"Little Blue and Little Yellow" 2.0
こんにちは、もう六月ですね。
こちらもオランダなりに猛暑といいますか、日本の夏真っ盛りよりかははるかに過ごしやすいものの、30度を越える夏がやってきました。
日焼けサイコ〜!
あともう一つ、六月といえばPride Month🌈でした。
街中で虹色が目に入るようになって、今回のテーマは色にしようかなと思い色々読んでいたり、前に読んでいたものが色に関連しているものだったりと、まあタイムリーな結果になりました。
今のところセクシュアリティに関して言えば私はLGBTQ etc.には当てはまらないかな、と思っていたのですが、そもそもそういう「誰かが何かの枠に入る」という考え方を改めましょうよという、性別だけに留まらない問題なのではないかなと。
そうやってカテゴライズ、線引きをし続けてとどこかで誰かしらが仲間はずれになるわけで、そういうことじゃないだろ、という注意喚起なのですね。
まあこんなことは先賢の有難いお言葉二番煎じにしかすぎませんが、私にもやっとそこらへんが掴め始めてきたというのは個人的に自分の人間としての成長が嬉しいし、考えるきっかけを与えてくれた人々や環境に感謝するばかりでございます。
そういった意味でのオランダ生活の意義は大きいかも〜
うん。
でもね、多分本編はあまり関係ないかも。笑
それでも私なりに色々な意味での色について考えた記事なので、そこを楽しんでもらえると嬉しいぜ!!!
というわけで前置きはここら辺にして、目次ですよ皆さん。
堅苦しくて恐縮なのですが("恐縮"も堅苦しいな)、本論と補論①②に分かれる結果となりました。
本論だけでも完結しますが、補論①②は本論で取り上げる色以外の色についての参考文献の紹介といった形で考えてもらえるといいかと思います。
- 本論
- 補論①「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」ガイ・ドイッチャー/"Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages" Guy Deutscher
- 補論② 厳選!色彩系ステキ本(アート・歴史・ファッション)
- 『色で読み解く名画の歴史』城一夫
- 『配色の教科書 歴史上の学者・アーティストに学ぶ「美しい配色」のしくみ』城一夫
- "The anatomy of colour : the story of heritage paints and pigments" Patrick Baty
- "Pantone: The 20th Century in Color" Leatrice Eiseman&Keith Recker /『20世紀の配色 アート・ファッション・インテリアの流行が彩る』
- "Color Collective's Palette Perfect: Color Combinations Inspired by Fashion, Art and Style" Lauren Wager /『配色スタイル ハンドブック 思い通りの空気感を演出するカラーパレット900』
- おわりに
本論
『マチネの終わりに』平野啓一郎
かなりの話題作で、ずっと読みたかった平野啓一郎先生の作品。
といいつつも、注意力散漫な私にでさえも「読みたい」を持続させるこの本が持つ力って何だろうとずっと考えていて、表紙だな、と思いました。
驚くことにそれは読み始めてからも続くのです。
内容に対する感想は一言で言えば「時間の力を借りていない時代小説」でした。
もっと時間を置いて寝かせないと、客観化して見ることができない。
小説って少し自分を重ねたり介入させたいときもあるけど、結局「小説だから」で済ませられるじゃないですか。
作品内に出てくる出来事である震災、テロリズム、PTSDなど、全てそれなりに私の経験の一部というのもあるのですが、うわ、今蒸し返さないでよって正直思いました。
やっと忘れ始めた頃だったのに〜ってね。
でもそこが著者の意図であるとも思います。
記憶の風化が起こりやすいのはまさに今このタイミングで、つまり人々が「忘れよう」と良くも悪くも前を向いている時期なのではないかと。
それでも読みたいと思ったし、読まなければいけないと思った。
そのためには専門用語や多少難しい言い回しを文中に散りばめるものの、それでさえも中心となるメッセージを伝えるための確固たる計算のもとで行なっている平野先生の小説家としての技巧が大きな部分を占めていると思います。
しかもそれらでさえ、あくまで男女の主人公の主軸の周りを回る、恋愛小説を形作る上での要素でしかない。
.....という複雑な全てのメッセージを伝えきっているのが表紙なんじゃないか。
白地に大胆な青と黄色で、一見おしゃれなモダンアートと言ってしまっても差し支えない。
でもこれ、もうちょっと目を凝らして(ここからは芸術鑑賞の時間です)、この二色が重なりあっている部分を見て欲しい。
緑、あるじゃん!!!!
