冷製ヨーグルト(スープ)」のtzatziki(ザジキ)やcacık(ジャジク)(下画像左下)

そもそも日光強すぎて、ヴァンパイヤ、いないか!

 

<イスケンデルケバブの地層>
バター

パン ヨーグルト

ヨーグルトの出身地はブルガリアでもギリシャでもなく実はトルコ、というのは結構聞きますね、当時の明確な国境線はさておき...

 

(フムスのチーズ入ってそうな顔して入ってないのにお惣菜ポジとしての強さ)

 

ピザは平面的なのに、ティラミスやラザニアは断面的、でもどれも切っても切ってもおいしいね

 

パルミジャーノ・rえっジャーの

変換できない

 

トリビア

パウダービーズクッションはモッツァレラの触感を参考にした

噛むと歯のエナメル質がギシと音を奏で少し鳥肌が立つのが好きだ。

 

 

チーズと歯のエナメル質の交流といえば、さけるチーズを割かずにかじってみることをオススメする。

縦ではなく横からかじるので、もちろん3口ぐらいで食べ終わる。

あまりにもあっけない。

今まで爪の間にチーズが挟まってしまうにも関わらず必死に割いてきたというのに。

縦にかじるのもいいのだが、見た目がビーバーに憑依されてしまった人みたいになってしまうし、こんなロングセラー商品の公式な食べ方を無視しているという時点で社会的な立場も危ぶまれるので、人目のつかない場所を選んでいただきたい。

でも顔に対して縦になるようにチーズを配置し、是非かじってみてほしい。

持ち方は人差し指と親指でぶら下げる感じ。

これがすごく難しいのだ。

特に全て噛みちぎらないように、齧った表面が半円を描くようにするのはすごく難しい。

ここでいかに人間:さけるチーズの大きさの比が「五本指を持ち"割く"という行為を持つヒトに特化したもの」であるかが再認識されるのだ。

チーズとよくセットで表されるネズミのためではない。

 

それにしても、メーカー側から食べ方を指摘してくるというのは考えてみればけっこう大胆なことである。

とけるチーズに関しても同様のことが言える。

でもとけるチーズの方が、ルールを破ってサンドイッチなんかに入れて火を通さず堂々と口に入れいている人をよく見る。

プレーン スモーク味 とうがらし味 ローストガーリック味 バター醤油味

 

https://www.meg-snow.com/hokkaido100/sakerucheese/

ちなみにさけるチーズは大抵スーパーでは二パックで1組だが、私は誰かと分けようと思ったことが一度もない

パピコじゃないんだから。

もちろん、一さけを分けてあげることもしない。

それが不思議と、一つのさけるチーズを半分に分けてシェアしたことは何度かある。

ちなみに二パックが各々個包装で1組なのも、パッケージを「割く」行為が本命のチーズに触れる前から体験できる、計算し尽くされた贅沢な構造だと思っている。

だから名前が「さけるチーズ」というのも当然かもしれない。

もはやチーズを食すためではなく「割く」という人間だけに許される行為に焦点が当てられ、開発された商品であろうからだ。

 

<嘘のようで本当のこと>

「私の母は植物性クリーム(ホイップクリーム)と動物性(生クリーム)の違いがわかるし、バターを食べるためにトーストを食べているし、練乳を飲むためにコーヒーを飲んでいる。」

その娘である私は牛乳を飲むためにコーンフレークを食べる

でもカレーとご飯の関係で考えてみると、コーンフレークと牛乳ってどっちがどっちに当てはまるのかわからなくない?

↑卵が先かニワトリが先か議論の、牛乳対コーンフレークが終焉を迎えた歴史的瞬間。

 

牛乳ドーナツには牛乳。当たり前のこと。

 

 

シントーボーというベトナムのアボカドと練乳のもったりスムージーにつきましては「信徒坊」みたいで響きがやたら敬虔深いのでゼロカロリーです。

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ここも美味しい!

goo.gl

 

 

マンゴーともち米に練乳をかけるなんてことが許されてしまう、行きタイ...

