キヨカのブログ

半永久的夏期休暇自由研究

早春小噺寄せ集め

ん〜春は眠い!

最近天気が良くって眠気しかないので、我ながら良いなと思ったアイディアをなんとなく置いておいて今月は良しとします。

私の好きなオモコロやデイリーポータルZの記事ネタになりそうなタイトルを考えて実行に移さない感じ。

あとツイートにしては長すぎ、ブログにしては短すぎみたいな、そんな中途半端な原石(というと聞こえが良い)を集めてみました。

帯に短し襷に長しですね。

 

めちゃくちゃ盛るなら、内容としては益田ミリさんの「よくわからないけどいっか」感を目指しました。

この感覚、大事ですよ。

最近割と親しいと思っていた人に「SNSに挙げている内容がよくわからない」と言われて少しばかり凹んだのですが、世の中は結局わからないことばかりなのであまり気にしないことにしました。

私のわからなさを楽しんでいる人もいるはず!

でもわざわざ「あなたの言っていることがわからないよ」って言ってくれる存在はありがたい。

ていうか「あなたのことはよくわかってる」なんて、よく分かっている人こそ言わなくない?

わかろうとせず、わからせようとせず、流しそうめんを見送る感覚で見守っていただけますと幸いです。

タイミングが合えばすくって食べるかんじ。

 

  • 英単語を検索して出てきたメタルバンドとホラー映画を紹介する
これ本当に面白いくらい、結構真面目な学術用語とか検索しても(一応大学院生なので)よくわからないニッチなバンドや、評価が4.2くらいのC級ホラー映画にぶち当たることが少なくないんです。これ、実は「現在進行形で英語学んでて良かったな!」と思う瞬間の一つだったりします(嘘です)。でもほんと面白い。多分英単語側としても「なんでこの名前にしたの?」って思ってるくらい変なのばっかり。これは意図的に検索しても見つかるものじゃない。具体例を集めていれば良かったのですが、一発で本来検索したい内容であるはずの意味に行き着かないことにイライラして消してしまったことが多かったので残ってないです。逆にメタルバンド好きの人は改めてバンド名の意味を検索してみると面白いかも。
 
  • 形ごとに名前が付いているランジェリーブランドがアツい

下着が好きなんですけど、色々探しているうちに最近のトレンドとしていちいち名前をつけると当たり前だけど個性が出てきて良い、 という印象があります。女性の名前が付いているブランドもあり、試着時に店員さんと話していると「え、誰のこと話してるの?」と言ったわけがわからない状況に陥るのも確かですが、名前とイメージと形は割と一致しているので覚えやすくて楽しいです。ちなみに私の推しメン且つ一番の友達はintimissimiのEleonoraちゃん。

  • 「言ったもん勝ち」の対義語は「言わなかったもん負け」か

個人的にはそうであってほしくないと思う一方、発言の機会や場が格段に増えている世の中だからこそ、そう考え始めている人が多いのかな、という印象を受けます。「あのとき言わなかったからあれで良かったと思った」の、「あのとき」がどんなときだったのかという想像力のある人がもっと増えると良いな。自戒も込めて。

言えない状況で言えなかったことを後出しするのはかっこ悪くなくて、むしろめちゃくちゃ勇気がいることだと思う。

まあこのハイコンテクストな「察して」文化は特定の種類の人や国ではあまり通用しないので、特に嫌なことの場合はきちんと怒りましょう。そして、怒れなかったときは強気な友達に相談して、次に備えましょう。

  • 好きな曲を三日で500回くらい聴いてしまう

いや、別にいいんですけど、音楽に”消費”という言葉を使うのが好きではない自分がいる一方、好きな曲の圧倒的な中毒性から生まれる消費感には毎度驚かされます。そしてさらに怖いのは、こんなに一時期好きなのに飽きる自分がいるということ。でも何かを「好きになる」という行為には、こういう一時的に盲目的な時期と、その熱が過ぎ去った後の付き合い方のバランスがポイントかもしれませんね。

そういえばiPodを使っていた時は、プレイリストの名前を作成時の日付にしていたことを思い出しました。今はspotifyでふとお気に入りに追加してしまうので、自分の音楽史みたいのなくなってきてしまった...こう、簡単に自分史っぽいの作れるの良いよね。

  • 対談がしたい

顔を合わせているときはそこまで話さなかった友達からたまたま連絡が来たりして面白い議論に発展したり、何気なくアップしたインスタグラムのストーリーに鋭い考察が入って、共通の好きなことが見つかってより深い仲になったりと、出会いや付き合い方が多様化してきました。で、「わ〜い!」となって熱い議論を交わすのだけど、対談て前提ではなくて気がついたらなっていた、事後的なものが理想だなと。対談形式の本を読むのも好きなのですが、居酒屋で話している雰囲気を感じさせる、話の始まりと終わりの区別がつきにくい感じ、良いですよね。

私はサシ呑みが好きです。

  • 試着室で買わない服を着て写真を撮る  

 「試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。」というキャッチコピーが一昔前に話題になりましたが、その前に試着室ではまず服そのものと対峙し、恋に落ちるべきですよね。海外の服屋さんが良いのは、柳原可奈子がモノマネしているようなショップ店員が徘徊しておらず、一流デパートでも基本放置プレイなところ。試着室で必要以上に声をかけられることもないので、めちゃくちゃ写真撮っても全然大丈夫。

この前嬉しかったのは、良い意味で絶対にお世辞を言わなそうな店員さんに何気なくカジュアルスーツ上下を着て出たら「めっちゃ似合ってるじゃん!写真写真!」っていわれたこと。普段は誰もお世辞を言わないから、気軽に買わないと思ってる服でも試着できて逆に購買欲が上がる、という謎の現象が起こりました。

あと服を買おうか迷ったらInstagramのストーリーに上げて色んなタイプの友達から意見をもらうもよし!