この緑の部分がこの小説そのものであると思いました。
黄色と青の、どちらでもいいけれど、何かしら対立する二つの異なる要素を表象しているとします。
主人公の男女二人、二人の恋愛とそれにまつわる事件、書き手と読み手などなど。
これらは明らかに違う色が表すように、それぞれやっぱり独立した二人の存在で、交わることがないと思ってしまうけれど、それでも触れ合う瞬間(まさに英語での「感動」の場合のtouchedって感じ)があるじゃ〜ん、っていうのがこの緑、場所によっては青緑や黄緑になっていたりする。
下の部分の、青が黄色よりも少し面積が大きくて、黄色がそれに乗っかっている感じも良い。
タイトルを表紙に入れなければいけなかったという現実的な問題もあったのでしょうが、表紙全体が色で占められているわけでないのも良い。
タイトル部分の白を残して堆積している感じといいますか、時間をかけて溜め込まれた何か同士が触れ合う瞬間、というかさ。(プレートテクトニクス)(?)
まあこの何か同士は、これを踏まえると30~40代という世代である主人公たち、という解釈が一番有力かもしれないですね。
あ、そこで緑は当事者二人を知っていて第三者の視点から描く、平野先生そのものかもしれない。
でも、何で黄色と青なんだろう?
Pride Monthに言いたくないけれど、男女を表す色と言えば青と赤じゃないの?
....というのはもうみんなの子どもの頃の友達(私にとってはリア友なう)のレオ・レオニおじちゃんが触れているわけなんだ、というのが次章です。
『あおくんときいろちゃん』レオ・レオニ
絵本がすぐ手に入らなくてYoutubeの読み聞かせの動画を見ていたのですが、すごい世の中だなと思いました。
本のオンライン上でのコンテンツ化について、色々考えさせられてしまう。
それはさておき、まずタイトルから。
これ、原作の英語版では"Little Blue and Little Yellow"なので、”くん”や"ちゃん"でそこはかとなく読み取れてしまう性別は与えられていません。
これはもったいないところ!
と、思いきや英語版でもlittle blueは後ほどheが使われていましたが、little yellowは文脈的に代名詞で表す必要がないので良くも悪くも放って置かれていました笑
うむ。
ハイライトとしては、「うれしくてうれしくて緑になってしまいました」という衝撃的な一文で表される通り、littile blueとlittle yellowが抱き合っているうちにお互いの境目がなくなり、緑色の新しい一個体が誕生してしまう、というところ。
...という状態をこういったややこしい専門用語を一切使わず表現できてしまうのがレオ二おじのすごいところ。
原文でセンスが爆裂しております。
Happily they hagged each other
and hugged each other
until they were green.