 

 

「マーガリンはゴキブリさえも食べない」説を頑なに信奉したいのは、単にその文脈で語られる比較対象のバターの味の方が好きだから。

化学式とか体に悪いってちょっとよくわからないし。

 

讃岐うどんカルピスバターをかけたとき、キヨカからマルカに改名しようと思ったほど(おいしかった)。

goo.gl

 

明太バターご飯は完全食品。
明太バターフランスは平和外交政策

 

キムチチーズとキムチマヨのどちらかを選ぶことなんて、私にはできない。

 

「甘いものか塩辛いもの、一生どっちか食べられないとしたらどっち?」より、「牛乳か水、一生どっちかしか飲めないとしたらどっち?」の方が答えられない。

 

カッテージチーズ、リコッタチーズ、マスカルポーネ

ありのままで美味しいのに、全部小麦粉に入れられて焼かれたり乗せられたりするのもいかがなものか。(特にパンケーキ)

その点、ティラミスにおけるマスカルポーネの主役感よ。

 

チーズケーキはすごく好きだ...

チーズをデザートにしようとしたの、牛乳をチーズにしたのの次にすごい

(チーズを主役に据えるデザートにおいてのみの話、牛乳はほとんどのお菓子に入っているので)(厳しい)

 

昔、バレンタインで失敗したレアチーズケーキには、粒化したゼラチンとオレオが沈殿していた。

 

冷やして固まる性質もいい。

 

アイスだったら雪見だいふくもいいみたいに乳成分が中に入って出てくるのを待つか、アイスまんじゅうみたいに中身をすっかり覆い隠していてもいい。

 

バニラ味じゃなくてミルク味が好きなんだ。この違いは大きい。

 

セブン・イレブンのみかん牛乳寒天はどうかしている。

容器だけで家が建てられるくらい食べた。

 

 

チーズとくるみの組み合わせも好きです。

 

<お家のレシピ>

 

・チーズ揚げ春巻き

カマンベール(1/8×2)・梅チューブ(チーズと同じ長さ分)・大葉(2枚)を巻いて揚げる。

あとで半分に切れるよう具の位置を上下に一つずつになるように配置する。

春巻きの皮は乾きやすいので、揚げる前に巻いたそばから濡れたキッチンペーパーなどを被せておく。

揚げたら斜めに切ると断面がきれいで、サイズも大きく見える。

 

・いもグラタン

薄切りにしてレンチンしたイモと生クリームを敷き詰め、上に冷凍パイシートを乗せてオーブントースターで焼く。

味は塩コショウで整える。

 

・"コルヌコピア"

ギリシア神話に出てくる豊穣の角みたいな、パイナップルの中にいろんなチーズが入っているやつ。(ギリシア神話とは一切関係なく私が勝手に命名

パイナップルの皮を容器として使う。

ハム・クリームチーズ・ベルキューブなどを細かく切って混ぜ合わせ、クラッカーと共に。

 

関連メディア

www.meg-snow.com

alpage.co.jp

www.furusato-tax.jp

dailyportalz.jp

ameblo.jp

www.recipe-blog.jp

macaro-ni.jp

 

おまけ画像ギャラリー(Google Photoでチーズと検索したら出てきたもの)

量があまりにも多く、しかも似通っていて笑ってしまった、フリー画像かと思った。

2013年からこんな感じである。

 

 

 

さりげなく紛れていた湯葉、猛者だな...

 

オランダはゴーダチーズなどが有名だが、結構香りが強く毎日食べるものではない。

お土産にするにしても結構ひとかたまりが大きく、一人の人がここまで食べ切れることは少ないだろうと思う。

日本にいた時はスペインバルが流行っていたので、ハモンセラーノとヤギのチーズの組み合わせが主流だった記憶がある。

言うまでもないのがシメとしてのリゾットも、いいですよね、あえてのパスタやピザではなく!

 

<参考文献>

詩的な表現が多い素敵な文が多いので(一つは詩集だし)、一部を読んだら全部読みたくなるような引用を置いておきます。

 

『味覚の生理学』ブリア・サヴァラン 岩波新書

チーズのないデザートは片目の美女である。 

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https://www.iwanami.co.jp/book/b247899.html

前は新訳版を紹介したので、今回は岩波文庫の方を。

ブリア・サヴァラン | チーズの名称 | チーズ辞典 | チーズクラブ | 雪印メグミルク株式会社

この人にちなんで名付けられたチーズもあるくらい。

 

『BUTTER』 柚木麻子 新潮社

誰かを欲情させるのは、すごく楽しい。それが男であれ、女であれ。

バターがとろけるように相手の粘膜が光り、甘やかな飢えが可視化される。自分の力を駆使して誰かを熱狂させるのは、悪いこと、卑劣なこと、汚いことだとどこかで思い込んでいた。誰にそんな風に思わされたんだっけ————。(p. 62)

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https://www.shinchosha.co.jp/book/335532/

多分前にも紹介しましたが、もう三年前になるのか。改めて読み返してみるとまた違う発見がありますね。木嶋佳苗さんの事件を元にしたと言われています。「嫌いなものはフェミニストとマーガリン」だって...!