  • FacebookのMessengerのリアクション機能

があんまり好きじゃない。そもそもいいねボタンが多様化し始めた時から暗雲が立ち込めていた気もする。感情を集約しちゃいけないと思うんですよね。「シェアされているコンテンツに対する反応を多様化させる」という(おそらく本来の目的)よりは、「五つの反応に沿ったコンテンツがシェアされるようになり、反応が計量化しやすくなった」気がします。ユーザーではなく、あくまで作成者のためのものなのでは。そしてその五つの中から選ぶ私たちの感情も微妙なニュアンスを失い始めているのではないかと。

Instagramのストーリーへの反応も、いくつかオプションがありますよね。そもそものFacebookTwitterはコンテンツに対する気軽な共感からのつながりを拡大することで利用者を獲得していったわけだと思うのですが、 upvoteかdownvoteしかないredditや、そもそもそんなものが存在しない2ちゃんねるを見てみるとコメント欄に重きが置かれていて、そこで議論が交わされている。Twittertumblrボタンを押せば済む反応ではないことは、言葉にしなければならない。それがフェイスブックには減ってきている気がする。

なかでもメッセンジャーのハート顔の利用頻度の高さ、気軽さといったらない。Twitterの「お気に入り」の★から♡への以降も、Instagramのダイレクトメッセージの♡の軽さも、多用しておきながらなんだか怖い。昔だったら、♡押されたらどんなコンテンツをシェアしたのであれ、もっと強い意味を持っていた気がすると誰かがツイートしていました。

自分の感情がそのまま伝わることというのはほぼないので、だからスタンプや絵文字に頼るわけですが、使用を重ねる度に私たちの感情がそちらに合わせてきてしまっている気がする。絵文字で肌の色が指定できるようになったように、選択肢が増えれば増えるほど自分の意見を代弁してくれるものが増えるわけなのですが、それだけが表現方法になってしまったら悲しいので、私はブログを続けるのだと思います。♡

でも♡はやっぱり良いよね。♡は良い。

個別のメッセージもアプリによって同じ人に対してでもコミュニケーションの仕方が全然違うなと、Messenger、Whatsapp、LINEを使い分けていて思います。メッセージがかさばりがちだったところに、LINEのリプライ機能は嬉しい。

  • 「海外で活躍する日本人」と「海外に行って(も)変な日本人」

島国だからか、国外に出る人に注目する国、日本。でもその対象は「外に出て日本の文化を広めるために頑張っている」人や、「海外で勉強して帰国後日本でその知識を活かす」人。その対極にいるのが、「海外に行って変なんなっちゃって帰ってこなくなりました」という、国内外に利益をもたらしていない根なし草のような存在で、まあ私なんですけども。

「『クレイジージャーニー』に出そう」ってよく言われますけど、クレイジーはクレイジーでも旅人なら日本が拠点ですからね。私はどちらかというと、元から母国に適合していなかったのが、よその国で暮らしてからというもの帰国後もその傾向が増したという感じです。「どこにいても、どこにも属している(belong)気がしない」というのは少し悲しいことですが、きっと何事もパーフェクトフィットなんてないのでしょう。でもだからこそ実験がてら色々な場所に住んでみたりできるのであり、離れてみて見えてくるものがあるというのは確か。

というわけで私はそこらへんのweabooよりも日本に詳しいオタク、みたいな地位を海外で確立しつつあります。 一応国籍はまだ日本なので、自分のなかの「日本らしさ」と「日本らしくなさ」の葛藤を楽しんでみたいと思います。トルコの時間の流れ方や、Dutch directnessもうまく取り入れていると嬉しい。

 

・self respectとconfidenceの違い

私は自己評価が低い方だと思います。これはもう良いとか悪いとかではなくて、ここまで来たら変わらないものです。でもそのあまりの低さの割には周りにそう思われてない方だと思います。これも結構どうしようもない。

冒頭に戻りますが、「誰かが私のことをどう思っているのか」というのは二重構造の想像みたいなものだと思います。相手がもし私に関する評価を下したとしても、私がその評価を理解できるとは限らないし。いや、私も自分のことよくわからないし。答え合わせというものが不可能ですよね。

でも、たまにはひどいことを誰かに言ってしまう(し言われることもある)!なぜか「私のことを全く知らないはず」の通りすがりの人にもその権利はあるようです。そのときに大事なのがself respectです。

そんなとき「毒を以て毒を制す」とまでは行かなくても、「自分は不当な扱いを受けている」という出来事には強気でいきたい。これ、自信とか自己評価と別物なんですよね。defense mechanismという言葉もよく聞きますが、自分のことは守らなきゃ。そういう感覚を研ぎ澄ませていきたいなと思います。

というのも最近友達と話してて気がつきました。相手の子も自己評価が低いんだけど、なんか気高いなって思ってて、ポイントはself respectなのかなと。

 

追記

24歳になりました!干支2周しちゃったって信じられない。

最近のハイライトは、友達とスカイプしているときに5秒くらい寝てその5秒間に買い物している夢を見て、目覚めたときにそれまでの会話となにも脈絡もなく「スウェット」と口にしたこと。

映画『善き人のためのソナタ』の最初の方のシーンで、「眠らせないのが一番の拷問だ」って言ってたのがあった気がするけど本当にそれで、私だったら眠らせてもらえなかったら真っ先に仲間を裏切ると思います。

拷問シーンで言えば『007 慰めの報酬』のも結構「イテテテテ!」ってなりました。

それではみなさん、良い三月を〜

 

暖かすぎて桜フライングしているライデン。

行為の棚ぼた化(撞着語法)

あけましておめでとうございます!