each otherの繰り返しによる詩的な印象はもちろん、becameではなくwereを使っているところもポイントが高い。
日本語で訳するといずれにせよ「なりました」ですが、なんだろう、これは後ほど二人が再び元の色に分裂してしまう後半部分から振り返って、移行期間しか表せない「緑色になった(=became)」よりも、完全な状態である「緑色であった(=were)」ということを強調したかったのではないか。
このモーメントが重要なんですね。
ひとときでも二人はお互いの境目を忘れて一つになった...というともう完全にアレですが、そういうことなんでしょう。
平野先生に言わせてみるとこんな感じ(拍手)
常と異なるというだけでなく、どこか本質的に自分を見失い、自らを相手にすっかり明け渡してしまう喜び 。
少し悲しいけれど、「緑になったまま二人は幸せに暮らしました」だと普通の絵本なんですよね。
そこを一度「お互いの両親が緑色だと認識できない」という至極真っ当且つ「色でしか自分の子どもを判断できない親」という壁を乗り越えるために、二人は一度元に戻るんですね。
そして緑へのなり方を親たちにも説明するという賢さを発揮するわけなんです。
この成就→喪失→学習という普遍的な神話エッセンスを最もシンプルで美しい手法で散りばめてしまうところ、まじでレオ二おじは永遠の子どもの味方です(合掌)。
"Little Blue and Little Yellow" 2.0 試論①
というわけで、私は『マチネの終わりに』は『あおくんときいろちゃん』のアップデートバージョン、つまり2.0として位置付けたいわけなんです、というと非常に強引ですが、この二作が共通で簡潔に「内容を表紙で伝えきっていること」というのは個人的には無視できませんでした。
(タイトルと見出しを英語版にしたのは先述した通り性別があからさまな日本語訳が気に食わないからです)
先ほど神話という言葉を使いましたが、やはり物語構造って何かしら全世界で普遍的なものがあると思っていて、それは近代以降生まれた小説などのフィクションでも少しずつ形を変えつつ同じ道を歩むと思うのです。
『マチネの終わりに』には冒頭にこんな一文があり、これが全てを伝えきっているといっても過言ではない。
人間には、虚構のお陰で書かずに済ませられる秘密がある一方で、虚構をまとわせることでしか書けない秘密もある。
虚構というと寂しすぎるのでフィクションと捉えたいところですが(敢えて「虚構」を使用している意味はもちろんあるはず)、この後者の「秘密」は「本質」と言い換えて捉えてもいいのでは。
神話世界でも非常に浮世離れしたことが起きまくりすが(=虚構)、でもそこには必ず隠れたメッセージがありますよね。
すごく回りくどいやり方けれども、やはりそういう形でしか伝わらない何かがある、というのは同じなんじゃないかな?
『色彩論』ゲーテ
はい、でもここで終わらないのがこのブログです。
むしろここから!
だって上記二つの作品の共通項である"成就"=「対照的でありながらも一緒になる」を説明するために黄色と青を使用した理由が明かされてないからね。
というわけでここで長期に亘る積ん読(沈黙)を破って放たれたのがゲーテ先輩による色彩論です。yey!
彼はまじで博覧強(狂)記で、違う分野同士の人と話していても「え、そっちでもゲーテいんの!?」ということがよくあります。
この色彩論も単体で有名だけれども、シリーズの一つとして位置付けられている感じかな。
で、やっぱりあったんですよね〜黄色と青に関する記述がね!
こういう瞬間がたまらない。
この本もね、一字一句きちんと読むよりは辞書みたいにパラパラめくるのが楽しい。
当時としては学術書だったのかもしれませんが、文体はさすがのゲーテということもあって詩的表現に溢れているので、内容そのものよりも美文を眺めるだけでも良いと思います。
出てきたのは四編「内的関連の概観」の最初のほう、「色彩の決定性」というところ。
(本当にパラパラめくっていてたまたま記述を見つけただけなので、 それ以前にも触れてる部分があるかもしれません。あしからず。)
一般的に見て色彩は二つの方向に向かって自己決定を行なう。色彩が提示する対立関係を我々は分極性と名づけ、プラスとマイナスによってひじょうによく表示することができる。
プラス マイナス
黄 青
作用 脱作用
光 陰影
明 暗
強 弱
暖 寒
近 遠
反発 牽引
酸との親和性 アルカリとの親和性
へえ、化学的専門用語はよくわかんないけど、光陰や寒暖がそれぞれの色によって示されそうなことはなんとなく納得がいきますね。
そしてすぐ次の部分。(下線筆者)
両側の混合
この特殊化された対立関係をそれら自身の中で混ぜ合わせても、両側の性質は互いに打ち消されることはない。しかし、これらの性質が平衡点にもたらされ、両者のいずれをも特に認識できないようにされると、この混合は目に対して再び特殊な性質を帯びる。すなわち、それは一つの単一のものとして現われ、そのさい、われわれは合成されたということをもはや考えない。この単一のものをわれわれは緑と呼ぶ。
キター!