 

『その他の外国語 エトセトラ』黒田龍之助 ちくま文庫

自分の経験にないこと、自分の趣味に合わないことがおこなわれていると知ると、まるで自分が否定されたかのように感じるのだろうか。

...「ねえねえ、ヨーグルトに塩を入れるなんておかしいですよねえ。同じ日本人として許せませんよねえ。」などと、少なくとも私に同情を求めないでください。わたしはヨーグルトに何を入れたっていいと思っているのだから。それに、「同じ日本人として」というのが、とても苦手なのだから。(p.56)「ふーんという精神」

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https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480434029/

これも既出だな、多分。

最近2017年あたりに読んだものを見返す機会が多く、そういうことなのかもね。

 

「人間は料理をする」マイケル・ポーラン NTT出版

「水しか飲まないものが書く詩は、人を長く楽しませることも読み継がれることもない」————ホラティウス

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https://andpremium.jp/book/books-119/

 

スクショを撮って(紙のページの写真のことだけど)、上下巻どっちからか忘れちゃった。

でもどっちも読むべきだな。

多分発酵の章に載っていて、ホラティウスの意味するところも酒なんだろうけど、ただいま牛乳が追加されました。

 

『食卓一期一会』長田弘 ハルキ文庫

 

「朝食にオムレツを」

 

ピーマンを小さく角切りにした。

トマトも小さく角切りにした。

マッシュルームを薄切りにした。

チーズも小さくコロコロ切った。

 

ボウルに四コ、卵を割り入れた。

泡だてないように掻きほぐした。

ピーマンとトマトとマッシュルームとチーズと

生クリームを塩と胡椒をくわえた。

 

厚手のフライパンに油を注いだ。

熱して十分になじんでから油をあけた。

それから、バターを落として熱しておいて

掻き混ぜた卵液を一どに流し込んだ。

 

中火で手早く掻き混ぜた。

六分目くらいに火が通ったら返すのだ。

そのとき、きみは間違いに気がついた。

きみは二人分のオムレツを作ってしまったのだ。

 

別れたことは正しいと今でも信じている。

ずいぶん考えたすえにそうしたのだ。

だが今朝は、このオムレツを一人で食べねばならない。

正しいということはとてもさびしいことだった。

 

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http://www.kadokawaharuki.co.jp/book/detail/detail.php?no=5689

何も、いうことね〜〜〜!

 

それでは、また!

2月は贈与論の月

...というのもバレンタインデーと私の誕生日がある月だからなんです。

日本だとクリスマス、お正月に引き続いてバレンタインとなると三ヶ月連続で出費がかさんで仕方ないですね。
それには他ならぬプレゼントの交換/贈与が各イベントの大部分を占めているからですね。
 
てなわけでPresent(贈り物)を通してPresent(現在)を考えてみませんか(うわぁ...)。
ちなみにbirthday "present"というよりbirthday "gift"というのが、周りの友達の英語を聞くにこちらでは主流かも。
考古学だと"offering"とか"tribute"とかなんだかすっごい血が滴ってる感じのパワーワードが頻発するので、同じ類語で「あげる⇄もらう」を表すにも幅広いですね。
 
というのも、過去数年で私のものの見方を大きく変えたコンセプトのうちの一つに『贈与論』というのがあり、やっぱりこの私の誕生月には振り返らざるを得ないでしょう...ということでこの月の記事は贈与論がテーマです。
 
ちなみに色々これから発言する側として自分の立ち位置を説明しておくと、私は考古学専攻なので、『贈与論』が主に議論される文化人類学を専門としているわけではありません。
が、この二つの学問領域は密接に絡み合っているし、『贈与論』自体がここら辺界隈で非常に重要なトピックであるので、どちらかを専攻していて習わないことはあまりないと思われます。
 
いちおう一通りの文献は二年前ほどに集中的に読んだのですが(下記参照)、今敢えてそれらを一字一句参照することなくまとめてみるとしたら、贈与論が学界的・社会的に画期的だったのは、ヒト>モノという力関係を覆し、両者が同等に、複雑に関わり合う関係が繰り広げられる場として社会をとらえ直した点ではないかと思います。
 
ポスト・ヒューマニズム的(脱人間中心主義的)とも言えるし、文化人類学者に観察される側であるはずの”未開”の人々の贈与論的慣習が観察者である"文明人"にも共通する社会構造を抉り出したという点では、ポストコロニアリズム(脱植民地的)とも言えるかもしれません。
色んなものを脱しました!おつかれさまです。パラダイムシフト
 