2019年。

どうも響きが好きではないのですが、始まってしまいましたね。

 

この時期になるともう抱負を書かなくてはいけないか、年末に振り返りつつ新年に間に合うように発表するそうじゃないですか。

私も毎度遅れながらも割と考えるのですが、でも毎年うまいことが言えない、みなさんと同じ人間です!

今年もよろしくお願いします。

 

今回は書き留めたい言葉があるので書こうと思いました。

これが結果として抱負や目標になるならそれもいいかな。

 

というのも昨年後半にかけて精神的ダメージの百鬼夜行が押し寄せ続けていたんですね。

百鬼、しかも毎晩連続で来ちゃうともうどうしようもない。

玄関を閉め鍵を掛け通り過ぎるのを待つしかないんですけど、でもたまに外に出なきゃいけなくて、それでもう絶対エンカウントしちゃう。

これについては現在進行形なので、また全貌が解明してから書こうかなと思います。

今はそれらを妖怪の行進に例えられる程度には回復し戦えるようになってきた、ということだけはお伝えしておきます。

なんで私が選ばれちゃったんだろう〜

年女だから?

 

月イチ更新を目指していたブログが停滞してしまったのも恐らく妖怪のせいですね。

妖怪、便利!

いや〜定期的に書き続けると言うのは本当に体力の要ることで、すでに他で消耗していると無理なんですよね。

村上春樹が書くためにマラソンしているのがわかりかけて来ました。

それに好きなものや楽しいことを書く場なのに、暗い方向に持って行きたくなかった。

ギャグマンガ家の人たちって、きっと単に面白いだけでなく辛いことでも昇華するスキルがないとやっていけないんじゃないか。

 

 

そんななか、先日久しぶりに会った高校の頃からの友人の言葉を紹介・分析したいと思います。

 

彼女と出会ったのが高校一年生で15〜16歳ですから、それはそれは大昔ですね。

クラスが一緒だったのですが、正直なぜ仲良くなったのかあまり覚えていません。

誕生日だけはとても近くて、高校生ながらに「同じ星座でもこんなに違うんだ...」と星座占いを信じすぎているにしても大きな違いに愕然とした記憶があります。

彼女は優等生の中でもトップクラスで、私は特別にうるさい猿とかだと思ってもらえれば大丈夫です。

これは決して卑下などではなく、当時のクラスメイトにアンケートをとれば全く同じ答えが返ってくるはず。

 

私はほとんど覚えていないのですが、本格的に仲良くなったのは、彼女曰く「下北沢のエスニック料理屋」だそうです。

私が彼女をこのお店に連れて行ったことで、このときまだ新ジャンルであった東南アジアやインドカレーに足を踏み入れるきっかけとなってしまったらしいのです。

これは責任重大で、というのも彼女はその後大学も東南アジア関連、仕事も一流企業のグルメ系所属という、味覚のエリート街道まっしぐらでここまで来ているからです。

そうなると流石に自分のことでも猿というのは気が引けてきたので、オランウータンにします。

 

...このように、毎回忘れて、毎回私が訊く「なんで私たち仲良くなったんだっけ?」という質問に彼女が答えるというお馴染みのやり取りを今回会ったときもしていました。

 

大学入学後はだいたい一年に一回ほど顔を合わせるのですが、

やはり最近は高校時代には想像だにしなかった話が出てくるもので

その都度増す話の重みや深みに「私も大人になったな〜」と振り返る指標となっていました。

 

今回は私が主に愚痴を聞いてもらう流れになりました。

 

そうして牛すじカレーを啜りながら身の上話をしたあと、お店を出て次のカフェに向かって歩いていたときに、彼女は言いました。

 

「きよかも辛いこととか悲しいこととかあるかもしれないけどさ」

 

ここで私が予測した言葉は、

「お互い頑張ろう」とか、

「きっと今年はいいことあるよ」でした。

恥ずかしながら。

 

しかし彼女がその次に発した言葉は、

「きよかは私の一部だから」。

 

 

私はその一言に非常に感動し筆を取ることになったわけですが、なぜ私はそんなに感動したのでしょうか、というのを以下分析したいわけなんです。

 

まあそうなんでも分析せずに親友の言葉だと思って素直に受け止めなさいよ、と思う方もいらっしゃるでしょう。

しかしこれが分析結果、私がもっとも必要としていたにも関わらず気がつかなかったことであったと判明したので、書き留めておく必要がでてきました。

感動したことに感覚的に共感できる方もいるかもしれません。

そうした方は答え合わせのような感覚で読んでいただければと思います。

正解なんてないんですけど、もしこれを読んでいる方がいつか誰かに言われたときに湧き上がる感情を理解する手助けになるかもしれないしね。

 

数週間考えていたのですが、キーワードは「アンパンマン」と「棚からぼたもち」かなと思います。

 

(これはまた私の大好きな贈与論に突入してしまうんですけど、混みいった話と先祖のネックレスのために何キロも航海する先人たちの話については私よりも何千倍も専門家で大御所である後述の参考文献を読んでいただくとして)

アンパンマンと棚ぼたの共通点は、誰かに利益を与えていますよね。

でも与え方が決定的に違う。

 

私は彼女の言葉でこれに気が付いたのです。

そもそも、「棚から落ちるぼたもちに意思はあるのか」という哲学的ツッコミが出て来そうですが、それ!そこ大事!