回りくどい説明ではあるものの、割と緑も早く出てきてくれて私としてはスッキリ。
この記述は『あおくんときいろちゃん』とシンクロしますね。
対立し合うものが混ざりきって落ち着いている状態が緑なのか。
黄色、青、緑、それぞれの色についての言及もあります。
黄色は「光に最も近い色彩」で、「つねに明るいという本性をそなえ、明朗快活で優しく刺激する性質を有している」。...(ネガティブな印象も述べられています)
対して青。
「黄色がつねに何か光を伴っているように、青はつねに何か暗いものを伴っているということができる」。
お、以下の言い回しすごくかっこいいですね。(強調筆者)
この色彩は眼に対して不思議な、ほとんど言い表しがたい作用を及ぼす。青は色として一つのエネルギーである。しかしながら、この色彩はマイナス側にあり、その最高に純粋な状態においてはいわば刺激する無である。それは眺めたときに刺激と鎮静を与える矛盾したものである。
ここまで来ると哲学の域に入っちゃってるじゃん、という記述はこちら。
われわれから逃れていく快い対象を追いかけたくなるように、われわれは青いものを好んで見つめるが、それは青いものがわれわれに向かって追ってくるからではなく、むしろそれがわれわれを引きつけるからである。
日本語でいうと「吸い込まれそうな青」って感じかな?
そして緑。(下線筆者)
最初の最も単純な色彩とみなされる黄色と青をその最初の出現のさいにすぐ、その作用の第一段階において重ね合わせると、緑色と呼ばれる色彩が生ずる。
われわれの眼は緑色の中に現実的満足を見出す。二つの母色、黄と青が混合のさいにまったく均衡を保ち、どちらの色彩にも特に認められない場合、眼と心情がこの混合されたものの上で安らぐことは、単純なものの場合と変わらない。われわれはそれ以上を欲することもなく、またそうすることもできない。
ちょっとドイツ語と日本語の翻訳の都合上かもしれませんが、文がややこしい。
可もなく不可もない、均衡状態としての緑といった感じでしょうか。
ここでもやはり黄色と青が"親"(混ざる前の色)として出てきて、緑の個の色としてのこの二色に対する依存度が強いことが伺われます。
緑って自然のなかによく見られる色であったりと、落ち着くというイメージを持たれているし、真っ向から対立する青と黄の中間色として両者を落ち着かせるという意味でも役割と印象が合っているね。
黄色と青の対立も逆算的に生まれたものなのではないかと思います。
little blueとlittle yellowが緑の状態で泣いているうちに青と黄に分裂したように、安定している緑の状態を無理矢理解剖したら青と黄色が出てきた、そんな感じ。
...というわけで私はまた『マチネの終わりに』の表紙と内容の関連性について話を戻します。
"Little Blue and Little Yellow" 2.0 試論②
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる 。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです 。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える 。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか ? 」
私はここで試論①における解釈(黄色と緑は登場人物二人の象徴)を、記憶や過去の観点から見直したいと思います。
以上のセリフは主人公たちのうちの一人によるもので、二人が合ったときに交わされる会話の一部であり、このトピックは一貫して物語の中で度々触れられることになります。
私はここで、現在の主人公それぞれの状態を緑と捉えたい。
過去の嬉しかったこと(黄色)や悲しかったこと(青)が混ざっていてできあがった自分がある今、黄色と青のどちらに近い緑になりたい(未来)ですか?