それを踏まえて今、私の言葉で説明してみると、贈与論とは「モノの交換や贈与によって定義されるヒト間の関係の創造・継続・断絶」についての研究だと思います。
 
敢えてカタカナで表したのは抽象化したかったからです。
ここでいうモノとは贈られ、交換されうるもの全てを指しているし、人間ではなくヒトとしたのも文化的な人間というより、生物学的意味合いを含ませたかったからです。
それに物だけが交換されるわけではなく、お金や、恩や思考などの目に見えなかったり形がないものも含まれます。
 
二年ほど前、私にとって贈与論が青天の霹靂だったのは、当時悩んでいた人間関係についての答えを多少なりとも示してくれるものであったからです。
 
かなり個人的経験になるので当時のそれ(今も多少続いている)を平均化して述べると「私が今苦しんでいる人間関係も要はモノのつながりなのか」と思うと少し楽になれる部分があった。
どんなに表向きに純粋な人間同士だけで繋がっているよう見える関係であろうと、根幹では純粋な貸し借りの押し合いへし合いが繋ぎ止めているのだと。
英語だとowe、日本語だと負うで、割と響きは似ていますが、このowe/負うの投げ合いなんじゃないか。
 
小さくて身近な例ですが、そうであればこそよく表しているのが居酒屋で飲んだ時「ここは私が」という行為は、奢られた相手が次回、同様に返せる場を想定しているから起こりうることで、そしてその次にはまた次があって、...と始まってしまったが最後、ほぼ無限に続く”人間関係”の始まりなのです。
 
自分の意思のみで始まっていないとされる関係などもありますが、いずれにせよモノの交換の中止を通じて断ち切るというのは相当なことです。
 
その途方のなさに辟易もしましたが、私は一応、こうしてモノの交換が作っているものとして人間関係を見る視野を手に入れたことで、関係の作り方や切り方を理論的に学んだような気がしました。
 
相手を本当の意味でも物理的にも精神的にも罪悪感という意味で服従させるには「あるのにあげない」のではなく、ポトラッチのように「相手が返せないくらい与える」ことなのだ、とか、他の人にとってはどうでもいい、全く高価でもなんでもないものが「先祖代々伝わるものだから」という意味で重宝されているのはポリネシアのクラと同じだな、とか、自分の身の回りで起こっているモノの循環について、ある意味で冷たく、でも一方では洞察力の高い文化人類学者の視点を手に入れることができた。
 
でもこの贈与論的思考というコマンドを手に入れた当初は使いこなせず、見たくないものを見てしまったような気もしました。
これを学び、自分なりに消化した今でも「知らなければ良かったな」と思うことも多少あります。
でも「正体不明の何か」に脅かされるよりは、まずは本当の敵を知ることが大事です。
私が戦うべきは特定の"この人"じゃなくて、社会システムなんだな、とか。
 
それにもちろん人間関係の全てが贈与論で定義されるわけでもない、という、贈与論を学んだからこそ、良い意味でお釣りが来ることもありました。
先日の誕生日パーティーが良い例で、すごく幸せだった〜!
 
ちなみにクリスマスの12月やお正月の1月ではなく、私の誕生月であること以外になぜ2月が贈与論を語る月においてふさわしいかを説明させてください。
 
2月はバレンタインですが、社会学的にはもう完全に資本主義で嫌いですけど、文化人類学的には「関係が始まる月」になりやすい。
「好きな人に告白」とか、今までなかった関係がイベントとプレゼント(チョコ)によって開始される。
思いが成就しただのなんだのは関係なんです。
モノの贈与を通して、単なる他者間の人間関係が違う色を帯びてくる、というのが大事。
一方、クリスマスやお正月はどちらかというと「関係を保つ月」というのがふさわしい。
家族で過ごしたりしますね。
 
でもここで私の誕生日が二月に入ることによって!二月は関係が始まる月と関係を保つ月の二重構造になるわけです。
先日も親しい友人たちに囲まれて過ごしたのですが、パーティを通じて私と彼ら間の関係は保たれようとしますが、私以外の彼ら同士では新しい関係が始まっていたりして、見ていてすごく微笑ましかったです。
 