恐らく現代科学の範疇では答えはノーです。

諺のなかでぼたもちは主語として扱われていない。

表現上ではあたかもぼたもちが自ら棚から落ち、人々の口に入っているようですが、解釈としてはあくまでぼたもちを幸運にも手に入れた人間側に焦点が当てられています。

 

ていうか棚からぼたもちが落ちるって何ごと?

それこそ妖怪のような、超自然的な存在を用いないと説明できなくない?

諺作成者にぜひ聞きたい。

調べていると

「棚からぼたもちが落ちるのを口を開けて待っていた」説と

「口を開けていたらぼたもちが落ちてきた」説が出てくるのですが、

前者はもしそうだったとしても、その一見究極の怠け者に見えて実際全然そうではない矛盾した行動が現在の私の理解の範疇を超えているので、以下後者を支持したいです。

 

アンパンマンはどうか。

アンパンマンは「困っている人を助けたい」という明確な意思のもと、自分の身を削る英雄です。

ではもらう側から考えたら?

ぼたもちを”労せずして”手に入れた人と違うのは、こちらも明確な意思のもと助けを呼び、助けをもらった。

とてもわかりやすい関係です。

 

でも、結局どちらも与えている。

お腹が満たされるという点では同じ。

しかもあんこつき!やった!

 

あ〜難しい意思の話になってしまいました。

これも専門外なので、幾度となく紹介している『中動態』を読んでいただければ。

 

友達の言葉に戻ります。

ここで私が言いたいのは、おそらく私は彼女にとってぼたもちだったということです。

 

恩着せがましい言い方をすれば私は彼女に何かを与え、それが彼女の一部になった、というのが通常の解釈なはず。

二者間の関係は矢印で表されるはず。

アンパンマンと彼が助けた人々、という関係と言ってもいい。

 

でも、私たちの場合それが成り立っていないんです。

なぜなら私は彼女に与えていないからです。

というよりも、私は与えているという意識がなかった、という方が正しい。

だから私は感動したのです。

 

自らの意思のもとで行う与える行為でしか、人に与えられないと思っていた

そしてそれには時間を置いて返礼が伴う、と。

贈与論そのものです。

 →こう来て

←こう来る。

 

なんとなく、自分で良かれと思ってやっていることではなくても、なんらかの形で自分の行為が人に利益をもたらすことがあるかもしれない、というのはわかってはいました。

「ありがとう」と直接言ってもらわなくても、私から利益を受けている人がいるかもしれないと前向きになれるというか。

でも言葉にはしづらいというか、言ってはいけないというかそんな気持ちがありました。

でも彼女の一言ですっきりした。

 

これはおそらく「私にとって彼女は何か」という関係にも当てはまります。

どちらも無意識で始まって、いつしかそれがお互いの自分の一部になっていた。

reciprocal!

だから利益という概念なんて掠りもしないんです。

ここに彼女の単語選びのセンスを感じます。

外部からお肉などの塊を咀嚼して消化する一方的な行為ではなく、成形前の柔らかいパンのタネを捏ねているうちにパンと自分の境界がわからなくなった、そんな感じ。

あれすごく気持ち良いですよね。

しかもどちらかに留まってしまっているのではなく、この交換運動は現在進行形で継続中です。

だから、矢印で表すなら🔁ですね。

動きをたくさんつけてGIFにしたいくらい。

 

それにしても「一部となる」ってものすごいことです。

彼女が一番すごいのは、ただ私から何かを吸収しているだけでなく、それをきちんと消化しているところ。

これは言い換えれば私が彼女にたまたま消化しやすいものを与えていたからかもしれないし、単に彼女の消化器官が優れていたからかもしれない。

長い時間をかけて消化という行為に向き合っていたからかもしれない。

いずれにせよ「一部」という言葉の裏には膨大な過程を感じさせる何かがあります。

 

ちなみに私は食べ物でも、知識でも、愛情でも取り入れすぎてパンクすることが多々あります。

ここは欲望に忠実というよりは、感受性が豊か、好奇心と食欲が旺盛に言い換えておきましょうかね。

歩く受容体みたいなんだと思います。

パンクするのもブレイクスルーというか、結構重要な成長の機会だと思うんですけど、立て続けに起こるとどうも難しい。

私は多分それが主な理由でここ数ヶ月疲れていた。

吸収の対義語は消化なんですよね。

発散ではない。

だから取り込みすぎるとあくまで内にしばらくこもっている。

 

 

そンな感じで疲れてしまったので、私は「もらう」「あげる」という意識のもとに行う行為をできるだけ減らしていこうと思います。

ブログにしたって多分そういう意識で書いていると私も読んでいる人もつまらないだろうし。

意思伝達の手段として、自分の考えを文章を通してわかりやすく伝えるという技術は磨いていきたいけれども。

 