というのが作者が伝えたかったことなのではないか。
もう色が混ざっていて判別がつかないものもあるけど、大体の人は緑として体裁を保ち、今現在を生きている。
もちろんたまに貯まった青が強く顔を出すこともある。
それか新しい青が新たに追加されるということもあり、せっかく今まで持っていた黄色でさえも薄めてしまうかもしれない。
でも私たちは黄色を自分の内外に見いだすことによって緑に戻れるんですよ。
それでも緑がなぜ緑なのか、何から成り立っているのかはいつも忘れない方がいいかもね。
だから視点の問題なんですよね。
この物語の結末は、主人公が様々な出来事を経て、お互いに緑になったからこそ訪れるものであると感じました。
この意見に対し、「過去は変えられない」とするのが村上春樹先生。イヨッ!
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹
これは『マチネの終わりに』や『あおくんときいろちゃん』と異なり、神話の仕組みが開示されている小説なので読みやすいっちゃ読みやすい、読みにくいっちゃ読みにくい。
好みが分かれるところです。
『海辺のカフカ』も古い神話を説明している新しい神話みたいなところがあって、私は好きでした。前知識がなくても勉強になる。
それにしても「色がない」というのは、どういうことなのか。
仲良し5人グループで、多崎つくる以外は全員名字に色がついている。
アカ(男)、アオ(男)、シロ(女)、クロ(女)。
...五人はそれぞれに「自分は今、正しい場所にいて、正しい仲間と結びついている」と感じた。自分はほかの四人を必要とし、同時にほかの四人に必要とされているーーそういう調和の感覚があった。それはたまたま齎された幸運な化学的融合に似ていた。同じ材料を揃え、どれだけ周到に準備をしても、二度と同じ結果が生まれることはおそらくあるまい。
...とはいいつつも、色の設定の時点でとりあえず反対色である同性キャラクター同士の対立は避けられないわけなんですね。
だから色をもたない、いやもたないからこそ色を自分で「つくる」ことができる彼の存在が必須だった。
アカとアオの間では紫になれるだろうし、シロとクロの間ではグレーになれる。
他の組み合わせが起こってもまた然り。
だから「ない」ことを少なくとも周りには求められていた。
...おまえがそこにいるだけで、俺たちはうまく自然に俺たちでいられるようなところがあったんだ。おまえは多くをしゃべらなかったが、地面にきちんと両足をつけて生きていたし、それがグループに静かな安定感みたいなものを与えていた。船の碇のように。
補っていたというより、溶媒に近いかもしれませんね。
でもこの役目は色を持つ人々がつくるに対して抱いていた想像であり、彼自身のなかでは色をもたないことにコンプレックスを抱いていた。
しかも五人が完璧すぎて、色で運命的につながったとも言える仲間以外とのつながりをもたなかったこともあり、他の人々がつくる人間関係と相対化できなかった。
この運命や完全体という神話もまた崩れ去るわけなんですが、その理由が後から種明かしされていきますね。
大筋としては主人公が「失った過去を取り戻す」物語なのですが、その行動の引き金となるのが以下の部分。(下線筆者)
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」。沙羅は彼の目をまっすぐ見て言った。「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を殺すのと同じだから」
「どうしてこんな話になってしまったんだろう?」、つくるは半ば自分自身に向けてそう言った。むしろ明るい声で。「この話はこれまで誰にもしたことはなかったし、話すつもりもなかったんだけど」
沙羅は淡く微笑んだ。「誰かにその話をしちゃうことが必要だったからじゃないかしら。自分で思っている以上に」
わ〜〜〜深〜〜〜い...