大学という高等教育機関に今年で合計7年間くらいいることになるのですが、学んでいて楽しいとかためになると思うのは、必ずしも集合的単位の「社会問題」が学んだことを通じて解決できるようになるときだけでなく、その「社会問題」の影に隠れて後回しにされがちな個人レベルの自分の悩みに対する答えが見つかったり、「こことここが繋がるのか、というか繋げていいんだ」と感じる瞬間であるように思います。
とはいえその社会問題も蓋を開ければ個人の問題の要約なので、相補的ではあります。
そういった意味で教育というのは個人レベルで行き届いてほしいなぁ、と、国内外で良い教育を受けている身だからこそ言えるのですが、思う限りです。
 
私は今年25歳になったんですけど、この特別な一日を祝うというより(今日も朝から図書館に缶詰だし)、ここ最近、自分で作り出し保っている生活や習慣、人間関係の流れがすごく素晴らしいので、どちらかというとその良い流れを通過する1日がたまたま誕生日であることに感謝しています。
 
以下、人類必読書連発の参考文献タ〜イム

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https://mishimasha.com/books/ushirometasa.html

中身の凄さもさることながら、どちらかというと「読書体験」がすごく大事なので、私が敢えてここらでとやかく言うのを聞くより読んでみてほしい。

若かりし頃の私は代官山蔦屋で出版イベントに行って「考古学も文化人類学と同じで、学ぶ意味がないって言われてますけどどう思いますか」なんて作者に質問しちゃいましたてへぺろ

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https://sekaishisosha.jp/book/b449100.html

上記と同じ著者の松村圭一郎先生を筆頭に現在の文化人類学の叡智がギュッと、そしてファッショナブルに詰まった一品。こういう表紙のデザインの本を持っている、っていうことが大事です。ジャケ買い待った無し。私は海外でしか文化人類学を学ぶ機会がなかったのですが(日本にいた頃は存在も知らず)、学術傾向が比較できて面白かった。

 

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https://mishimasha.com/books/21stcentury.html

『うしろめたさの人類学』同様、私の大好きなミシマ社さんから。ソフトカバーの本の触り心地がいいんですわ。贈与論に限らず貨幣学や経済学も入り組んでいて、かつ読みやすい。

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http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000185679

う〜んこれも表紙が良い...と思いきや五冊のシリーズの合本なのでクソ分厚くて重いです。サイズを予め確かめてから買うなり借りるなりをお勧めします。「うお〜文化人類学やったるぞ!!!レヴィ=ストロースだ!モースだ!マリノウスキーだ!」といきなり原著にぶち当たって全滅するのではなく、プロが一段階消化した文章で相性を確かめてみる方がいいかも。贈与論にあたるのは『愛と経済のロゴス』です。↓

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http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195220

表紙、どうにかならなかったのか???

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http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000323958

松村先生然り、日本の文化人類学の最前線の方々、仕事が早くて多作なの、ありがたすぎますね。ほぼ隔年で出版してるの頭おかしすぎる。中沢先生は他の著作でもチベットの仏教について触れられていて、これが集大成の一段階なのかな。チラッと立ち読みしたけど相変わらずのっけから文字だけで周りの世界が再構築されていく感じたまんないですね...

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http://sayusha.com/catalog/books/longseller/p9784865281798c0039

お、インゴルド、日本でも翻訳出てんじゃん!と思ったけど、個人的には日本語訳の文調が肌に合わず、読み進められませんでした...英語の論文もたくさん出ているので、エッセンスを掴み取りたいだけなら短い論文から読むことをお勧めします。この方も様々な専門を行き来していますね。

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http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?id=2236

デスコラも私は好きです。去年の夏あたりなぜか今通っている大学に公演に来ていて、アルコールが入った勢いで普通に話しかけることができました(こちらの大学ではアフタードリンクがよくある)。

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https://www.iwanami.co.jp/book/b482341.html

以前紹介した『性食考』 の待望の新作ですね。前作でも身近なポップカルチャー現代文学への言及が多く読みやすかったのですが、もう今回、タイトルっていうか研究対象がナウシカなんですね。

 

実は今月はサウナの記事を書こうと思っていたし書きためていたんですけど、さっきお昼ご飯を食べたら考えが変わったので2時間ほどでさっくり書き上げてみました。

さっくり、"かき揚げ"...かき揚げが食べたいな〜泣

 

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RATatuilleあるいはラタトゥイヤー(ねずみ年ですね)

海外一人暮らしも二年目に突入し、全然そんなつもりはなかったんですけど、やるしかない。
生きていくには食べることが必要不可欠で、その食べるといってもただの栄養吸収じゃイヤで、だからといって学生じゃ毎日外食に行くというわけにもいかない。
 