実はそこがブログ以上の文の単位(本など)の良いところでもあって、書く側もそれなりに推敲を重ねている(はず)なので、消化する側もそれなりに根気が要る。

そういった時間のかかるコミュニケーションは速度を重視していない分、議論が深められるんではないかなと。

 

「あげる」ことを意識的に行い見返りを求めないほど私は今のところ出来た人間でもなければ余裕もないし、そういったサイクルに疲れてきてしまった。

解消するにはこの「あげる」意識の低下をしていきたいなと。

そしてそれをこの記事のタイトルのように行為の棚ぼた化と名づけたいと思います。

主体を自分ではなく周りに置き換えています。

私という棚からぼた餅が落ちているんだけれども、私は落としていることに気がつかない

(すごくアホっぽく聞こえますけど、私実際によく落し物をするのでこれが自分にとってもっとも適切な表現ということに落ち着きました)

行為には主語があると考えられがちですが、この場合主語があるようなないような、撞着語法になってしまいました。

私は何かを誰かや何かに与えているかもしれないけど、そういった意識を常に持つ必要はない。

数とかも数えない。

消化できる人はうまく消化してくれるだろうし、食あたりを起こす人もいるかもしれないけれども。

これを無責任といった言葉で片付けるのは簡単ですが、

少なくとも自分ができる範囲の行動が誰かのためになれば良いな、と思って生きていればそんな悪いことは起こらないのではないか。

 

5秒ルールみたいな感じで、もう一回拾って自分で食べてしまっても良い。

こうやってくどく書いているのも自分自身を説得させようとしている部分が大きいので、普段から自然にバランスが取れている人は当たり前すぎて読んでいてもわからないかもしれません。

自戒を込めて一言で言うと

好意でやっても返ってこないことの方が大半だし、気にするな、気にするなら無理してやるな」という話ですね。

 

少なくとも今のところは私はアンパンマンのようには自分の身を削ってまでできないからです。

前からそうではないかと思っていたけど、認めるのに時間がかかりました。

 

それに意図的な「贈与」と「返礼」だけでは、やっぱり世界はつまらないじゃないですか。

 

ここは実はボランティアをしている方に聞きたいところです。

あと個人的に非常にお世話になったけどいまだに理解できない、イスラム教などの「喜捨」の精神がある宗教の方や地域の人と話してみても面白いかも〜

 

ここまで書いて思ったけど、私は何かを誰かに与えていて、その返礼として友達から言葉をかけてもらったとも言えるのかな。

マイナスが、プラスに...逆もまた然り。

わー贈与の輪から抜け出してぇ〜!

 

〜近況報告〜

 

・友達と会った日の帰り道にものすごいボルゾイ、オーラで例えるともののけ姫のモロが、しかも三頭が悠悠と散歩していたので、ありがたい言葉を忘れかけるほどだった。

・スペイン人の女友達と二人でクリスマスイブを過ごし、「飲みすぎて苦しいのでブラを取っても良いですか」と訊いたら「当たり前じゃん、家父長制なんか崩壊しとるんじゃ!」(?)と返された。

・現在のハウスメイトの一人が40代のおじさんなのだが、最初に彼の娘が登場、そして次はオネエの同僚(?)が出てきてなかなか本物に会えないかと思いきや、最終的に出てきたのがボブ・マーリーだった。

 

周りに起こる現象がすぐに消化できない、あるあるですね!

 

・参考文献

 うしろめたさの人類学

 

受容体が強すぎる人は読みやすすぎるのに内容のインパクトがすごいので、オーバーフローしないように気をつけてください(私は一年以上引きずっています)

 

性食考

かいじゅうたちのいるところ」の怪獣と主人公の関係くらい、人を好きになってみたい

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

「パンヴェニスト」って汎(パン)・ヴェートーヴェンの人みたい(?)

 

街場の文体論 (文春文庫)

文中の「滔々と」という表現が素敵。ザ・表意文字と言ったところか。これはいつか使ってみたい

 

・関係ないけど今読んでいる本

数学する身体 (新潮文庫)

イミテーション・ゲーム」もう一回見たくなった

 

人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書)

もう人が物語なんじゃないか。「利己的な遺伝子」ならぬ、人は物語の乗り物

 

あたしとあなた

わたしじゃなくて「あたし」なのがポイント。読書用じゃなくて観賞用のタイプの本です

 

今年もよろしくお願いしま〜す!

 

チャイ!

芸術の秋だよ!①〜完全自己満足応援鑑賞〜

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 暇なときにInstagramPinterestTumblrなどで、とくにアートを閲覧するのが好きです。

Vimeoのアニメとかも楽しい。

(もしおすすめのサービスやアカウントがあったら教えてください)

今のご時世はお金がなくて引きこもってても、画面をスクロールして保存するなりスクショするだけで自分の好きなコレクションができる。

良い時代ですね。

 

しかし便利すぎるサービスはいつの間にか膨大なアーティストを抱え始め、収集がつかなくなって来てまいりました。

私のアカウントも同じ!