もう、「なんで話しちゃったんだろう」という、こぼれ落ちてしまった瞬間というか、これ臨床心理学だったら一番良いセッションなのではないか。
でもこの「辛い過去をつい話してしまった」だけで戸惑うつくるを、沙羅(つくるのデート相手)は「追求せよ」と促すのです。
これはとても辛いし、危険な作業です。
つくるからしてみれば、事件以来ずっと自分は青の状態のままで黄色が入ってくる余地なんてあると思えない。
でも沙羅は彼女自身の存在(助け)があるからこそ、青を掘り下げていくつくるにも黄色が見いだせると信じたし、それが他でもない二人の関係における彼女の役割だと確信したのではないか。
これを「辛い過去をもつつくるくん」を「助けてあげなきゃ」と上から目線ではないのも、彼女の使う言葉の節々に表れています。
クール。
こういう大人になりたいな。
表紙行きましょう、表紙!
お、ハードカバーと文庫、二パターンある。
村上春樹の作品こそ、国内外でも色々な形で出版されているので、表紙を見比べるのが非常に楽しい。
いいですね、二バージョンで使用している絵こそ異なるものの、同じアーティストです。
Morris Louis(モーリス・ルイス)という方。
この絵が一番有名じゃないかな?
まあ言わずもがな、私の大好物のジャンルでございます〜ありがとうございます。
帯の言葉は両方とも、小説内に出てくるなかで印象に残った言葉ではありませんでした。私にとっては。
にしても、春樹作品に出てくる「導く系女子」とでも言いますか、そういう子イイですね。
主人公の「ぼく」を翻弄する存在に見えながらも、小説として彼女たちがいなければ成り立たないんですよね。
ここではつくるを含む五人グループをパレットの上に乗せ、色使いを決めるのが沙羅なんですね。
"Little Blue and Little Yellow" 2.0 試論③ (結論?)
さて、過去は変えられるんでしょうか、どうなんでしょうかね。
『マチネの終わりに』と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は書いてある言葉たちこそ対立しそうなものの、メタメッセージは似ているのではないかと思いました。
過去のために過去は変えられないけれど、未来のために過去は変えることができるし変えても良い、という。
起こった事実そのものは変わらないけれど、これからどうなりたいかで事実の読み取りかたを変えても良い。
我ながら太字のとこ、良い言い回しができて満足〜
色のイメージ同様、自分の過去における青と黄色の普遍性は変えられないと思います。
当時自分が認識したものを、反対色に変えるなんて黒魔術もびっくりの技術です。
難しい。
でも私たちはそれでも緑でなんとかやってるじゃないか。
人工的にせよ、青ばっかりだったかもしれないところを黄色で中和させようとしてきたじゃないか。
そうすると優しい緑色になっていくわけで、でもそれには結構日々のメンテナンスが必要で...
...というのがこの小説たちの伝えたかったことであるし、『マチネの終わりに』の場合は表紙がそれにも出てるんじゃないの、というお話でした。
個人的には「過去に戻る」うえで、全くその過去に関係していない人(木元沙羅)に結果的に頼ることに多崎つくるの方が、『マチネの終わりに』の自分たちで頑張りすぎな主人公の二人より、共感できました。
人の力、借りて良いんだよ〜〜〜!