 
じゃあどうするのというと、自炊ですね。
自ずから炊かねばなるまい。
 
元から料理は苦ではないし、作れる方だとは思っていたけど、その"作れる"にも日本国内の恵まれた条件あってこそだったのだなと気付くことも多々あります。
 
加熱方法一つとっても実家だったらコンロ×4、グリル、オーブン兼電子レンジとトースターとあったわけで、同じ材料でも味が全く変わってきます。
 
こちらはだいたいは共有キッチンで、お味噌汁を作ったままコンロの上に置いておく、なんてことができない。
 
 
あと一番難しいのが量。
 
自分の身長以上の冷蔵庫付きの部屋に学生が住めるなんて稀で、買いだめもできないし、冷凍ご飯だけで冷凍庫はギチギチです。
 
大鍋があって、いっぺんに調理できて1週間食べ続けるのが可能だとしても私には飽きっぽいので難しい。
 
もちろん手に入る食材も違うから、日本でできた料理がこちらでできるとは限らない。
 
日本で激安のもやしや豆腐みたいなお助け食材もこちらでは高価で、お肉もしゃぶしゃぶ用の豚バラスライスなんてスーパーで売ってないし...!
 
 
という環境にいると自然と自分だけのために作るレシピに関してはレパートリーが決まってきます。
 
 
そのなかでもダントツなのがラタトゥイユ
 
いまいちどこで切るのかわからない単語ですが(ラ・タトゥイユなのかラタ・トゥイユなのか)、のちにご紹介するように私が作るのはもう本家がみたらひっくり返るくらい何段活用かした挙句に色以外あまり原型を留めておらず、もはやそう呼ぶべきかわからない域にいるので、大丈夫です。切り方がわからなくても。ここでは。
 
一時期ズッキーニに激ハマりしていたことを除けば、特別トマト味が好きなわけでもないのに、ましてや生粋の米派のジャパニーズでフランスのニース出身でもないのに笑、安心するのですよね。
母がよく作り置きしていたことのもあるのかもしれないけど、冷蔵庫にこの色合いを見ると安心する。
なにせサラダであり、煮物であり、スープであり、ソースですからね。
 
レシピと呼べるようなものでもないのですが、例えば今日作ったのは...
 
・一欠片
にんにく
生姜
 
・各0.5~1個
ズッキーニ(黄)
なす(日本でいう米ナスサイズ)
玉ねぎ(大)
パプリカ(黄)
 
豚バラ 一枚(5mmくらいの厚さ・ベーコンの長さ)
豚ひき肉でもいいです、なんでもいいです
ベーコン・ソーセージなど加工肉でも
 
オリーブオイル
トマト缶
ローリエ(あれば)
醤油
だし
 
で、深めのフライパンで作りました。
 
もう多分わかる人が見たら材料を見ただけでわかるくらいなので書くのも憚られますが
 
にんにくと生姜の切ったのを入れて香り付ける
豚バラとか調理用ハサミで切って一口大かそれ以下で入れる
豚から油が出るので様子を見つつオリーブオイルを足す
野菜は輪切りとか乱切り、パプリカとかめんどくさいのでもはや手でちぎる、大胆に切った方がめんどくさくないだけじゃなく見た目もいい。
玉ねぎ→ズッキーニ→なす→パプリカの順、なすは火が通りにくいので先に少しレンチン
全体に火を通す(ズッキーニとパプリカは少し歯ごたえが欲しければそこまでやらない)
トマト缶を丸ごと入れる
この時点で味見、トマト缶の塩気が強いので「だから『基本の塩胡椒入れなくていいの?』ってさっき突っ込まなくてよかったのか」と自分でちゃんと確認、もちろん足りないと感じたら入れればいい
小さじのコンソメでもう一回味見
今回少し和風にしたかったので私は醤油と液体かつお出汁をそれぞれ一回しいれました
ローリエ?とかわかんないので多分ここら辺で入れる
 
で完成!
 
よほどのことがなければ、とりあえずカラフルな見た目は誰だって合格ライン取れるはず。
作りたてであったかいまま食べてもいいし(私は今日ご飯にかけて食べました)、少し冷まして味を染みさせて冷菜・前菜としても出せます。
夏はかぼちゃとか入れてもきれいだし、根菜系は基本的になんでもいけます。
 
冷蔵保存で4-5日?は持つので、パスタにかけてもいいし、パンに乗せてピザトースト風にもできるし、鍋に入れっぱなしで火通さないととなったらカレールー入れてもいいし、水足してスープにもできます(一人分だけでも)。
トマト味ということもあってチーズと基本的に相性がいいので、合わせるチーズを変えるだけでも印象が変わるはず。
 