整理するの苦手なんですけど、多分そろそろやらないと手遅れになるので実験的にこのブログで試みることにします。

ただまとめてもつまらないのと、思い入れの強い作品を紹介する方法として、応援鑑賞という手法を取りました。

映画の応援上映の絵画バージョンです。

これは三日前に思いついた割には我ながら素晴らしいコンセプトだと思っています。

 

映画館、展覧会、美術館、劇場って、少なくとも日本では大抵の場合「喋ってはいけない場」になってるじゃないですか。

中でももっとも曖昧なポジションにある映画館に関しては、心なしか海外の方が面白いときは笑うとか、どんでん返しの場面で「マジかよ(息を呑む)」みたいなリアクションがよく聞こえる気がします。

応援上映ではないけどより自然に感情が出せる。

そっちの方が個人的には楽しめるし、自分自身が感情を無意識に表に出しやすいので気を使わないで済むというか。

「他のお客様のご迷惑になる」という口実を使って注意しなくても、ある程度のマナーはみんなわきまえつつ楽しむみたいな。

 

これは多少、美術館にもあっていいんじゃないかと思う。

音付きのインスターレーションとか子ども向けの展示じゃなくても、一つの絵を目の前にして一緒に行く人と喋りながら見るというのはなかなか面白いものがあります。

映画と異なり文字やセリフを含まない絵画こそ、敢えて小さく横にある解説を読まず自分なりの解釈を展開する余地があるんではないでしょうか。

 

ちょうど一年くらい前、満を期して『怖い絵』展に美術好きの親戚のおばさんと行ったときの話。

上野で有名な展覧会ということもあって、激混みだった。

中野京子先生の著作は中学のときから大体網羅して3回くらい読み返してるのと伊達に学部で歴史専攻だったわけじゃないので、ほとんどの絵の主題と解説が私の頭に入っていました。

だから私より背が低くて、混雑したなかで人を掻き分けるのに苦戦していたおばさんに全部解説してました。

そしたら密集したなかで近くにいた人に舌打ちされ、黙れみたいなことを言われた。

狭い、狭いよ!狭いのは会場じゃなくてあんたの心だよ!!!!

こちとら雑談してるわけでもなし、あなたの手元にある数百円払って使ってるオーディオガイドなしで親戚孝行しようとしているというのに!

文系苦学生の数少ない使い道を阻まないでくれ〜

 

あと美術館が嫌いな人の視点に立ってみても、「アートそのものが嫌い・興味がない」というよりも「異様に冷房を効かせている」や、「人混みが嫌い」「緊張感がある雰囲気なので疲れる」など、満員電車の話ですか?というような、アートと関係ない意見も目立ちます。

これももったいない。

 

何度ブログで取り上げようと思ったことか!未だ畏れ多い。絵画の解釈の正しさなんてのはなく、楽しんだもんがち。しかもよりスリリングな形で...!この人の解説と観点ならアート以外でも何でも楽しく読めそう。日本人の苦手な聖書トピックから、大人気の血みどろヨーロッパ王家、ギリシア神話、古典ものなど幅広く網羅。

怖い絵 (角川文庫)

 

・・・という経験などがあったあとで、オランダに来てコレクションの素晴らしさに対し空いている美術館に驚き、喋っても写真を撮っても床に座っても怒られないことに感動しました。

真珠の耳飾りの少女も超近くで見れるし、ゴッホジャポニズム展も3周したし、バベルの塔なんか日本から帰って来たのを出迎えました。

トルコの博物館も庭に石柱は横倒しされてるわ、猫は自由自在に出入りするわで無法地帯だった。

全体的にゆったりしてるから小声で話す程度なら誰も咎めないし、子どもが走り回ってても全然余裕。

より作品と人間がインタラクティブであるなぁと思いました。

それは飾られるのみで、自ら言葉を発する術を持たない作品にとっても良いことなんじゃないかと思います。

 

そしてワタクシの永遠の憧れでもある、アンドレ・ブルトン的なことをやってみたかった。

「私の好きな作品群はシュルレアリスムとします!(バーン!)」→本になる流れとか、最高じゃないですか。

自分の好きなもの群を系統付けて新しい名前をつけるって意外と大変そうだけど...

でも多分いわゆるアートの〇〇派なんてだいたい後付け的だし、後世のオタクたちによって名付けられたものでしょ。

 

澁澤龍彦も大絶賛のキュレーション力。確かこの本で『聖アントニウスの誘惑』(多分表紙?)というキリスト教百鬼夜行・魑魅魍魎な賑やかでドストライクな主題を知った。ウンベルト・エーコも芸術集大成的なことをしたけど、守備範囲の広いブルトンの方が個人的には好み。こういう本は青山ブックセンターが強い。

魔術的芸術: 普及版

 

あと最近遠方の友達と電話してて気が付いた。

好きなものや人を褒めるのめっちゃ楽しい。

「頑張って」とかじゃない、そのまま十分頑張ってるから!あなたは!!!

 

Facebookのいいね(ハートその他もあるけど)で終わっちゃもったいない。

電話で話すように具体的に褒めちぎりたい

スクロールしてボタンを押すだけなら、回転寿司で流れてくる皿を「美味しそ〜」と思うのと同じ。

自分で選択し、手を伸ばし、皿を取り、実際に咀嚼しなければ。

そこで初めて、単なる情報の集合体だと思っていたものが意味を持ってくるのではないかな。

これは情報過多・飽和社会でいちいち実行するのは不可能に近く、だからこそ「いいね」が開発されたと思うんですけど、ほんとにこれは記事にしろ何にしろに対し、自分の思いを数値化できているのだろうか。

というか、単なる数値化で終わっていいのかというね。

 

好きなものくらい、自分の言葉で表現したい。

 

直感的に好きというのも超大事な感情だけど、それもいっぱしの説明になりますからね。

 

...というわけで今回は私の好きなアート作品を、ブログ上ではありますが激励したいと思います。

応援上映ならぬ応援鑑賞?熟語の前半と後半の相性の悪さハンパないけど。

長ったらしい解説はなく、単に好きなものの好きな部分を褒めるという完全に自己満足な仕上がり。

絵画という表現の自由に鑑賞者の表現の自由を重ねた、タブルチーズバーガーです。

(これからこういうわけのわからない比喩がたくさん出て来ます)

作品間の流れは意識したけど、順不同!!!