行ったり来たり、お疲れ様でした。
論文と違って字数制限がないので、「本来の結論とは直接関係ないかもしれないけど思考プロセスとして経たという事実は大事」な部分が書けるの、良いっすねブログ。
補論①「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」ガイ・ドイッチャー/"Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages" Guy Deutscher
この本、前も多分紹介したんですけどやはりあまりにも素晴らしいのでもう一度登場させていただきます。
素晴らしすぎる本というのは一文一文が素晴らしいので、目で単語を追ったあと頭で整理するのに時間がかかるんです。
面白くて一気に読めてしまうんだけど、内容が頭に入ってなかったかも。
噛まずに飲み込んでしまう感じというのもたまらないのですが。
日本語・英語ともに表紙とタイトルがもったいない感は否めないです。
それでも大絶賛が飛び交う本であるし、日本語訳も素晴らしいのでぜひ。
私は90歳を超えてもなお現役の言語オタクの祖父のプレゼントしました。
もう二年ほど前のことです。
色という一見世界共通(なはず)の概念に対し、ある言語使用者はそれを表現する術を持つ一方、そうではない言語を話す人もいる。
それに対して科学界は長年にわたり熾烈な論争を繰り広げてきたわけなんですが、以下筆者が出した結論がこちら。
そんなわけで、過去数十年にわたって集められたデータは論争の両陣営ーー貪欲な自然主義者と文化主義者ーーのどちらも完全には満足させられなかった。しかしむしろ、両陣営とも楽しく仕事に勤しんでいるというのが実情かもしれない。色の概念が主として文化に決定されるのか、主として自然に決定されるのかを心ゆくまで論争し続けられるからである(互いに意見が一致していては、学者商売は成りたたない)。しかし、どちらかになるべく偏ることなく証拠を見直せば、それぞれが真実の一部分を我がものとして主張しあっていることに気がつくはずであるーー文化と自然の双方に、色の概念を我がものと主張する正当な権利があると同時に、どちらの側も完全な支配権を握ってはいない。
作品内でももちろんきちんと説明されていますが、自然主義者は先天的なもの(身体構造や人種)、文化主義者は後天的なもの(環境)と言い換えたほうがわかりやすいかもしれません。
筆者は言語学者であり、ケーススタディとしてこの本の執筆にあたり色を選んだというだけで、他の部分にもきちんと目が向けられています。
数世紀前から辿る研究史(=論争史)を辿るのが興味深いのはもちろんですが、やはりこれらを俯瞰したからこそ持てる筆者の中立的な立場というのがとてもかっこいい。
青と黄色に話を戻せば、筆者はミリグラム単位で丁寧に対立するそれぞれの絵の具を測って混ぜ続けた結果、緑になったというわけなんですね。
そこでできた案牌や「どっちだっていいじゃん」という諦めからくるものではなく、良い塩梅が今たまたま生まれているだけだよってことなんだろうな。(アンパイとアンバイかけました、はい)
それは「特定の色を示す言葉が無いから」というだけである特定の人々を野蛮とみなしてしまうことでさえも”科学”とされていた時代よりかは進歩ありきの安定ですが、そこに胡座をかくのではなく、この姿勢をいつでも忘れないようにってね!
認知能力に関するかぎり、人類は基本的に平等だというのを認めたことは、二〇世紀が戴く王冠を飾る宝石の一つである。したがって現在では、民族・種族間の心的特徴の差異を説明するのに、まず遺伝子に目を向けるということはしなくなった。二一世紀の私たちは、文化的慣習によって、とりわけ異なる言語を話すことによって身についた思考方式の違いを正しく認識しはじめている。
この部分なんて、脳みそから出た涙が目を伝って頬に零れますよね。
本当にこういう仕事っぷり好き...
しかも最後の最後までのこの謙虚さ。
戦闘で並外れた武勲が立てられたと聞くときには、通常、戦況が思うように進んでいない兆候だと思ってまちがいない。戦争が計画通りに展開し、自軍が勝っているならば、個人の並外れた英雄的行為はまず必要ないからだ。武勲が必要なのは概して負けている側である。
本書で紹介した実験のいくつかはきわめて独創的かつ斬新なので、人間の脳という要素を攻略しようとする科学の戦いが、大勝利をあげた兆候ではないかと勘違いしたくなる。しかし実際には、これらの実験に見られた独創的な推論は、大いなる強さではなく弱さの象徴である。これほどの独創性が必要とされるのは、脳の働く仕組みがよくわかっていないからこそなのだ。
しかし汝後世の読者たちよ、われらがわれらに先立ちし者の無知を許したがごとく、我が無知を許したまえ。遺伝の謎は私たちの眼前で明るみに出たが、私たちがその大いなる光を見ることができたのは、先立つ人々が倦むことなく闇を探しつづけたからにほかならない。だから後にくる者たちよ、苦もなく達した高みから私たちを見下ろすことがあるとしたら、私たちの努力という踏み台があったからこそ、そこへ上れたのだということを忘れないでほしい。闇を手探りし続けるのは報われない仕事であり、理解の光が射すまで休んでいようという誘惑に抗するのは難しいからだ。しかし、もし私たちがこの誘惑に負けたなら、あなたがたの世は永遠にないだろう。
補論② 厳選!色彩系ステキ本(アート・歴史・ファッション)
とくにパイ・インターナショナルの本は家に置いておくだけで教養と風水がアガるのでおすすめ!!!