あと生のトマトが嫌いでもトマト味が嫌いっていう人があまりいないのと、ベジタリアンヴィーガンの友達がいたらお肉とか抜きでも作れます(ていうか本来そうらしい)。
 
 
とかひとしきり書いてみたあとで『レミーの美味しいレストラン』の原題がRatatuille(ラタトゥイユ)だったな、と思い久しぶりに観たら出てきたラタトゥイユがとんでもなくおしゃれだったので、レミー(主人公のネズミ)に完敗しました。
 
以下は映画を久しぶりに見て思ったことをちらほら。
 
まず食べるという行為について。
 
単に食べるのではなく"味わう"行為ができる稀有なネズミとして(普通のネズミは残飯が主食で、食べ物が見つかればいいレベル)レミーが登場するわけで、そこで鑑賞者の笑いを誘っているのですが、これ、笑っている場合じゃないなと思ったのが同じ人間間でもこれくらい食べ物に対する姿勢が違うことがある。
 
食べる行為は生死に関わっている且つ最終的には個人単位の選択だと思っているので、人の主義嗜好に口を出したくないのですが、私はどちらかというとレミー寄りで、自分が食べて美味しいと感じるものはある程度自分で作れるようになりたいし、いろんな味を試してみたい派ですが世の中どうもそういう人ばかりではないのだな、と思うことが家どころか国、もはや大陸か、を出てみると多々あります。
 
辛口批評家にいざラタトゥイユを出すのだ!となったときにpeasant(農民)のレシピじゃないか!と揶揄されているシーンがある。
でも日本でもよくありますよね、玄米が白米より栄養があると見直されたり、まじ農民なめんなよってわけ。
見た目がファンシーなだけで、意外と材料は素朴、っていう料理もたくさんある。
 
 
あとは英語での言葉遊び。
 
ラタトゥイユ」と聞いたときにRATatouille(rat=ネズミ)みたいだねとリングイネが笑う、ってそんな名前のオメーはくるくるパーマのパスタじゃねぇか、コック帽の中のレミーに髪引っ張られすぎて円形脱毛症になるんじゃねーの?代わりにパスタでも被るの?ねえ?
という感じなんですけど、このなんともいえない無知からくる偏見というか、もしかしたらこんな勘違いから映画のプロットが浮かんだのかな?というのも面白い。
 
あとネズミに関する表現で"rat out"(告げ口する)が出てきて、本当に文字通りというか、「ネズミがいるのを衛生局にバラす」っていうシーンで使われてました。
ディズニーこういうのほんと上手ですよね。
 
アクセントでいうとフランス訛りの英語も聞き取りにくくて絶妙なテイストを加えているのだけど、フランスが舞台で本来登場人物は全員フランス語なはずなのに英語で訛ってるって微妙におかしいなと。
フランスでフランス語で公開するときはどうしていたんだろう?
 
 
とここまできたら私のネズミ体験記も話さなくちゃ。
 
ヨーロッパはゴキブリじゃなくてネズミというのは本当で、どっちの方が嫌ですかと訊かれたらどちらも等しく嫌です。
 
いない方がいいに越したことはないし、それぞれ違う脳の不快指数を司る部位を刺激していて、本当に宇宙ってうまくできてるなと思うくらい。
 
 
今ここで比較することはしませんが、私の経験を二つばかり。
 
先日帰省後キッチンの下段を開けたら乾燥わかめと中華だし粉末の袋に穴が開けられ、中身がマリアージュしてスポンジボブ・ワカメパンツ爆誕しておりました。
粉末の、それこそ一抹の水分を吸い上げたワカメが増えてました。
増えるワカメちゃん....
 
またあるときはうっかり開けっ放しにしていたオリーブオイルのボトルがネズミの入水自殺ならぬ入油自殺場と化しており本当にびっくりしました。
結構大きいのに、ペットボトルの蓋の半分ほどの直径にどうやって入ったのかわからないほど。
 
 
あとは余談オブ余談なのですがラタトゥイユについて書いていて「家族的相似」という言葉を思い出したので書いておこうかな。
 
元は哲学者のウィトゲンシュタインによる分類学的な用語であると記憶しているけど、その応用性は幅広く、文化人類学認知科学でもよく用いられています。
今何も見ない状態で、私の言葉で説明しようとするならば(論文を書くときはやめましょう)、以下のようになります。
 