文字だけなのに私のうるささを知っている人はすごくうるさく感じるかも。

 

スタート!

 

現在の私の好みを大まかに言うと「色をたくさん使ってるのに統一感がある」作品が好きです。

 

この嗜好に気が付いたのは、やはりオランダの誇るピエト・モンドリアン先輩のおかげかも。

 

いわゆる完全体の赤黄青黒白になるちょい前の作品が好き。

印象派の影響を受けつつ、自分の味を出そうとしている...

 

\\\\取り込まれたい////

https://i.pinimg.com/564x/ad/b4/78/adb478650c70579a44a6e2fa0f4c76ae.jpg

形もかわいすぎ....

ほんのりくぼみが赤くて、赤血球みたい。

絶対に何か受け止めてくれる形ではある。

ツモリチサトの可愛さの破壊力の高い色合いもここら辺から来ているのではないか。

かわいいのに毒がある、きれいなものには棘がある!

アメルスフォールトのモンドリアン美術館は小さいながらも粒ぞろいでしたよ。

 

モンドリアンがカラフル→モノトーン・三原色に行ったなら、その逆はオディロン・ルドンかな。

 

\\\\空は青だけじゃない//// 

https://d32dm0rphc51dk.cloudfront.net/F0Ro2FVLvmuNz_fUfru6MQ/larger.jpg

初期の人面花とか人面蜘蛛とかもティム・バートンぽくて好きだけど、この時期の開放感のある作風には敵わない。

タイトルにアポロンて入ってるのに、馬のテンション高すぎて全然頭に入ってこないし。

一番好きなのはキュクロプスの絵だけど、エピソードが悲しいから載せない(詳細は前述『怖い絵』参照)

下の部分が黒いのは奈落の底かもしれないけど、イカロスじゃないので落ちても死なないっしょ。

 

色はビビッドになるけど、動物の生き生きした感じはフランツ・マルクが最高だと思っています。

 

\\\\ていうか動物どこ//// 

https://www.kunst-fuer-alle.de/media_kunst/img/41/m/41_00607531.jpg

このレベルになると、動物を生命の輝きレベルで見ることができるんでしょうか。

共感覚的な...?

描写にしたって、オノマトペ以外で説明できなくない?

目のやり場にも困るな〜縦横無尽で、どこから始めればいいのか。

私はまだまだ馬のお尻(?)くらいしか見えません。

まだ原型をとどめている動物のシリーズもあって、なかでもネコ科が可愛くっておすすめ。

 

ここらへんから幾何学模様が多くなってきます。

そしたらパウル・クレーだ。

 

\\\\いつか夜の仄かな闇から現れ出て//// 

https://img.posterlounge.co.uk/images/wbig/poster-einst-dem-grau-der-nacht-enttaucht-378683.jpg

テンションが上がりすぎてタイトルを叫んでしまいました。

この作品は神保町の古本屋街で運命的な出会いをしたんです。

原始的であり神秘的、複雑な色使いの中での統一感、といった言葉では表しきれない。

初めて色鉛筆を買ってもらった子どもの遊び心の結果にも見える。

四角を組み合わせて色を塗るだけで、こんなに表現の幅があるものなのか。

このパッチワーク的な作品と関連してバウハウス・テキスタイルという可愛くて悶えるシリーズもあるよ!

興味のある方は調べてみてね。

 

クレーの相方はヴァシリー・カンディンスキーかな?

 

\\\\万華鏡と顕微鏡のマリアージュ//// 

https://www.wassilykandinsky.net/images/works/55.jpg

まっさらな空を見上げるときに、誰しもプランクトンみたいなのが見えるじゃないですか。

それがなんなのかはよくわからないけど、多分カンディンスキーが空を見上げたときに彼の目にはこう映ったんではないかと思う。

太陽でチカチカしてるのも相まって、微生物っぽいのがカラフルに見えたのかも。

そんな目の不純物をゴミと捉えずアートに消化する目の付け所がさすが...!

他の作品はその音楽性のせいか結構圧倒されてしまうものが多いんだけど、これは親しみやすかったのでポストカードを購入しました。

ミカヅキモとかミジンコとか懐かしい。

 

サイズ大きめにマーク・ロスコ!一番のお気に入りかも。

 

\\\\邪道にして王道//// 

https://i.pinimg.com/564x/67/0c/8e/670c8e08d0b6f2a43206dcbee5638a6c.jpg

まず何よりも、エネルギーがすごい。

これだけ有無を言わせない自信の満ち方を見せつけられると、たじろいでしまう。

でも絶対そこからもらえるエネルギーはマイナスじゃない。

方向的に丸く包み込むというより、前から受け止めて後ろから押されるので、多分同じ絵を自分を挟んで両側に置いたら体内の磁場が狂う

大好きで大好きで何度も見ているけど、いつか実物を見て日光浴ならぬ絵画浴がしたい〜

このアーティストはイカす美術教授に教わりました。

 

うーん、さすがにロスコ相手はちょっと疲れてきた。

波動パネぇって!