『色で読み解く名画の歴史』城一夫
ピカソの青の時代/赤の時代やフェルメールブルー、表紙のクリムトなら金など、結構使用する色によって作家のカラーが出ますよね〜という話。
もちろんそれは入手可能性(availavblity)と関連した、status symbolであったりもしたりしなかったり。
『配色の教科書 歴史上の学者・アーティストに学ぶ「美しい配色」のしくみ』城一夫
アーティストだけでなく、カラーセオリーを提唱した学者たちも含まれているので、もっとアカデミックに色彩全体のあれこれが俯瞰できます。
ゲーテも出てくるよ!
"The anatomy of colour : the story of heritage paints and pigments" Patrick Baty
中身はしっかり学術書ですが、分厚さと良い大胆な厚みと引用画像の使い方といい、観賞用にも最適な作り。
美術作品というより、内装(インテリア)における色の使い方の歴史がメインなので実用的・現実的な色の使い方が学べて面白い。
"Pantone: The 20th Century in Color" Leatrice Eiseman&Keith Recker /『20世紀の配色 アート・ファッション・インテリアの流行が彩る』
色彩見本帳の大御所、PANTONE(パントーン)の本をパイ・インターナショナルが日本語版に、という奇跡のコラボ。
20世紀に焦点を当てているだけあって、敷居の高い"アート"の他にも広告などの大衆芸術(立派なアート)も取り上げられていて、そこの比較が面白いかも!
PANTONEといえば、まさかの公式グッズがめちゃくちゃかわいいので要チェック!
特にポストカードセット、色ヲタの人が周りにいたらぜひプレゼントして一緒に遊ぶと良いです。
”良い色が全て自分の手元にある”ことでしか満たせない征服欲があります。
"Color Collective's Palette Perfect: Color Combinations Inspired by Fashion, Art and Style" Lauren Wager /『配色スタイル ハンドブック 思い通りの空気感を演出するカラーパレット900』
Color Collective というオンラインデータベースから生まれた本なので、ぶっちゃけ本を買わずともウェブサイトや著者のインスタグラムを眺めるだけでもおk。
こちらはファッションについて。
黒ばっかり着ていたんですけど、似合う色とか本格的に学んでみたいな〜
最近はオレンジとカーキがマイブーム。
おわりに
最近本編に力を入れすぎていて、身辺話まで持たないんですね〜
今そろそろ書き終わるのも日曜日の18時なので、もう家帰って簡単なご飯作ってNETFLIXのエヴァンゲリヲンを見たいので、今回も力入れません。
久しぶりにMADMAXも良いし、BeyoceのHOMECOMINGも応援上映しなきゃ。
最近嬉しいのは、SNS越しでも私のブログなりアップするコンテンツを楽しんでいる人が増えてきたということで、私の最終目標且つ最終形態である「好きなコンテンツと自分の境目が無い」生命体へ着々と近づきつつありますね!
その意味でコンテンツの意味は大きいですね、私がいなくなっても私のエッセンスがあるコンテンツは残るからね。
応援してくださる方、ありがとうございますほんとに!
私が楽しんでいることを楽しんでくれる人の存在、まじありがてぇよ。
来たる七月が素晴らしい2019年上半期の幕開けとなりますように。
それでは、また!