家族を家族たらしめるものはなんだろうか。
そもそも現代の家族そのものが極めて近代的な産物であることはさておく。
核家族のみに絞ってみても、父と母は法律的に結ばれており、その子どもは生物学的に母親似であったり父親似であったりする。
兄弟は母から生まれ、同じ遺伝子を受け継ぐ。
父と母は共に働き子どもを育てる。
一見至極普通のことのように聞こえるが、分類学的に考えてみると非常にモザイク的であることがわかる。
部分的な要素が最終的に家族を作り上げているだけで、家族は「家族である」こと以外に家族とされているメンバー全てが共有する共通項がないのである。
つまり家族を厳密に定義しようとすると同語反復的になってしまう。
それでもお互いが家族であるという認識がある。
先ほど核家族をあたかも自然に例として述べたが、母子家庭や親戚まで広げた家族、または血の繋がりを持たない家族に関しても同様のことが言える。
 
『想像の共同体』というナショナリズムに関する名著があるが、曖昧な民族内で不思議と連帯意識が生まれるのであれば、それが家族という比較的小さい単位に置き換えても同様のことが起こりうると考えてもいいのかもしれない。
 
話を戻すと、ラタトゥイユは「家族的相似」的に捉えられるといい。
先ほどの適当すぎるレシピから分かる通り、どこで切り取ってもラタトゥイユだし、書いていないものを足してもラタトゥイユなのだ。
流石に"どこで切っても"といってしまうと「玉ねぎのトマトソース炒め」とかまで切り刻まれてしまうとアレなんだが、pre-ラタトゥイユとして捉えればギリギリいける、いや、いけないか、あくまで「ない材料がなくてもそこまで焦らないでくださいね」という範囲内の意味だ。
こんなわけのわからない記事を映えある2020年の1月に読んでいる人のなかで、そんなところに揚げ足を取ってくる人はいないだろうが、一応ね、一応。
 
こういうレシピは楽だ。
都合がいいから名前はそのまま使い続けられるだろうが、原型にこだわる必要はない。
ラタトゥイユ”風”みたいになってしまってもいい。
 
 
一人で自分のために作る分には、そこまでこだわらなくていいんじゃない?
この「こだわる」にも語弊があって、必ずしも時間をかけたり選び抜いた材料を使用することだけがこだわりでなくてもいいだろう。
時間をかけず、あるものを使うことが一種のこだわりと呼べるときもあると思う。
前にも書いたかもしれないが、improvisationとopportunisticは生きる上で常に携えておきたい考え方の一つだ。
とかいっておきながら私はどうしようもないところでどうしようもなく完璧主義なのだが、そのどうしようもなさを見直すために、定期的にラタトゥイユを作ることにする。
 
 
 
 
 
関連記事や本など

dailyportalz.jp

↑こういう記事があるからインターネットはやめられない。

omocoro.jp

↑古き良きテキストサイトっぽい記事...

 

f:id:heavyd:20200123053423p:plain

http://www.littlemore.co.jp/store/products/detail.php?product_id=977

↑按田さんにとってのチチャロンが、きっと私にとってのラタトゥイユ

 

f:id:heavyd:20200123054117p:plain

https://www.shinchosha.co.jp/book/507031/

 ↑え、新訳でたの?分厚くない?と思ったら新訳なんだけど、私が読んだことがあるのは『味覚の生理学』だけ?だったのかな?わからない。数年前になんとなく大学の図書館で手にとって読んだ感想はプラトンの『饗宴』までではないにせよ、タイトルからの話の逸れ方がすごいな、だった。食事に関する話って、単に食べ物の話だけじゃないんですよね。

 

f:id:heavyd:20200123054712p:plain

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309028309/

↑日本に帰省中、 どの本屋でも割と目についたので待ち合わせ前に「生命式」だけ読みました。装丁から「あ、人が殺されて食べられたな」と瞬時に内容にリンクできるのがいい。私の生命式を行うなら、そうですね、できるだけ美味しく食べてもらいたいのでまず普段からの食事に気をつけます。同じ死を見据えた生き方でも、焼かれるだけのお葬式とは違くなりそう。

 

f:id:heavyd:20200123055542p:plain

http://www.osaka-up.or.jp/books/ISBN978-4-87259-470-6.html

 ↑これずっと読みたくて、タイトルだけ頭に残っていたんだけど見かけたので買ってきました。文庫本でめくっているだけの段階ですがどうしようもなく面白い。穴を持って生まれてしまったばかりに俎上に上げられたドーナツが気の毒。

 

本の画像サイズの変更の仕方がわからないので、紹介する本がだんだん大きくなっているように見えますが、たまたま選んだ順番に大きいだけで私のせいではないです。

読み込みに時間がかかったらごめんなさいっ