箸休めにはならないけど、気分転換にはなるかな、ロイ・リヒテンシュタイン

 

\\\\貫きたいからこそはみ出す//// 

http://www.artnet.com/WebServices/images/ll00086lldoX9GFgUKFJ3CfDrCWvaHBOcZJJE/roy-lichtenstein-imperfect,-from-imperfect-series.jpg

ただのアメコミ完コピおじさんかと思ってたらそんなもんじゃなかった。

これも偶然出会った作品。

見えるね、一度完全体を崩してみたくなる衝動がね!

でもそれは明確なゴールあってこそ。

タイトルのimperfectも納得で、否定形の接頭辞も元からある単語に付け足すもの(im)で、必ずしも不完全→完全ではなく、完全→不完全という流れもありなんじゃないか。

相互補完ですね。

やばい。ここまで抽象的な絵を相手にしてると文体が占い師みたいになってくる。

Moco Museumの展示、最高でした。

 

次はポール・スミスよりおしゃれだと私の中で話題沸騰中のブリジット・ライリー。

 

\\\\水面か森林か夕焼けかどこにいるの〜//// 

é¢é£ç»å

美しい自然を目の前にして、一体化する錯覚は誰しも経験があって、きっとこれはその視覚化したのかな。

クレーもそうだけど、こういう絵ってどこから書き始めて、何色から塗るんだろう。

斜めな四角形がゆったりした流れを作ってるけど、この色使いで落ち着き方は反則でしょ〜

エル・グレコくらいグイグイ三原色押されると引いちゃうんだけど、この人やデ・ステイル作品の引き際の良さというかなんというか。

今気がついたけど、両側に置いている色が暗めなので真ん中が浮かび上がるように明るく見えるぞ!

 

最後に、この方をもちましてを一度総まとめとさせていただきたい。

 

ダミアン・ハースト

 

\\\\全自動博物館おじさん//// 

www.instagram.com

まさかのインスタグラムからこんにちは。

正直一番好きな作品群はこれじゃないんだけど、その中でも全体の代表な気がした。

(架空沈没船を引き上げたベネツィアのシリーズが一番好き)

この狂気じみるほど整然とした色を並びといったら。

作品"群"というのも、彼の作品が多岐に渡るなかで必ずグループ化できるから。

そしてグループ間をつなぐキーワードが「コレクション」だと思う。

当たり前かもしれないけど、グループ内とグループ同士の作品群を全体像として見たとき、矛盾なく創作するというのはとても難しい。

何よりも作品量がとてつもないし。。。

コレクターと作家が一つの人間に存在することって有り得るんですねぇ。

 

<まとめ>

 

ダミアン・ハーストのコレクション/制作の仕方と、紹介してきた絵たちの「色々な色を使用するのに違和感がない」というのは似たようなものじゃないか。

これも人間の欲深さというか、自然にある色(もの)に名前をつけることで支配し、敢えて並べたり混ぜたりもしてみたい。

そうやって出来上がった作品は一目では違和感を感じるものの、おそらく誰しもが心の奥底では持っている欲望を具現化したものなので、見ているとなんとなく落ち着くのかな。

征服欲が満たされるというか。

それが色を研究し尽くした一流のアーティストによるものなら尚更なのかも。

そもそも「何かを描く・表象する」というのも、始まりは対象物に対して完全に一方的な行為だと思っている。

古代ギリシアの彫刻家のなかで「一から彫る(=作る)のではなく、もとから石のなかにある像を彫り出すのだ」みたいなこと言ってる人もいたけど。

難しい!難しいよ〜!

でも一方的に作り上げて出来上がった作品が、これまた一方的に発信するよりは鑑賞者と何らかの形で話せたほうが楽しいんじゃないかな。

すでにこの世にいない作者にとってはファンとの唯一のコミュニケーションツールであるし。

考古学もモノに対する再解釈が可能であり続けるから面白いのであって。

 

以上は厳選した作品で、もちろん今回だけで紹介しきれなかった作品がまだまだあるのと、次は絵画だけなく建築・写真・イラストなども入れられればと思います。

日本の現代のイラストレーターはたくさん好きな人がいるんだけど、もう少し古いと全然知らないな〜

私の知る限り日本芸術で紹介したなかで上の作品群に似てるの、田中一光くらいか。

浮世絵にインスパイアされてる西洋美術は大好物だけども。

 

以下は次回の参考文献です。

 

タッシェンさまさま〜!

もちろん表紙はロスコ。

Art of the 20th Century: Painting (Taschen Art)

あと理論を深めたいので、余力があればゲーテの色彩論でも読むかな。 

ゲーテほど全て事象に対するオタクもいないかも。

人生が足りたのか不安。

他分野の専門同士で話しててこの人に行き着くことが多い。

色彩論 (ちくま学芸文庫)

そうそう、きっかけは忘れたし何が何だかわからないけど気になってるシュタイナー

ルドルフ・シュタイナー 遺された黒板絵

日本のアートブック出版社の中でイチオシのパイ・インターナショナルも新刊で良い本出してるんだこれがまた。

デザイナーのためじゃなくて、鑑賞者にもヒントになることが多そう。

配色の教科書-歴史上の学者・アーティストに学ぶ「美しい配色」のしくみ-

前にも紹介したかもしれないけど、色を研究することは認知科学文化人類学言語学など幅広いです。

これは2017年の激おすすめ本。

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

それでは、また!

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